くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2012年07月

シンガーソングライター河島英五自筆の歌詞(作詞寿田道留)を基に、「のれ!それ!中里」実行委員会が平成11年(1999)8月22日に建立。
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河島英五は、神明宮境内ほかで開催された「中里城址古代ロマンコンサート」に3度にわたって出演したそう。
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中里神明宮と中里城跡史跡公園を繋ぐ遊歩道沿いにあります。
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中里城址イメージソング
「のれ それ 中里」
ある日ひょっこり縄文人が
中里の町を訪ねてきたら
復元された自分の住居を
平成人がながめていた
のれ それ 中里いのちの祭りだ
ある日ひょっこり平安人が
中里の町を訪ねてきたら
食べもの みんなやわらかすぎて
お腹に力がはいらない
のれ それ 中里こころの祭りだ
ビルディングだってグランドだって
田んぼも畑もストーブ列車も
あと千年すぎたなら
みんな いのちの夢のあと
のれ それ 中里 いのちの祭りだ
のれ それ 中里 未来に向かって
のれ それ 中里 こころの祭りだ
作詞 寿田道留
補作詞・曲 河島英五
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禰宜町は城郭の東北に位置します。北には大久保堰が流れます。
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寛永末の津軽弘前城之絵図には家数27があり、八幡宮の禰宜・社人の屋敷が並んでいます。八幡宮への参道道として門前町を形成していました。東端南側に制札場があり、その向かいには白山宮がありましたが後に八幡宮の相殿となります。
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散策していたらかつての大坂屋社宅がありました。
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東南には山王権現(山王神社・山王社、現在は大杵根神社、元禄10年建立・1697)がありましたが、田茂木町が成立するとそちらへ所属替えとなります。
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田茂木町は通称山王町と呼ばれます。山王神社の神木田茂の木(槻の木)にちなんでつけられた名称。御神木の田茂の木は元文4年に倒れています。
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明治22年以降は旧禰宜の屋敷はほとんど建て替えられて、八幡宮への参道も北横町の参道が発達したことで門前町としての性格も失われました。
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大杵根神社(山王神社)。弘前市田茂木町。ちょうど禰宜町との境くらいにあります。
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延宝5年(1677)の弘前惣御絵図には既に山王社と見えますが、永禄日記によれば元禄10年(1697)に禰宜町の東南に山王権現が建立されたといいます。他の調べでは元禄9年ともあり、僅かに差異があります。それ以前の言い伝えでは津軽信枚が青森市野内山王林の山王堂の分霊を遷したとも云われます。
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山王町はかつては田茂木町山王地区でした。この南部の山王地区は急速に宅地化し、昭和60年に田茂木町山王地区から山王町として独立しています。 よって現在の山王町に大杵根神社(山王神社)があるわけではないのです。
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鳥居が見事に壊れていました。ってことで鳥居はありません。
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御祭神は国作大己貴命、事代主命、天穂日命。
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青森県神社庁より…「大同2年征夷大将軍坂上田村麿勅命を奉じて、北陸より陸奥の東夷を討伐の際、賊の容易に退治し難きを知って、当神社を勧請し、神威を以って征伐せんことを祈誓し給ふといへども詳かならず、其の時、大杵根神社と称し奉る。
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元禄9年津軽藩主信政公の時今の地に社殿を建て安置し奉る。以後代々の藩公藩費を以て祭費営繕費を支出している。明治6年廃社となるが、時の神主長利仲聴の念願により明治8年再建し私祭として無格社となる。明治11年一般衆庶の参拝願出の趣許されて普通の神社となる。」
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かつては相当歴史深い神社かと思われるのですが、現在はかなりひっそりとしていますね。
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神額発見(笑)
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岩木七神社」といって坂上田村麻呂による創建と伝えられる七神社(横内の妙見宮(大星神社)、浪岡八幡宮、猿賀の深沙宮、弘前の熊野宮(熊野奥照神社)、岩木山神社、西目屋の毘沙門天宮(鹿島神社)、乳井の毘沙門天宮)を結ぶと巨大な北斗七星が現れるというものがあります。
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更に弘前市内にも北斗七星を象徴する寺や神社の並びがあり、この大杵根神社は弘前七神社(他、神明宮八幡宮熊野奥照神社東照宮住吉神社稲荷神社)の一つ。
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標柱より…
【禰宜町(ねぎまち)】
弘前城築城とともに町割りが行なわれ、弘前総鎮守八幡宮の神主(禰宜)と、別当最勝院の僧侶たちが多く住んだことから、町名になったといわれています。八幡宮への参詣道として、門前町を形成していたところです。
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【田茂木町(たもぎまち)】
元禄年間(1688年~1704年)に、家臣の城外移転のために町割りされました。元文4年(1739年)8月の大風で、町内の山王神社(現大杵神社)の御神木の田茂の木が倒れたという記録があり、町名はこの木に由来するといわれています。
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境内標柱の説明文は其之壱に掲載しました。
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旧郷社。祭神は上津錦津見命・中津錦津見命・底津錦津見命。海の神様ですね。岩木川の治水神、この地域の安全と五穀豊穣を祈願するためであったと伝えます。
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江戸期までは宝量宮と称していました。社伝によれば、文禄2年弘前藩祖津軽為信が肥前にいた豊臣秀吉のもとに参じようとした際、海上安全祈願のために当時河港であった板柳に海神を祀ったのが始まりと言います。
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その後は衰退しましたが、正保元年になって村民が大川(岩木川)守護のため再興を藩に願い出たところ、社名はそのまま宝量宮とし、祭神は大咋主命(山ですねぇ…)・虚空蔵とするように許可がおりました。
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そこで川端町の大木柳下に社殿を建立しましたが、出水の危険が多かったため、承応元年(1653)に現在へ移しました。
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一方、安政2年神社書上帳には為信建立の事は書かれていません。おそらく岩木川河港の一つとして板柳村が開発された江戸初期に水上交通安全を祈って村民が建立したものと思われます。
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安永3年に7代藩主信寧が、伊勢皇大神宮田扇等を奉納して祈願所としました。
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明治6年に海童神社に改名し、祭神を現在の海神3神とし、郷社に列しました。
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社宝の神輿は元禄15年に播磨国赤穂の浅野家が造ったものですが、浅野家断絶のために、たまたま大坂にいた当地の豪商若狭屋儀兵衛が買い取って奉納したものと伝えます。
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7月13日の例祭の神輿渡御は弘前藩内で最初に許可がおりたものと伝えられます。
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拝殿も本殿も造りが非常にかっこいいです。
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本殿前に立派な唐門!!
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かっこいいブロンズ狛犬!
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虹梁等も美しい。
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一の鳥居の向かいの家がないと想定すれば、拝殿から真正面に岩木山を望める構造です。
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