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久保田城跡(千秋公園)其之弐』からの続きです。
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報恩碑(明治21戊子年秋八月建立)。藩政時代から明治初期にかけて藩や県から表彰された人々が「おかみ」に感謝するとともに、若い人たちの奮起を期待して建てたもののようです。
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碑文はちょっと読み取りにくい状態。
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船木靱負紀功之碑(大正11年7月)。靱負は「ゆぎえ」と読みます。船木家は佐竹氏の前に秋田を治めた安東氏に仕え、土崎湊代官を務めた家柄。慶長7年(1602)安東氏が常陸穴戸に移った際、靱負は従いませんでした。代わって入部した佐竹氏は現在の千秋公園に築城するとき、靱負を特に普請方支配を命じ、更に久保田肝煎職としました。これにより、靱負は川尻一帯を開発したほか、八橋-寺内を経て土崎港に至る新道を開きました。その子喜兵衛も寛永8年(1631)通町川下より川口まで旭川の堀り替えを担当した工事支配として知られています。碑文…『舩木靱負紀功碑 世有治亂邦有盛衰通邑大都變為黍離麥秀之地荒原窮野化為棟連屋接之區俾人興桑海之感者古今所毎覩也能保其治盛而防其衰糺者固為政者所當務而使為政者克成其功者亦有從事服勞以致之力者也舩木氏世居于出羽秋田其家襲稱日靫負往時秋田氏在土崎城舩木氏仕之専任海備掌其兵舩慶長壬寅秋田氏遷封于常陸茨城當時舩木氏十一世靫負有故不從其歳佐竹侯來封于秋田翌年相地于神明山築新城以為藩府尋營市街闢道路修川流舩木氏以地之舊族從事服勞開府之業皆與有力焉藩屡加賀賜給廩禄特優遇之又為市正兼監運舩舩木氏辭其廩禄唯職俸以自給爾後國家無事舩木氏世守其職幾三百年可謂善處於治盛之世也既而明治戊辰皇政維新百度更張辛未定廢藩置縣制佐竹侯徙于東京藩城廢為墟縣人因建藩祖祠曰秋田神社歳時祭之又設公園為衆庶遊觀之地縣廳兵營及諸廨舎與市街相聨鐵道亦置停車場於是棟連屋接遂不失治盛之觀者固雖昭代縣治之所普及抑亦非曩時相地開府得其所之故哉舩木氏亦承餘慶以保其家可謂不忝祖先也今茲辛丑適當藩祖來封三百年紀縣人因欲設祭典於神社以頌其徳於是追念舩木氏之勞者胥謀欲建碑於神社域内以紀其事其裔孫四郎治屬余以文余及叙其概略為之銘曰 維昔封建 高城深池 市井區畫 經緯有規 誰服其勞 維舩木氏 奉公累世 祖孫濟美 母謂郡縣 城復于隍 公園鐵路 更觀國光 藩祖之祠 士民來謁 勒石其下 芳名不没 正四位子爵佐竹義理篆額 狩野良知撰 農商務次官從四位勲三等田中隆三書』※自信ありません。
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歩兵十七聯隊之碑(十七比島会長尾張三郎謹書)。
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久保田城表門。※本丸側から向かっています。
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久保田城表門は二の丸売店脇の長坂を上がりきった本丸に位置しており、久保田城本丸の正門で、一ノ門とも呼ばれていました。本丸の玄関口として警備上からも重要な地点とされており、南側には門の警備を担当する「御番頭局」、門の下手には侵入者を警戒する「御物頭御番所」を置いて厳重な守りを固めていました。この門は、絵図などの文献資料や発掘調査の成果をもとに、平成11年から2カ年計画で再建したもので、構造は木造2階建て瓦葺きの櫓門で、20万5千8百石の正門にふさわしい壮大なものとなっています。市民が選ぶ都市景観賞を受賞(平成13年度)。
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2層櫓門(1階:四方吹き降ろし屋根・2階:真壁造り入母屋屋根桟瓦葺き)。材料は1階部分が主にケヤキ材(鑑柱、冠木は材齢約250年)。1階部分外側は主にヒバ材。
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1階は桁行き(横)方向:5間(9.10m)、梁行き(奥行き)方向:2.6間(4.80m)。2階は桁行き(横)方向:6間(10.92m)、梁行き(奥行き)方向:3間(5.46m)。高さ41尺1寸(12.46m)。
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久保田城表門…『表門は久保田城本丸の正門で、一ノ門とも呼ばれていた。本丸の玄関口として警備上からも重要な地点とされており、左手には門の警備と管理をする「御番頭局」、門の下手には侵入者を警戒する「御物頭御番所」を置いて厳重な守りを固めていた。久保田城は慶長8年(1603)に築城して翌年に完成し、表門は元和8年(1622)に最初の建て替えが行われている。その後、寛永10年(1633)、安永7年(1778)など何度か火災に見舞われている。この門は、絵図などの文献資料や発掘調査の成果をもとに再建したもので、構造は木造二階建て瓦葺き櫓門であり、佐竹20万石の正門にふさわしい壮大なものとなっている。平成13年3月秋田市』
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秋田御城内御座敷廻絵図(「秋田沿革史大成」付録)。
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御物頭御番所。久保田城内の二ノ門(長坂門)の開閉の管理と城下の警備、火災の消火等を担当していた物頭(足軽の組頭)の詰所。久保田城内に唯一残っている藩政時代の建物。間口10.499m、奥行9.454m、総床面積125.70㎡、総事業費19,551千円(昭和63年3月保存修理)。秋田市指定文化財。
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御物頭御番所前から見た久保田城表門。
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御物頭御番所内。
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15.4
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御物頭御番所…『御物頭は秋田藩の行政機構の中では番方に属す役職であり、配下の足軽を指揮して二の門(長坂門)の開閉及び城下一帯の警備を担当した。御番所の南側14畳の部屋に物頭が詰めて登城者を監視した。北側には7畳半の休息所や台所・便所があり、中二階には8畳の部屋が配置されている。「国典類抄」などの史料によれば、御物頭御番所は宝暦8年(1758)に焼失したのち再建され、安永7年(1778)以降の火災では類焼を免れたと考えられることから、建築年代は18世紀後半と推定される。久保田城内で旧位置のまま今日まで残っている唯一の建造物である。昭和63年3月、保存修復工事を行い、平成2年に秋田市文化財に指定された。形式:切妻造南庇付、こけら葺屋根。間口:約10.5m(5.5間)。奥行き:約9.5m(5間)。平面積:約100㎡(30坪)。平成13年11月秋田市』
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久保田城跡…『久保田城は秋田20万石佐竹氏の居城である。秋田初代義宣が慶長7年(1602)入部し、翌8年現在地に築城した。天守閣と石垣のない城として知られている。本丸は明治13年(1880)7月の火災で全焼した。同23年公園として開放されその後千秋公園と称し現在に至っている。公園面積162,900平方メートル。平成10年10月秋田市』
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順路としては逆ですが西方(穴門方面)に向っています。
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あきた文化産業施設松下前。
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巨木。
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あきた文化産業施設松下前の坂道。
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松下門跡。
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松下門跡標柱より…『中土橋方面からの二の丸の入り口に位置する。藩政時代、正式な登城路は黒門側であったが、土崎、城下町中央部に近い松下門側も多いに利用された。門の周囲の縄張りは初代義宣自身が手がけた自慢の設計であったと伝えられる。』
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佐竹小路付近に下りてきました。
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この堀の向こう側を上った所に鐘楼(千秋公園時鐘)並びに茶室宣庵(加藤清正が朝鮮から持ち帰ったと伝える長さ約3mの手水鉢)があるようですがパス(※以下案内図参照)。
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時鐘は寛永16年(1639)、2代藩主佐竹義隆が城内二ノ丸の一角に鐘楼を設置したのが始まりとされ、幾度かの改鋳、移転を経て、明治25年(1892)に現在の位置に建設。昭和18年(1943)に太平洋戦争により供出され、同23年「平和の鐘」として復活。しかし、同43年には鐘楼(当時木造)の老朽化等の理由により廃止。現在の鐘は同48年に三たび復活したもので、公募による愛称「千秋の鐘」として、家臣・吉敷家の末裔が今も1日2回(朝7時・夜9時)時鐘を打ち続けているそうです。
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千秋公園の由来…『この公園は、秋田20万石佐竹氏の居城、久保田城の城跡である。久保田城は、慶長7年(1602)常陸から国替となった初代秋田藩主佐竹義宣が翌8年に築城したもので、天守閣と石垣のない城であった。明治23年(1890)城跡を秋田市が佐竹氏から借り受けて公園としたが、明治29年(1896)秋田県に移管され、造園家・長岡安平の設計により整備された。昭和28年(1953)再び秋田市に移管、継続的に整備、管理されてきたが、昭和59年(1984)に、15代佐竹義榮(よしなが)氏の意志により秋田市に寄贈されて、名実ともに市民の公園となった。千秋公園の命名者は、秋田県出身の漢学者・狩野良知で、「千秋」の由来は、秋田の秋に長久の意の千を冠し、長い繁栄を祈ったものと言われている。公園面積16.29ヘクタール。平成15年11月秋田市』
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案内図。現在地は赤丸。地図によりますと東海林太郎胸像・顕彰碑があるようですが、秋田県民会館解体に伴い一時的に移転していたようです。
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穴門の柳。
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旧下中城町標柱…『城内三の丸にある渋江、梅津両氏を主とした重臣の屋敷町で、城の搦手にあたる地区であった。』
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中土橋へ向かいます。
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久保田城跡石碑。
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中土橋門跡から見た大手門の堀。
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大手門の堀標柱。
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中土橋門跡から見た穴門の堀。
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穴門の堀標柱。
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中土橋。
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反対側(穴門堀展望デッキ)から見た穴門の堀。奥に中土橋通り。この場所は本丸に鎮座する八幡秋田神社の雄柳龍神由来にまつわる蛇柳がかつてあった場所かと思われます。
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