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「板柳村尋常小学校の裏手より深味を経て太田に通ずる一路あり、杉山祖先の特に開きたるものなりと野翁、村童「石田路」という。また、渡あり、今は之なきがこの渡は「杉山渡」と称したりと云う。」
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2.5
ってことで石田路と杉山渡の紹介ですが、石田路(石田街道とも)はりんご園の中にあるそうで、りんご泥棒と思われたら嫌なので紹介しません。
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杉山渡も現存しませんが、杉山渡があった場所は現板柳町役場横になります。
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4.5
鶴田堰もあります。
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猫渡。
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せっかくなので「中央アップルモール」を少しだけ歩いてみました。
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紹介するのは役場周辺のみです。
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8.5
中央アップルモールは、日本一のりんごの里づくりを目指した自然のミュージアム。
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「りんごの路・水の道・歴史と文化の途」をメインテーマに、ふるさとセンターから大蔵町の約2.1kmを結ぶ散歩道。町の歴史や文化、りんごの情報を散策しながら学べます。
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後世へ残していくもの~町の宝~国指定天然記念物「声良鶏(こえよしどり)」…『「声良鶏」は鶏類中まれにみる至宝として美術的価値が認められている。大正8年(1919)に青森県声良鶏保存協会が創立され、昭和12年(1937)に文部省より天然記念物に指定された。「声良鶏」は、全身全力の限りを尽くして歌う。そして、自らの歌声に陶酔するように、時には歌い終えるとともに首を長く伸ばし顔面血色を失い倒れることもあるが、生気を取り戻して立ち上がるというまれにみる生命力を持っている。寛政時代より好事家によって、津軽の各地で鳴き合わせ会が催されてきた。「声良鶏」の特徴として、音色は大きく、低音・出ス声・付ケ声・中音声・引キ声から成っていて、その発声の時間は15秒から20秒くらいで、体重は4.5kgから5.5kgまでが優良鶏となっている。青森県原産の天然記念物「声良鶏」の歴史は、藩政時代にさかのぼる。中津軽郡岩木町大字高岡の津軽四代藩主信政公を祀っている高照神社には、津軽家二代藩主信枚公の槍の大鳥毛に「声良鶏」の羽が用いられていることから、津軽藩以前より飼われていたものと思われる。また、津軽家抱え画師鵜川益弘(常雲)に描かせた「声良鶏」の絵があり、およそ300年以上以前に描かれたものであるといわれている。全県に盛んになったのは、大正初期からで、大正8年(1919)には「河北会」「津軽会」の二派に分かれて鳴き合わせ会を催した。青森県声良鶏保存協会の会長であった板柳町の楠美繁悦氏は昭和22年(1947)頃から「声良鶏」を本格的に飼育し、昭和48年(1973)秋田県大館市で開かれた全国大会で優勝し、文部大臣賞を受賞している。また、板柳町の工藤栄造氏は青森県声良鶏保存協会審査長を務め、鳴き声審査の権威として、県内全域および秋田県までも出かけ、審査方法の指導に当たった。鳴き声が大きいことで有名なのが、板柳の伝兵衛系統といわれ、その名は現在でも残っている。』
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青森県指定天然記念物「無量庵のいちい」…『板柳町横沢の無量庵にある「いちい」は目通りの周囲3.02m、高さ7m、推定樹齢およそ700年でこの地方最大の老木である。昭和46年(1971)9月6日青森県天然記念物に指定された。「いちい」は、元来、寒冷地の植物で、オンコあるいはオコノキとも呼ばれ、板柳地域では開拓前にも自生していたらしく、仲町の龍淵寺裏にも目通り2.5m内外の老木が15、6本生えている。また、掛落林地区にはいちいの群落帯があったといわれている。「いちい」は昔から神木として玉串の材料としたり、笏を作ったりしたので「一位」の字をあて尊く扱った。無量庵の「いちい」は藤崎安東氏の隆昌時代からのものとみられるが、無量庵は火災時史料を失っているので、その由来は不明である。』
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青森県指定重要文化財「日本刀銘津軽住安宗」…『寛文12年(1672)の頃、津軽藩お抱え刀工の第一人者である、津軽住安宗作の技術的に優れた刀剣である。安宗の出生地は不明であるが、最初江戸の大和守安定(やまとかみやすさだ)門に入り、その後、京の近江守久道(おうみのかみひさみち)の門に学んでいる。寛文12年(1672)には宣旨(せんじ)を受け、陸奥守大掾橘盛宗(むつのかみだいじょうたちばなのもりむね)と改名し、扶持(ふち)50石で弘前藩お抱えの鍛冶となり、元禄4年(1691)70歳で亡くなっている。なお、盛宗・安宗ともに紀年銘のあるものはない。鎬造(しのぎづくり)、庵棟(いおりむね)で反りは浅く、寛文期の新刀の特徴的な形である鍛(きたえ)は、板目に小板目が交じり、刃文は小沸出来(こにえでき)、互(ぐ)の目乱れに足が入り良く冴えている。県内の安宗銘の作刀は少なく、また、後世に手の加えられていない生茎(うぶなかご)はこの一口のみであり、出来もよく貴重である。昭和56年(1981)4月18日、青森県重要文化財に指定された。板柳町の岩崎家所蔵。』
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与謝野晶子歌碑…『「まばゆかる大和錦と云へる名の林檎の枝にかかる月かな」。「みちのくの津軽の友の 云ひしこと今ゆくりなく 思ひ出で涙流るる 悲しやと、さまで身に沁む 筋ならず聞きつることの 年を経て思はるゝかな おん寺の銀杏の大木 色うつり黄になる見れば 朝夕になげかかるなり 忌はしく、ゆかしき冬の 近づきしこと疑ひも なきためと友は云ひてき 今われが柱に倚りて 見るものに青々たらぬ 木草なし満潮どきの 海鳴りのごと蝉の鳴く 八月に怪しく見ゆれ みちのくの板柳町 岩木川流るるあたり 古りにたる某寺の 境内の片隅にして 上向きに枝を皆上げ 葉のいまだ厚き銀杏の 黄に変り冬を示せる 立姿かの町びとの 目よりまた除きがたかる 寂しさの備る銀杏 うつゝにし見るにはあらず この庭に立つにはあらず おとろへし命の中に 北の津軽の 黄葉する大木の銀杏」。与謝野晶子「幻の銀杏」より』
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与謝野鉄幹歌碑…『「わが妻がとりて嗅ぎつつものを書く津軽のりんご赤くゆたけし」与謝野鉄幹』
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『【与謝野晶子】明治11年(1878)-昭和17年(1942)。歌人。本名、鳳晶。大阪堺市の和菓子の老舗、駿河屋の三女として明治11年(1878)大阪堺市に生まれ、堺女学校卒業後文学を志した。明治34年(1901)に出版された「みだれ髪」は浪漫主義の代表作となったほか、日露戦争当時、女性の立場から否戦の感情を表わした詩「君死にたもうことなかれ」は大きな反響を呼び起こた。晩年には現代語訳「新々訳源氏物語」を残す等、教育事業にも携わった。与謝野鉄幹の妻であり、11人の子供たちの母でもあった。昭和17年(1942)没。【与謝野鉄幹】明治6年(1873)-昭和10年(1935)。詩人・歌人。本名、与謝野寛。真宗の歌僧与謝野礼厳の四男として明治6年(1873)京都に生まれ、父や私塾で漢学和歌を学んだ。明治33年(1900)、文芸綜合誌「明星」を創刊。全国的に若者の支持を獲得、浪漫主義文学の根城を築き、翌明治34年(1901)、鳳晶(与謝野晶子)と結婚。数々の詩歌集や訳詩集、与謝野晶子との共著を生涯を通じて発表。慶応大学教授。昭和10年(1935)没。【与謝野鉄幹・晶子の板柳訪問】大正14年8月、与謝野鉄幹・晶子夫妻が板柳を訪れた。当時の資産家で町の文化発展に尽力した、松山鉄三郎の子、瑠璃(幼名まつ)が中央の雑誌に投稿した詩が、与謝野晶子に激賞されたといわれ、それがきっかけとなり、夫妻と交友のあった板柳の安田蛇苺(秀次郎)の働きかけにより来板。この時、松山鉄三郎宅に五日間滞在し、万葉集と源氏物語の講習会を開き、多大の感銘を与えた。』
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鶴田枝川堰、鶴田足水堰の歴史…『【鶴田枝川堰の歴史】慶長(1596-1615)年間に開削されたといわれる古い用水で、取水位置は浅瀬石川の田舎館村大字畑中地先(現在の田光橋付近)にあり、板柳町飯田集落付近の水田、県道藤崎~五所川原線(当時名称。現在の国道339号線か)と五能線に挟まれ鶴泊集落に至る地区の水田、旧六郷村胡桃舘、中野、山道周辺の水田350ヘクタールを潤していた。かつて、浅瀬石川の水量は、渇水時期に入ると上流十一ヶ堰で全量取水するため表流水は完全に枯渇するので、対岸の枝川三堰地域からの放流水を取水していたという。標高は上流部で約16mであり、水路縦断勾配は約千分の一である。取水元の河川水が不足がちだったこと、堰堤の老朽化により漏水が多かったこと、導水幹線水路が台地を通っているため掘削深が2-5mにも及んだこと、降雨時には土砂崩壊のため河床が高まり、かつ水量の損失も大きかったことなどから、水利用には苦労が絶えなかった。【鶴田足水堰の歴史】鶴田足水堰の開削(安田次郎兵衛の頌徳)。このような中にあっても開田は進む一方で、その用水不足は深刻感を増し、農民たちは常に水争いを起こし、時には流血にまで至ったといわれる。当時、赤田組・広田組・俵元新田組抱合の大庄屋安田次郎兵衛は、農民の窮状を見かねて、既に開削されていた五所川原堰の留切土俵を利用し、余水の引き入れを申し出た。最初は受け入れられず難行したが、五所川原堰・枝川堰の庄屋相方の間に協定がなされ、宝暦10年(1760)、足水堰の掘削に着手した。取水は藤崎町大字白子字三貫の河原地で五所川原堰取水口と並行にして掘削され、その規模は長さで五所川原堰の半分程だが、幅と深さではそれに匹敵するほどの大工事で安田家の多大な私費をもって突貫工事をし、板屋野木の宮下まで僅か一ヶ年で完成した。当時この恩恵を受けた水下の村々は、現在の掛落林、鶴田町大性、菖蒲川、鶴田、鶴泊、強巻、大巻、境、胡桃舘、中野、山道の十一ヶ村760ヘクタールに及んだ。(慶長年間に開削された母堰の鶴田枝川堰は、昭和62年に閉鎖され、その後は鶴田足水堰だけで灌漑されている。また、最高の水利用時は約1500ヘクタールに及ぶ)【豪商安田次郎兵衛】安田家は青森在の安田村、また若狭國(福井県)の小浜出身ともいわれているが、確たることは解からない。代々安田次郎兵衛を名乗り、貞享元年(1684)の「板屋野木町中屋敷書付控之帳」に、安田次郎兵衛屋敷表五間三尺五寸、裏廿一間五尺四畝二歩とあり、上町(現在の仲町)に住んでいた。41年後の享保10年(1725)の大旱魃の際に領内米不足のため藩より四万俵の買い上げを領内五人の豪商に命じられたが、安田次郎兵衛もその一人になっており、翌年には津軽藩30人の長者中、第2位を占めるに至っている。元禄3年(1690)4月21日、十三より鯵ヶ沢への小廻船が大風雨で十三の儀右衛門、板屋野木の次郎兵衛の二艘破損、六百十五俵海中に沈んだ旨云々…とあり、また、元禄17年(1704)2月1日、弁財船一艘、小泊村船頭次郎兵衛。拙者儀船所持仕り、所々へ商売物積み渡世致し申処云々…(藩日記)とあることから、当時以前より何代かにわたって、海運業により財を成したと思われる。また、安田家は単に大身上というだけでなく、優れた事業家であり、また慈善家でもあった。凶作、災害等の都度、藩より、御用米、御用金を命じられ、延べにすると莫大な金額を上納している。宝暦4年(1754)は寛延2年(1749)の大凶作で藩財政が窮乏したことから、倹約令を出した年であるが、次郎兵衛は自分所有の大半の田地を出入りの者や、元の地主たちに無償で分け与えている。宝暦5年(1755)赤田組、広田組、俵元新田組抱合の大庄屋を命ぜられる。安田家の最も偉大な功績は枝川堰水下の利用者の困窮を救済するため、鶴田足水堰を掘削したことである。毎年水不足に悩まされる水下の、特に鶴田六郷地域の農民は水の奪い合いを起こし、時には流血の惨事に至ることもあり、これを憂いた大庄屋安田次郎兵衛はこれを解決するため、自力をもって鶴田足水堰の開削を思い立った。計画は五所川原堰水戸口の水下に鶴田足水堰の水戸口を並行するため、五所川原堰関係者の反対にあったが、苦労の末各村々の庄屋と共に一切の迷惑をかけない一札を入れ、ようやく工事にこぎつけた。恩恵を受けるべき水下農民の協力は勿論のことながら、安田家の物入り(私費)で突貫工事をし、僅か1ヶ年でこれを完成した。平山日記に「これより其組カンバツの憂を滅ずること過分の由也」とある。また、水下の農民は、一反歩につき三合ずつ「安田米」といって出し合い、廃藩当時まで安田家に納め、その恩に報いた。明和3年(1766)正月28日、津軽地方一帯を襲った地震は、特に板柳地方は強く、未曽有の大災害となった。この時、安田次郎兵衛は菩提寺の正休寺に礼参に赴き、潰れたお寺の下敷きになり焼死。「同家の表口より裏口まで49間の家屋も潰れ、家族使用人の14人死亡。蔵、四万俵の米と大豆、その他重宝器財等、筆紙に尽くせぬ程、悉く焼失。この潰焼に1ヶ月余り火消え申さず。」と永禄日記、平山日記、梅田日記に記されている。この災難以来、人々から敬愛された「大安田」も天明年間に衰微してしまった。安田家の子孫は明治の初期、板屋野木村の村用係を務め、板屋野木初代の郵便局長等を歴任したが、明治18年、家をあげて函館に移った。』
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慰霊碑。何の慰霊碑かはわからず。
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徳富蘆花歌碑…「林檎朱にまるめろ黄なる秋の日を岩木山下に君とかたらふ」
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徳富蘆花…『明治元年(1868)生れ~昭和2年(1927)没。小説家、本名健次郎。熊本県水俣の郷土の家柄に生れた。兄蘇峰のほか一族に出色の人物が多い。同志社大学卒業。明治43年(1910)10月北海道漫遊の帰途に来板し、安田秀次郎宅を訪問してりんごの秋を賞観し有志一同と懇談を交えた。著書に「不如帰」「自然と人生」などがある。』
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大和田建樹歌碑…「しげりあふ林檎の木陰きて見ればたくはへらるる風もありけり」
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大和田建樹…『安政4年(1857)生れ~明治43年(1910)没。明治時代の国文学者、詩人。"汽笛一声新橋を"で始まる「鉄道唱歌」の作者として著名である。愛媛県に生れ、本名は晴太郎。東京大学古典講習科講師、高等師範学校教授などを経て多彩な作家活動を始め、数々の国文学に関する著作、詩歌、作詞、紀行文、辞典の編集まで幅広く手がけた。明治36年(1903)8月、安田秀次郎らに迎えられて来板した。板柳小学校校歌は当時の作である。』
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工藤大成歌碑…「つぎつぎに植ゑひろまりてわが里は林檎の里と世に知られゆく」・工藤大成……『明治元年(1868)生れ~昭和17年(1942)没。幼名辰五郎。板柳小学校の校長に就任するなど、その一生を板柳町の教育にささげた教育家。その一方で、大和田建樹らに歌の手ほどきを受け、昭和8年(1933)に詩集「楓村集」を出版。安田秀次郎らとともに中央の文化人の招聘に力を尽くした。』
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明治・大正の文化功労者…『【文化活動の中心になった板柳の人々】板柳町には、藩政時代の商人たちの豊かな生活の中から芽生え、培われてきた文化的気風がある。それが土台となって、明治20年(1887)頃から和歌や俳句、謡曲などが流行し徐々に普及され、趣味的傾向からしだいに専門化していった。その中心となった人は安田秀次郎(蛇苺)、工藤大成、松山鉄三郎、坂本元太郎、竹浪昌三、古坂大瓠(鶴太郎)、川口素酔(元三郎)らであった。特に、歌人の安田秀次郎と工藤大成、俳人の古坂大瓠と川口素酔は実作指導で、松山鉄三郎はこれらの人々の中心的存在として経済的援助面において、それぞれ文化形成期の功労者であった。彼らの最も顕著な功績は、多くの一流文化人を招へいしたことにある。【中央の一流文化人を招聘】明治36年(1903)には「鉄道唱歌」の作者として有名な国文学者で詩人でもある大和田建樹が、安田秀次郎、工藤大成、松山鉄三郎らに招かれて来板した。講演会、歌会、謡曲会などを開き、安田秀次郎宅に二泊して帰京。旧板柳小学校校歌は当時の作である。また、明治40年(1907)には俳人の河東碧悟桐が、竹浪昌三、川口素酔、古坂大瓠らの招きで来板し、この地方の俳人と句会を開き、二日間滞在した。明治43年には作家の徳富蘆花が安田秀次郎宅を訪れ、有志一同と懇談会を開き一泊している。明治44年(1911)には哲学者・教育者として有名な安倍能成が、安田秀次郎、工藤大成、松山鉄三郎らの招きで来板し、一週間にわたって哲学講習会を開いた。大正時代に入ってからも一流有名人の来板が続き、大正2年(1913)軍備制限論提唱のため来県した尾崎行雄を当時の板柳小学校長工藤大成、同窓会長竹浪集造らの有志が招き、講演会を開催した。大正7年(1918)には仏教哲学者・教育家の井上円了を松山鉄三郎が中心となって正休寺に招き、講習会を開いている。そして大正14年(1925)、与謝野鉄幹・晶子夫妻が旧友であった安田秀次郎を訪問。松山鉄三郎宅に五日間滞在し、万葉集と源氏物語の講習会を開き多大の感銘を与えた。明治から大正にかけ次々に一流文化人を招へいできた要因は、藩政時代から蓄積された経済的裏付けと、文化活動への熱意が盛り上がったためと考えられる。当時の人々に大きな影響を与えた一流文化人の来板が直接の因となり、以後、板柳の文化的気風が形成されたのである。』
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後世へ残していくもの~町の宝~板柳町指定文化財と天然記念物…『◆板柳町指定文化財【北畠家の旧家屋「古舘」と所蔵品】板柳町の館野越にある「古舘」は永禄元年(1558)に築いた一城であり、「直垂(ひたたれ)の袖」や「永禄日記」、後醍醐天皇より、北畠顕家(1317-1338)が拝領と伝えられる「錦旗」(63cm×39cm)等は、昭和59年(1984)10月26日、板柳町文化財第1号に指定された。【五雲山正休寺山門】正休寺は万治2年に開基された。山門は建築学上の鑑定により、寛政年間(1751-)の建物と推定され、切妻造、四脚門、組物平三斗、中備蟇股、笈形付大瓶束など、大胆な構成が特徴である。当時の宮大工の気概と技量が遺憾なく発揮された貴重な建造物で、昭和61年(1986)3月20日、板柳町文化財第2号に指定された。【旧板柳町役場正面玄関】明治32年(1899)板柳尋常小学校の正面玄関として建設されたが、昭和2年(1927)板柳町役場として転用された。その後、板柳町郷土資料館に併設して保存した。非凡な才能と卓越した技能で華麗な洋風建築を数多く手掛けた弘前の洋風建築の先駆者堀江佐吉による作。堀江佐吉は弘化2年(1845)、代々、名匠を輩出した堀江家の五代目として現在の弘前市覚仙町に生まれ、祖父・父ともに津軽藩の宮大工であった。昭和61年(1986)3月20日、板柳町文化財第3号に指定された。【表町七福神舞】明治初期から表町の女性たちによって継承され、家々の祝いごとに招かれ演じられた。江戸時代末期に庶民の間で福の神信仰が盛んになったことに由来する。神主の御祓い・大黒天の舞・弁財天の舞・福禄寿の舞・恵比須の舞・毘沙門天の舞・布袋の納めの舞で伝承されている。「ミサイナ」という囃子詞がかけられるのが特徴。創始者は表町の飾り師、葛西惣助氏(大正9年没)の創作と伝えられている。昭和50年頃、表町七福神舞保存会となり、昭和62年(1987)5月22日、板柳町文化財第4号に指定された。【五林平太刀振り】由来は寛永年間と古く、豊作祈願の伝承芸能である。長さ1m20cmの太刀に銀紙で化粧したものを持ち、男女20人ほどが半てんに鉢巻姿で太刀をさかんに打ち合いながら踊り歩く。太刀振りには、虫を村の外に追い払うという切実な願いが込められている。勇ましい踊りに、太鼓、笛、鉦の合奏が華やかさを添える。現在、五林平太刀振り保存会によって継承されており、昭和62年(1987)5月22日、板柳町文化財第5号に指定された。【宝量大権現大幟】安政6年(1859)己未年の4月13日、当時の御蔵町(現大蔵町)氏子中が宝量宮に奉納したもので、麻製で、高さ12.35m、幅1.2mあり、平成16年(2004)2月26日、板柳町文化財第7号に指定された。◆板柳町指定天然記念物【「サワラ」と「イチイ」】石野地区の須郷家の祖先が、県境の西海岸須郷崎から板柳町に移り住んだ際(1600年以前)に持参した記念木。かつて、須郷家の庭に石野愛宕神社の社があり、このサワラ(推定樹齢200年)とイチイ(推定樹齢400年)は神木であったと伝えられている。平成5年(1993)2月19日、板柳町文化財第6号に指定された。』
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「板柳町には、"まるかじり"できるりんごがあります。」より…『【りんごまるかじり条例の制定とその経緯】板柳町では平成14年12月、食の安全と消費者の皆様に信頼される農業を確立するために、「りんごの生産における安全性の確保と生産者情報の管理によるりんごの普及促進を図る条例」(通称:りんごまるかじり条例)を制定しました。【無登録農薬問題の発生】平成14年(2002)夏、食の安全に敏感になっていた時勢の中、全国で無登録の農薬を使用していた問題が発覚。板柳町でも確認されるなど、事態は全国的な問題にまで発展し、板柳町にある全国で唯一のりんごを専門に取り扱う「津軽りんご市場」の流通も停止される状態に陥った。この問題で、無登録農薬の影響の及ぶ恐れがある周辺園地のりんごを含む約600万トン(約200万個)のりんごが焼却された。焼却費用は1,100万円だったが、焼却したりんごの損失額は約9,000万円にも及んだ。【りんごまるかじり条例制定】町はこの問題を重く受け止めるとともに、正確な情報収集とその開示による消費者の不安払しょくが第一と位置づけて、"県内で唯一"町内りんご農家の全園地のサンプリング調査を実施した。このため調査に時間を要し、青森県全体として安全宣言を遅延させる要因となり、その調査方法の賛否が再度マスコミに取り上げられ、混乱を招いた。しかし、最終的に大手百貨店などの「安全宣言より安心データ」「はるかに説得力があった全農家検査」、また、「板柳産りんごをギフトに」など、板柳町の施策を支持する発表が全国紙に掲載され、全園地の調査は間違っていなかったと確信を持った。今後二度とこのような問題が起きないよう、今一度「私たちは食べ物の生産者である」という認識を新たにし、安全・安心を消費者に提供するという意思の確立と今回受けたりんごのイメージダウンを回復するため、「りんごの生産における安全性の確保と生産者情報の管理によるりんごの普及促進を図る条例」(通称:りんごまるかじり条例)を、平成14年(2002)12月に制定した。【システムの概要】この条例により、りんごの生産における安全性の確保に係る「安全ガイドライン」と、生産者情報の管理およびその表示に係る「生産者ガイドライン」を定め、その審議機関として「ガイドライン委員会」と、全町的体制について協議するために「板柳町りんごまるかじり協議会」を設置。また、各ガイドラインの厳正な運用を図るための「板柳町りんごまるかじりシステム監察員」を任命した。まるかじり協議会とガイドライン委員会はITシステムの設置と並行して、りんごの品種ごとの栽培管理から農薬の種類、成分および農薬散布の時期まで徹底的に現場を分析し、「人的な農業ネットワーク」と「最新のITネットワーク」の密接な連携で実現を図ることとした。また、りんごの生産者情報を公開するとともに、消費者へのアプローチを強化すべく町に散在するりんごに関わる資料から「りんごってなーに?」をテーマとした「バーチャルりんご博物館」を併設し、健康食品であるりんごの普及促進を図る総合サイトの構築として総務省の支援を受け、平成15年内の完成を目指して実行した。【トレーサビリティの導入】大きな打撃を経験した板柳町が導入を求めたのは、「リスクの回避」という目的を満たす「トレーサビリティ(認証による安全の保障)」である。そして、そのための生産情報の公開をサイトで開始した。当町のトレーサビリティシステムは、[1]消費者が知りたい情報をリアルタイムに検索可能[2]生産者は多岐にわたる情報入力を容易に可能[3]日誌類の回収や安全チェック、情報公開が容易であることを条件にしている。【町をあげての取り組みに効果と評価】「りんごまるかじり条例」の制定とトレーサビリティの実施が評価され、平成16年(2004)3月に日本工業新聞主催の第3回電子自治体大賞、平成17年(2005)2月に毎日新聞主催の第11回毎日地方自治体大賞優秀賞を受賞した。板柳町のりんご農家では、安全管理と情報開示の必要性に対しての認識が年々高まり、情報を発信することによるメリットも理解されてきた。さらなる安全・安心はもちろんのこと、品質の向上に町の全りんご農家、JA、りんご市場関係者、そして町役場が一丸となって取り組みを続けている。』
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