くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2011年11月

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長勝寺の隣にある禅林公園の忠霊塔。
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忠霊塔(ちゅうれいとう)とは、近代以降の日本において建造された、国家や君主ために忠義や忠誠をもって戦争に出兵し戦死した者の霊に対して、顕彰または称え続けることを象徴する塔で、西南の役、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、満洲事変、支那事変、太平洋戦争、大東亜戦争のそれぞれの戦死者の遺骨を納めます。
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昭和16年(1941)に忠霊塔として着工、昭和20年(1945)完成。戦後である昭和23年(1948)5月9日にタイから送られた仏舎利(真骨二粒)を納めたことから仏舎利塔と名称を変えています。当時、水晶の箱におさめられた仏舎利は小さな厨子に入れられており、それを白象(人形)の上に乗せ、稚児行列が引いて300mの大行列が続いたといいます。奉安供養は百人近くの僧侶によって行われ、導師は曹洞宗大教師中根環堂老師でした。参拝及び見物客は10万人を越えたそう。
GHQによる撤去も免れている理由は終戦直後に名前を仏舎利塔に変えているから。当時は「忠」の字を釈迦の種字の「バク」で覆って隠したといいます。
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太平洋戦争終戦33年を記念してノモンハンや中国、比島など主戦場の土や砂利を持ち帰り、それを壁の材料に使用したとか。岩木川原からも重い石を必死に運んだそうです。これは旧岩木町兼平の産物である兼平石(新法師高館山の東縁部丘陵地から産出する紫蘚輝石普通輝石安山岩)のことでしょう。津軽地方にある鎌倉時代以降の石塔婆の多くはこの石を使用しており、藩政期につくられた石橋、報恩寺に埋葬された11代藩主津軽順承の世子承祐の棺の蓋石、近年では土手町商店街歩道の敷石など様々なものに用いられました。明治32年以降は生産を中止しているそうで、年代的にギリギリですが、仏舎利塔もまた兼平石を用いた代表的建造物として挙げられています。
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忠霊塔の文字は大八師団長菱刈隆閣下の筆によるもの。
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忠霊墓塔誌は錆びている上に、倒れてしまっており、管理は行き届いていない気がします。以前は個人管理でしたが現在は弘前市の管理下。
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中へは入れませんが一般公開されることもあるようです。1階の基室は資料庫と展示場。中央に本尊の釈迦座像を安置しており、周囲は小さな室に分かれており、その中には更に小さな区切りの龕(がん)があります。
かつてはさくら祭り期間中に市内各宗派寺院交替で慰霊供養が行われました。護国神社の大祭(4月30日)との絡みから、4月29日の天皇誕生日に縁者・遺族には夜桜を楽しんで頂き、翌日に護国神社を参拝するという流れだったそうです。現在は行われていません。
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かなり大きいですよね。
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遠くからでもその姿を見ることができます。
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浅瀬石地区の高賀野町内は市街地から一段小高い山手沿いにあります。
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この町内を縦断する生活路線が幹線市道浅瀬石・袋線で、町内の入口から出口までは急勾配の高賀野坂が続きます。
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なかなかの勾配でして、かつては冬になるとスリップ事故が多発したそうです。
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現在はロードヒーティングを施しています。
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黒石市内の数ある坂の中でも最大勾配が15%以上で最も急な坂と言われています。
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ちなみにこの地区はかつての浅瀬石城下です。情緒を探しましょう。
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坂下には保食(うけもち)神社があります。
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浅石城時代の武将が洗った馬を大木に繋ぎ、ここに無事を祈ったとされます。
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馬頭観音(観音堂、崇染宮)史跡に保食神社…神仏分離令ってやつですね。
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そして坂上には古木と火の見櫓があり、そこがこの地区の高台であることを象徴しております。
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更に坂から続く道のりを只管進みますと辿り着くのは…
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八幡宮。
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浅石初代城主行重公の勧請で代々の城主から崇敬されたそうです。
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城跡付近にあった絵の端にも描かれていました。赤で囲んだところ。青で囲んだところは大善院。
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ここの駒犬はみんな笑顔で何ともチャーミング(笑)
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ロバ?
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こっちはどう見てもウマ。
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やっぱりこれはロバだ(笑)
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創建は延暦年間(782~806)、坂上田村麻呂が東夷東征の際この地を訪れ戦勝祈願の為阿闍羅山山頂に大日如来を安置したことが始まりと伝えられています。
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建久2年(1191)円智上人が阿闍羅山山頂から大日如来を蔵館に移し高伯寺を開山、足利尊氏によって指定された全国66ヶ所の安国寺のうちの1つとして寺運も隆盛。ちなみに大安国寺が訛って「おおあんじ…おうわに」になったとも言われています。
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丑年の本尊ではないのですが、昔あるお坊様が病気を治していただくように大日如来に祈願したところ、夢枕に現れて「山の麓の温泉に身体を浸すと治る」と伝え、朝目覚めるとお堂の前に牛が寝ていたといいます。牛が案内した先は現在の霊泉大湯で、これが大鰐温泉の始まりと伝えるそう。大鰐から古くから続く丑湯祭りは大日様と牛への感謝の気持ちを込めて行われます。牛がまつられているのはこのような深い理由があったのですね。
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弘法大師。
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ぼけ厄除不動尊。
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その後一時荒廃しますが慶安3年(1650)3代弘前藩主津軽信義が帰依し大日如来を京都で修復させ社殿を再建。
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明治時代初頭に発令された神仏分離令により弘前城下にあった大円寺がこの地に移り現在に至ります。※弘前大圓寺が末寺の蔵館高伯寺を合併し連光山大圓寺となり移転、後に潮海22世が現在名(神岡山大圓寺)に改名。
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本尊の大日如来座像は(本来は阿弥陀如来像ですが何故か古くから大日如来と呼ばれています)鎌倉時代初期に制作されたもので仏師・定朝様式の寄せ木造り、津軽地方最古の仏像として大変貴重なもので国指定重要文化財に指定されています。
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仁王門は修繕中でした。
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大円寺のすぐ向かいに「はぎかつら」があります。
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桂の木に萩の花が咲き、高い香気を持つことで知られている萩桂は、大日堂の開祖円知上人が印度の鷲峯山の霊木の種子三粒を持ち帰って蒔いたものと伝えられます。樹齢七百有余念、赤い花の香りの高貴な大樹になり町民に愛されましたが、昭和18年に落雷により倒れ枯死しました。現在の若木は大正年間に町の有志により採種育成されたものを移植したものです。
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菅江真澄が大日如来を訪れた際に、「萩桂とて旧りたる一もとたてり。尚めづらしければこれをあふぎみるに、ちよふる大槻と根は生ひ雑りてあれば、これを槻桂ともいふとか」と記しています。
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