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秋田県にかほ市象潟町五丁目塩越。
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社殿隣りに上荒屋会館。
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かつての塩越村。塩越村についてです。元和8年まで最上領、元和9年から仁賀保領、寛永8年酒井預り地、同17年本荘藩領となります。元和9年の村高636石余。諸役として夜廻役銀6匁8分、山手役銀8匁8分、手繰船11艘分として355匁、鱈船1艘につき銀20匁。享保15年の村高1,061石余(本田636・新田425)・免5.6。宝暦11年の戸数423・人口2,150(男1,086・女1,064)・馬211、造酒屋4軒。天保郷帳では974石余。新田開発が幾度か繰り返されて耕地が増加。まず慶安4年中汐越の者により白雪川から水を引いた惣助堰が完成し水田110町余が開かれました。更に文化元年の象潟大地震で隆起した潟跡の開田作業が同3年から行われました。城下商人近江屋治郎右衛門を資金担当者とし、御本米役鎌田藤右衛門を責任者とし、工事担当者に当地方で土木工事の名手といわれている赤石村工藤伝作があたり、同6年までに47町歩余が開かれ、文政3年の検地で300石余が高付となりました。この開田により、元禄2年松尾芭蕉が弟子曽良とともに訪れ、象潟の美しさを松島にも並ぶべきものと賞賛した風景は瞬時にして失われています。潟跡の保護を訴え開田工事に反対した蚶満寺の僧覚林は、朝廷権力を背景に藩に抵抗しましたが、遂に捕えられて獄死。塩越には大澗・小澗の良港があり、塩越城代及び町奉行が置かれ、港と町の支配に当たりました。本荘藩領の仁賀保地区の蔵米移出、また本荘・生駒氏領の塩・海産物その他の物資の移入で栄え、問屋7軒、千石船の持主4人を数えるほどで、本荘藩内の商品流通の中核でした。そのため藩からの御用金の徴収も多く、弘化5年には町方に対し450両の割当てがありました。寛永18年酒井預り地である隣村関村との間で境界紛争がありました。文化元年の大地震の被害は、潰家389・土蔵潰127・小屋潰192・焼失1・死者70余・けが人33・死馬4。戊辰戦争の際に戦死した佐賀藩の兵ら8名の墓が蚶満寺境内にあります。郷社の熊野神社、八幡神社があります。皇宮山蚶満寺(曹洞宗大乗寺末)は慈覚大師の創建といわれ当地方最古の寺院。他に両玉山光岸寺(曹洞宗蚶満寺末)・弥光山浄専寺(浄土真宗大谷派)・久遠山蓮成院(日蓮宗身延派)・経王山本隆寺(法華宗大門派)・金清山高泉寺(曹洞宗京都宇治興聖寺末)がみえます。明治9年の戸数589(うち士族6)・人口2,691(男1,341・女1,350)・馬158・船110(うち漁船96)・小学校の生徒数150人(男130・女20)。同22年市制町村制施行後も1村1大字の独立村として存続。明治29年象潟町と改称し象潟町の大字となります。
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御祭神は菅原道真公。由緒等についてはわかりませんでした。
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本殿覆屋。
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裏参道(日本海側)。
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7.5
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