くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2012年03月

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護国寺から不忍通りへ。まっすぐ進めば目白通り(江戸清戸道)にぶつかりますが、そこまでの長く緩やかな坂道は「清戸坂(清土坂)」です。その清戸坂の案内板から日本女子大隣の人通りのない小路へ左折する歩行者専用道路は「幽霊坂」です。
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その幽霊坂から目白通りを横切ると今回紹介する豊坂。
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坂上の目白通りは1676年に御三家尾張徳川家の御鷹場があり、鷹狩りを楽しんだ場所として知られているそうです。目白台から坂を下ると東西に神田川が流れます。その神田川へ下りるルートにはいくつもの坂道があるわけです。
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目白台は西から「のぞき坂、宿坂、稲荷坂、富士見坂(以上豊島区)」、「日無坂(豊島区と文京区の境界)、小布施坂、豊坂(以上文京区)、胸突坂」etc…と数々の名坂が並びます。
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クランクが実に見事です。 坂名は坂下に豊川稲荷社があるところから名づけられました。江戸期この一帯は、大岡主膳正の下屋敷で、明治になって開発された坂です。
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坂下の先には神田川にかかる豊橋があり、坂を上ると日本女子大学前に出ます。
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大町桂月の「東京遊行記」にも明治末のこの坂を往来する海老茶袴の女子学生と早稲田の男子学生が描かれているそう。
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江戸情緒の中から猫が私を見下していました(笑)
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御祭神は倉稲魂命。寛政3年 (1792) 川守村氏子の再建と伝えられています。
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明治維新前は稲荷大明神と称えられ、 明治8年2月28日に稲荷神社と改号し村社。
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正一位稲荷神社。
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この正一位とは神様の階級みたいなもので正一位はその名の通り最高位を意味します。
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稲荷様は天長4年(827)に淳和天皇から従五位下を授かり、天慶5年(942)に正一位になりました。これは格下げされることがないのでほとんどの神社が正一位となっています。
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稲荷神社の場合は総本社の伏見稲荷大社が正一位であることから、そこから勧請を受けた全国の稲荷神社が正一位を名乗り、稲荷神社の異称のように扱われるまでになりました。
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大湊では近川稲荷神社の方が格式高い神社かも知れませんが、私がこちらへ訪れた理由は…高台にあるからです(笑)
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落書きはよくないです。はい。
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こちらの石がどことなく動物に見えました。
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お狐様の下の…
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見覚えのあるこの鬼…
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もしや…
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これかっ!!
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檜山城跡とその近くにある大館跡、茶臼館跡、国清寺跡と合わせて国指定史跡になっています。
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築城は康正2年(1456年)、元和6年(1620年)廃城。名物はもちろん檜山納豆(笑)
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檜山安東氏は、檜山城を居城として檜山郡(現山本郡)後は秋田郡(現北秋田郡・南秋田郡・河辺郡)をも支配した戦国大名です。
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元亀・天正の頃(1570~1592)には安東愛李・その子実李が織田信長・豊臣秀吉の知遇をえて勢力を拡大し、文禄3年(1594)の検地では、約7万石に近い知行を安堵されました。
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檜山城は、室町時代から江戸時代初期にかけて長く使用された山城で、標高145mの山頂から延びる2本の尾根を中心に平場、堀切を設けて要害とし、蝦夷館式馬蹄形山城とも称されます。
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東西1500m、南北900の土地には素人目で見てもはっきりわかるくらい曲輪、土塁等が見事なまでに残っています。上館、茶臼館、赤館、古城などの小字名を残しています。
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本丸下の削平地。
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城の中核である本丸、二の丸、三の丸は南側の最頂部に位置します。
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ここまで歩いて上るも大変なくらい(※車で上れます)。
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それにしても本当に山ですねぇ…。
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旧土橋跡。
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少し離れた檜山崇徳館付近にある御札跡。
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本丸以下の南側とこれら北側緩斜面の間の尾根には櫓跡があります。
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三の丸。
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隅櫓跡。
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ここからの風景は「秋田三十景」「市民が選んだ新能代八景」に指定されていました。
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歩いていて思ったのですが丁寧に様々な跡地に標柱が掲げられているので、城に全然詳しくない私でも当時の様子をとても想像しやすくてとてもいいですねぇ。
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本丸の北東約1250m地点に安東家の菩提寺国清寺があり、西北西700m地点には霧山天神宮、その沢をはさんだ南側に多賀谷氏の菩提寺多宝院があります。
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さらに、霧山天神宮と多宝院に挟まれた舌状台地には安東氏時代の御用場跡があったと推定されています。これらについてはまた後日記事にしますね。
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多賀谷氏の御納戸役などを代々務めた窪谷家の子孫の窪谷格也氏が、城跡を保存しようと山林買収に力を注いだそうで、親族が窪谷家の菩提寺である多宝院から分骨し、檜山城三の丸跡に墓を建立。
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※檜山城跡半分以上は窪谷家の所有地で昭和41年には、本丸や二の丸、三の丸の跡が窪谷家から市に寄贈。
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