くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2011年09月

旧黒石城黒石陣屋(黒石城)と紹介してきましたが、今回は知る人ぞ知る新黒石城です。
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黒石市牡丹平。当時は物凄いライトアップで国道102号線からも一目でわかるほど派手な城だったそう。
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津軽家と豊臣家の歴史には深い関わりがあることから、この派手な新黒石城も豊臣の流れを組んでいるのでは?と思い調べたところ、城主は羽柴誠三秀吉でした。
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旧黒石城や黒石陣屋と同じく、黒石台地のキワにあり、南には堰が流れています。
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キワに位置する為、南側は崖であり、その道は急勾配の坂。
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街灯もなく暗い雰囲気です。
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坂下の堰沿い、はたまた堰を渡って続く道は細くて勾配もあり、この地形を利用して、未成年の自転車による進入、はたまた免許取り立ての若者による自動車の進入を防御する地形となっています。
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郭内から見下ろせばその高低差がわかりやすくなっています。
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土台の石垣部分は相当大きかったそうですが、天守閣そのものは意外に可愛い大きさだったそうです。
郭内は瓦礫が散乱しており、現在はっきりと確認できる遺構は東門のみとなっています。
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東門はその両側に小窓が付いており、中は空洞となっています。
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どのような用途で使用されていたかは一切不明。
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西門の痕跡は黒石陣屋の西門に類似し、典型的な桝形門であったことを確認できます。
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城内で使われていた畳は激しく腐敗しており、現在も人を全く寄せ付けません。
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当時の部屋は畳部屋で、脇息付きの座椅子、格子窓、更に食事は立派なお膳だったと伝えられています。
こちらは何らかの武器を格納していた箱でしょうか。
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こちらは井戸のようにも見えますが、中には江戸時代の陣傘を作る工程で出た廃棄物のような物が積まれていました。質的にはゴム製に感じました…少なくともペリー来航以降に持ち込まれた物と推測できます。
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こちらは恐らく当時の武将が使用していた兜と武器ですかね。
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確証こそありませんが、これらを用いて、現代のお座敷ゲームの定番「叩いて被ってジャンケンポン」をするには非常に危険であることは想像に容易く、以て現代のものではなく落城直前に用いられた武器であると考えて間違いはないでしょう。
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落城後しばらくはその形をある程度留めており、新たな城主にそのまま譲渡されたと聞きましたが、2008年10月20日未明、火攻めに遭って150㎡に渡り完全焼失。
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最後の城主、築城年月日…いずれも詳細不明ですが、恐らく多くの愛を生んだ城であったことは東門に取り付けれた説明文から想像できます。
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休憩3300円、宿泊4800円で庶民にも広く開放しており、羽州街道からの旅人の疲れも癒されたことでしょう。
えぇ~っと…なんか…ごめんなさい(笑)
ちなみに落城する前の写真が掲載された記事を見つけました。
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黒石市境松にあります旧黒石城趾。
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別名黒石館。有名な黒石陣屋が黒石城と呼ばれている経緯から現在は旧黒石城と呼ばれています。
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元弘3(1333)年末から翌建武元(1334)年の大光寺合戦にて「山辺郡二想志郡」「田舎郡上冬居郷」の地を得た工藤右衛門尉貞行が居館として築いた旧黒石城。
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後に大浦為信が旧黒石城を改修し、外浜地方支配の総代官所を置き、晩年には自ら隠居所として居城した場所です。
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旧黒石城は内広市館(東西推定180m×南北100m)、外広市館(東西南北推定約100m)、花館(南方)の群郭式構成。
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1km程東方にある黒石陣屋と同じ「キワ」にあり、南は小阿弥堰が流れ、現在は新しく新境松橋が架けられています。
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この一帯が黒石城郭だったのでしょうがその遺構は残されていません。
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土地の記憶…黒石の特徴的なキワが唯一の遺構といったところでしょうか。
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弘前の新寺町にあります稲荷神社。新寺町寺院街の袋宮寺の北、北側を寺沢川が東流。北新寺町はかつて同社の境内地。祭神は宇賀魂命、猿田彦神、大宮能売神。旧村社。
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津軽一統志によりますと稲荷大明神とあり、別当は浄土宗白狐寺(廃寺)、宝永5年(1708)10月22日4代藩主津軽信政の造営。信政公が和徳稲荷を信仰していたことは明暦の大火後の国元での代参、入部後の自らの社参、津梁院内への建立から明らかですが、熊谷稲荷と白狐寺建立は個人的信仰より、浅草における流行を見てのものと考えられます。津軽俗説選によりますと、白狐寺の稲荷神社に狐の形の石が2つあり、子供が軽くなれといって抱上げれば軽く上がり、重くなれといって引上げれば重く上がると記しています。
弘藩明治一統誌によれば4代信政が在府の折、武蔵国の仏体の稲荷が霊夢に現れ、信政は病気に。そのため宝永5年現在地へ堂社を建て尊像を移し、貞昌寺の良仙を別当職に任じ、別当寺として伊吹山白狐寺を建立し、社禄三石六斗を寄付。
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明治3年(1870)神仏分離令により、仏体は貞昌寺へ。白狐寺は廃し稲荷神社とし、品川町の胸肩神社の社人山辺稲尾に社務を祠掌させました。翌4年社禄は引上げられ、同6年村社に。末社の水神社は美都波能売神を祀りますが、天保8年(1837)館岡村(木造町)の田光沼から目の下六尺三寸の大鯉があがり、10代藩主信順がこれを神に祀ったのが同社の開基といいます。新撰陸奥国誌では同社は相殿とあり、末社には12の稲荷神社と猿田彦神。
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※白狐寺跡…新寺町の稲荷神社の別当寺で現在は廃寺。異吹山真月院と号し、天台宗、熊谷安左衛門(浅草・狐を巧みに操った行者)の勧請。白狐寺が訛って「バイコウジの稲荷様」と呼ばれていました。宝永4年(1707)正月に貞昌寺隠居入誉の願いにより、熊谷稲荷神が貞昌寺内の稲荷堂に安置。宝永5年に4代藩主津軽信政が新規に熊谷稲荷本社を建立し、御供米九石を寄付。津軽一統志によれば当寺を浄土宗、本社の稲荷大明神を宝永5年の造営とします。享和3年(1803)寺社領分限帳によりますと、明和2年(1765)本社稲荷宮の修復とあり、また天明8年(1788)より稲荷宮において、正月・五月・九月祈祷執行のうえ守札を藩主へ差上げるよう命ぜられています。文化3年(1806)の新製弘前分間総図には稲荷宮とともに当寺がみえます。葛西彦六日記によりますと、文化9年当寺において富籤興行がありました。明治時代初期の神仏分離令にて稲荷神社の別当職を免ぜられ廃寺。現在の稲荷神社横にある児童館の場所が別当白狐寺跡になります。児童館の西、道路を隔てた辺りに白狐寺歴代の墓石がありましたが、現在は貞昌寺に移されています。
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現在でも白狐稲荷と呼ばれているんですね。
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参道が細くて、正面から見ると気付きにくいのですが…
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こちらも鳥居が…
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以前紹介した高山稲荷神社の比ではないですけどね。
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境内には廃稲荷様も所々に。
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境内には建立当時のものと言われるイチイや市内最大級のケヤキなど多くの古木が保存されています。
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こちらの地図でもわかるように稲荷神社のすぐ裏手は昔の南溜池です。
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稲荷神社の横を境内に沿って右へと湾曲しながら裏手の稲荷橋へと下っていく坂。
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勾配としては平行する加藤坂よりも緩やかです。
加藤坂
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下る際、右手は稲荷神社の石垣等、左手は民家。
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古い坂道というわけではありませんが、横が稲荷神社の所為か独特の空気感を感じますね。あえて名付けるならばかつて坂上にあった白狐寺にちなみ、白狐寺坂でしょう。
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弘前市街地としては最大級のケヤキの所為でしょうか。
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実際に見ると相当大きいですよ。
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昭和10年でも未だ地図には存在していない坂道ですね。
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境内から稲荷橋を望む。大学病院、弘大医学部方面へは対となり、橋を過ぎると再び上り坂です。
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稲荷橋から境内を望む。

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