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板柳町には深味八幡宮や杉山屋敷跡のほか、御成座敷、石田路、杉山渡などの縁の場所があります。
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杉山屋敷の入口左手に樹齢約400年の赤松とオンコ(イチイ)の木が根をからませて聳え立ちます。その盛りあがった根の上に高さ約70cmの石塔があり、南無観世音菩薩と刻みます。これは杉山家二代吉成が、杉山源吾の供養塔として建てたものと推定。弘前城へ出仕してから三上家が管理。跡継ぎは代々喜平と名乗り「鍵持ち喜平」(鍵持ちの喜兵衛)と呼ばれました。
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杉山源吾は慶長15年4月に津軽家が関ヶ原の戦いの功績で得た上州大舘(群馬県太田市)の地に移されます。嫡男吉成が生まれた年が慶長12年頃で、次男も翌年生まれましたが、この二人の生母朽木某女は、次男誕生後間もなく亡くなっています。よって二人の世話をしていた拓殖某女を随伴しての移転でした。移ったのその年、三成三女が津軽二代信枚に嫁いで、その嫁ぎ先がこの大舘なので、源吾は妹辰姫の世話役に任ぜられました。辰姫はその後大舘御前と呼ばれます。慶長18年に家康が姪の満天姫を養女とし、嫁がせたため辰姫は側室に降格。しかし辰姫は元和5年に三代目となる信義を生んだことで、津軽家と杉山家の縁を強く結ぶことになります。源吾の嫡男吉成は元和7年15歳となり元服し、信枚の招きで津軽家へ出仕し、300石を拝領、後には1300石の家老となって杉山家の基となりました。辰姫は、元和9年7月、我が子の藩主姿を見ることなく、32歳で生涯を閉じます。源吾はこの後、後妻となった拓殖某女との間に生まれた三男成保とともに江戸早稲田に移り住み、津軽家から400石の合力米を支給され、寛永18年に53歳で亡くなりました(※諸説あり。慶長15年4月28日に若死したという説等)。
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ちなみに2代吉成は寛文9年に蝦夷地で起こったアイヌの蜂起シャクシャインの戦いで、弘前藩侍大将として総勢700名で蝦夷地に渡海して幕府から褒賞を授与されています。この2代吉成を含め、家老職となったのは4代成武、6代成縯■(糸+演)、9代成章(家老格)、12代龍江(成知)の5人。家老にはなりませんでしたが11代成範(源吾)は、東奥義塾高校の前身である稽古館の11代総司に任じられています。明治には孫の13代燾之進が東奥義塾の七代塾長を受け継いでいます。12代龍江の時、津軽に豊国神社を再建して弘前城に隠されていた太閤秀吉像を祀りたいと、祖先石田治部少輔の名と由来をもって塩谷青森県参事に明治9年3月に公に願い出ていますが実現されず。しかしながら、維新後に豊臣石田三成の末孫を表明してはいたものの、この願い出によって杉山家が石田三成の子孫であることが公となりました。
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※杉山源吾(石田隼人正重成)…『天正17年-寛永18年(1589-1641)石田三成の次男。大坂では太閤秀吉公へ勤仕、五千石を領します。関ヶ原の戦い当時は12歳で大坂城にいて、父三成が敗れたことを知り、津軽信建の手引きで津軽深味の里に落ち隠棲し杉山源吾と名乗ります。津軽二代藩主信枚の側室大舘御前は妹』
※杉山吉成…『慶長12年-寛文12年(1607-1672)杉山源吾の長子、石田三成の孫。元和7年(1621)深味村より、二代藩主信枚に召し出され、はじめ三百石、後に累進して千三百石。寛文9年、松前の蝦夷反乱に幕命により侍大将として渡ります。』
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※三上家(源吾の家)…『三上家は神傅家同様の旧家にして代々喜兵衛と称し八幡宮の鍵を預り居るをもって鍵持ちの喜兵衛と呼ぶ。同人の屋敷は杉山祖先の屋敷にして「杉山屋敷」と称し東南隅に小高き社あり。天に聳ゆる老松二株及古桜一株あり、往時の面影を残せり。』
※深味杉山屋敷跡…『慶長5年、関ヶ原の戦いで敗れた石田三成の二男隼人正源吾が徳川方の追及を逃れ、海路津軽西浜に上陸。深味の地に亡命し、はじめ神家に身を寄せた。このとき源吾12歳。その後、杉山に姓を変え、守護神を祀りながら秘かにこの地で隠棲。源吾は一児をもうけ、慶長15年4月28日23歳でこの地で没した。2代目八兵衛は寛永10年、3代信義に召出されて1300石の本侍となり、この地一帯が杉山の知行所となった。弘前城下に移住するまでこの地で生活。今でも古老たちはこの地を杉山屋敷と呼ぶ。』※記載年は最近の考証と異なります。
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