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青森県弘前市大字新寺町。浄土宗月窓山栄源院貞昌寺。為信が母の菩提寺として大光寺に創建し、後に新寺町に移りました。由緒等については以前の記事を参照下さい。
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以前の記事
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月窓山貞昌寺には三成の三女辰姫(大舘御前)の墓があります。辰姫は北政所の養女で弘前藩主信義の生母。二代藩主信枚の正室となりましたが、後に家康養女の満天姫が正室となったため辰姫は側室に降格。
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辰姫は7歳の時、北政所(秀吉の室)の養女になったとされ、北政所が秀吉を失った慶長3年あたりからのことで、関ヶ原の戦いなどがあった12年間を客人として密かに過ごし、三成と為信の関係と津軽に来ていた兄の源吾の存在もあり、北政所の養女として津軽家へ嫁ぎます。一方満天姫は福島正之がキリシタンの疑いで獄死したため、一子直秀を連れて実家に戻り、その後嫁いだ津軽家では、連れてきた子直秀を信枚の弟として受け入れ、後に家老大道寺の婿養子となります。満天姫にも信義誕生の一年後に信英が生まれますが、信枚は年長を理由に満天姫を説得し信義を三代目にします。信英は近年となって側室の子であると分かりますが、信枚はそのことを知っていた可能性があります。満天姫は、辰姫が亡くなった後、江戸屋敷に移された信義を、嫡子として育て、信枚もこれを幕府に認めさせて津軽家の後継ぎとして届けています。満天姫が連れてきた子、大道寺直秀も31歳となり、自らの出自を知るようになり、改易された福島家の再興を願うようになりますが、満天姫は津軽家を案じて我が子の盃に毒を盛ったことで絶命。杉山家が現在まで生き延びてこれたのは、この辰姫と満天姫が強固な基礎固めをしたからであると考えられるのです。
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津軽家と石田三成は、為信が嫡男平太郎を連れて関白秀吉の小田原陣を訪ねた際に縁ができました。秀吉は為信の参陣を喜び、平太郎の元服について差配するよう三成に命じ、三成は烏帽子親を務めました。平太郎(信建)は後に大坂へ上り、京へ出た弟の信枚と共に上方の政治情勢を実見するようになります。秀吉の死後、津軽家は家康に接近。徳川は、三成の一族には寛大であり、三成の三男三女のうち、二男と三女が津軽家と縁を持つも、特に表立った咎めはありませんでした。三成の本拠佐和山城が落ちた時に重成は大坂におり、そこから深味村に知行所をもらって隠れ住みました。この時重成は12歳くらいで杉山源吾と名を改めました。辰姫は上野国大舘(群馬県太田市)に住んだことから大舘御前と呼ばれました。この地は関ヶ原の戦いの論功行賞として津軽家に与えられたもので、大舘の東楊寺(天台宗)に辰姫の墓所があります。家中対立の危機を乗り越え、正保3年に三代藩主信義が東楊寺から母の遺骨を引き取り、菩提寺であった弘前貞昌寺に葬ったといいます。その時、母の死からは既に23年が経っていました。
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六地蔵。
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南無阿弥陀佛。
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慈母観音・無縁塔。
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山田純三郎先生紀念碑「永懐風義」(蒋中正題)…『山田純三郎先生墓碑 中國國民革命之艱苦奮門中本黨得日友山田良政與其弟山田純三郎之助力甚多當山田良政先生在恵州之役赴義戰死本黨總理孫中山先生兩次撰文並親書墓碑讃其為人道之犠牲亞洲之先覺者其後山田純三郎先生逝世本黨總裁蒋介石先生為其題紀念碑曰永懐風義以紀念其有革命道義而永誌不忘也一門難兄難弟同為忠義模楷猗歟賢哉 中華民國陸軍一級上将何應欽敬撰并書 中華民國六十四年三月二十九日黄花崗起義紀念日』※蒋中正=蒋介石
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山田良政先生之碑(孫文謹撰并書・民國八年九月廿九日)…『山田良政君弘前人也庚子閏八月革命軍起恵州君挺身赴義遂戦死嗚呼其人道之犠牲亞洲之先覺身雖殞滅而其志不朽矣』
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天下上人無極道者宗祖圓光大師。
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平尾魯仙(平尾魯僊)先生之墓。
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「明治十三年二月十二月二十一日歿」
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案内板「平尾魯仙・文化5年-明治13年(1808-1880)幕末から明治初期の頃の画人かつ国学者」より…『弘前城下紺屋町の魚商小浜屋に生まれる。名は亮致(すけむね)、通称初三郎。幼時から俊英で好奇心旺盛。母親に抱かれていた頃には既に百人一首を暗唱。八歳の岩木登山の折、麓から山頂までの全ての地名道順景色を覚え、画に描き周囲を驚かせ奇童画童と評判になった。また学問を好み書道俳諧を学び、画道を深める傍ら読書好古の人として知られた。十八歳の時、江戸遊学のため出郷を企てたが果たせず。天保八年30歳で家業を弟に譲り、画業と文筆に専念す。花鳥風月のみならず広い領域に彩管を揮った。精密な写実の筆で郷土の風物民俗を写した「合浦山水観」「岩木山百景」「暗門竒勝」等多くの画帳を残す。鯵ヶ沢高沢寺の「十王図」の地獄絵図は心血注いだ傑作である。安政二年、松前に渡り異人の風俗に接し、「函舘紀行」「洋夷茗話」として記録。微妙詳細な観察による画は、開港直後の函館を鮮明に伝えている。元治元年、江戸の平田派の国学の門に入る。神秘幽冥の事象を極め、画風全体に高邁気韻漂い余人寄せ付けない独特なものがある。万延元年「谷の響」五巻を著す。津軽領内の異事竒聞に属するもの九十四話を集め、「合浦竒談」(安政二年)と共に津軽の民俗資料を伝える好資料である。また考古を好み、石器や土器、竒物の類にも興味をよせ、記録に留めた。その他紀行、著書が数多く、中でも群書を博覧抄録した「宏斎抄誌」150冊に刻苦勉学のあとがうかがわれる。更に生涯をかけたものに国学の真髄を探求した「幽府新論」八巻があり、前半四巻が江戸に送られ大いに注目された。明治十三年、七十三才の生涯を終えたが、三上仙年、工藤仙乙、佐藤仙之はじめ、山上魯山、山形岳泉ら多くの門人を輩出した。彼らは後の弘前画壇に大きな影響を与えた。』
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魯仙肖像と寄書き。
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暗門瀑布図(文久2年・1862)。
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閑雲下澤保躬墓。
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下沢保躬(1838-1896)は陸奥弘前藩藩士。長利仲聴に歌道、平田銕胤に国学を学びます。維新後、修史局に勤務の後、帰郷して「津軽旧記類纂」などを編修。後に岩木山神社の神職。明治6年新年歌会始に庶民が詠進することを建白し実現。明治29年6月29日歿(59歳)。通称は八三郎。号は閑雲、鏡湖楼、花蔭、玄風。
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裏面はくずし字が多くて字体も独特…私には読みにくかったため省略(※明治38年6月29日銘)。
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津軽家裏方菩提所。
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二代藩主信牧公の生母・榮源院殿月窓妙輪大姉。
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初代藩主為信公の生母・深徳院殿桂屋貞昌大禅定尼。堀越城主武田守信公の内室。
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三代藩主信義公の生母・荘厳院殿果諗崇吟大姉。大館御前、辰姫、石田三成の息女。
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※辰姫(大舘御前)…『文禄元年-元和9年(1592-1623)弘前藩二代藩主津軽信枚の側室。豊臣秀吉の正室北政所の養女として育てられます。弘前藩領上州(群馬県)大舘に住んだため大舘御前とも呼ばれています。徳川家養女満天姫が正室として信枚に輿入れしたため側室となります。三代信義の生母。』
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※津軽信義…『元和5年-明暦元年(1619-1655)弘前藩三代藩主。石田三成の孫。弘前藩領の上州大舘(群馬県)で生まれ、5歳で母辰姫と死別し、江戸の津軽屋敷に移ります。13歳で父信枚の跡を継いで若くして藩主に。百沢の大堂(岩木山神社)の修復、治水工事、津軽新田開発、尾太鉱山開鉱、牧場開設など多くの功績を挙げました。』
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墓石下部には、向って右に戒名の一部「果諗崇吟大姉」、中央に梵字「ア(胎蔵界大日如来)」と「誠以」という文字、左に「正保三年七月十三日」と刻まれています。元和9年ではなく正保3年になっている理由については冒頭で述べた通りです。
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初代藩主為信公の息女・東泉院殿清光恵林大姉。伊喜姫。
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案内板「津軽家裏方菩提所」。
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案内板「貞昌寺」より…『文禄三年(西紀1594)藩祖・津軽為信公が津軽を一統し本城を大浦城から堀越城に移転する最中に御母上様が逝去せられた。為信公は直ちに京都の近衛龍山公にお願いして、引導師として京都京極の浄土西山派総本山誓願寺・第五十八代及山大僧正の弟子・円連社寂誉法庵岌禎上人を召請した。その時の御尊母様の法名が「深徳院殿桂屋貞昌大禅定尼」であったところから、その供養のため現・平川市大光寺に貞昌寺が建立された。また開山を岌禎上人とした。その後、二代藩主・信牧公の御生母「栄源院殿月窓妙輪大姉」(白鳥家出身)、為信公の息女(三女の伊喜姫)「東泉院殿清光恵林大姉」、三代藩主・信義公の御生母(曽野=大館御前・辰姫、石田三成の息女)「荘厳院殿果諗(言+念)崇吟大姉」(杉山家出身)等が貞昌寺に葬られたことにより、津軽家裏方菩提所として元和九年(西紀1624)以来、津軽藩内浄土宗総録所として総本山知恩院より准檀林の寺格昇進の特典を蒙る。また寺禄六十石を賜り約二十数ヶ寺の末寺末庵を有している。』
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