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禅林街の下寺、耕春院構えの奥に位置する耕春山宗徳寺。曹洞宗。御本尊釈迦如来。江戸時代は耕春院と称しました。津軽為信公が慶長2年に津軽を統一し、高岡(寛永5年に弘前と改称)に町割を実施。二代信枚公が慶長15年に高岡城築城とともに領内神社仏閣の移転を命じて、翌16年から元和元年に高岡に移しました。これにより長勝寺、耕春院等の曹洞宗寺院はまとめて配され、続いて茂森町との間に空濠を掘って土手を築き、入口には枡形を設けて寺院街そのものを要害とする城の外郭としての構えを完成させました(長勝寺構・内12ヶ寺を耕春院構)。津軽為信の二男信堅が亡くなった時の葬儀は耕春院で行われ、また二代目住職連室麟奕が朝廷より僧号を拝領した高僧で信枚の帰依僧であったこともあり、信枚は耕春院に東根、岩木山を中心とする津軽の東側の曹洞宗の統括を命じ、百石の寺禄を与えました。記録では為信の代から百石に近い寺禄があったとされていますが、さらに現在地移転の際は、境内地、墓地の他、山林畑地を含む広大な土地を与えました。元禄13年の大火以前は三仏事、道元忌、十二月七昼夜の坐禅などの諸行事を執り行い大いに栄えました。
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津軽の長福山耕春院は、明治に入って2回の火災に見舞われており、また寺禄の廃止や檀家が士族中心であったことから荒廃が急速に進みました。明治45年に耕春院の本寺である加賀(金沢市)の龍光山宗徳寺が同じく荒廃が進んでいたこと、宗徳寺の末寺十ヵ寺のうち弘前に三ヵ寺、長勝寺・常源寺・耕春院と集中しており、津軽地方のほとんど、また南部地方の半数以上が宗徳寺の流派であることなどの因縁から両寺院の同時再建を図るべく協議を進め、加賀の宗徳寺が津軽に移転し、末寺である耕春院と合併し、耕春山宗徳寺が誕生しました。
※龍光山宗徳寺…『明治37年発行の「金沢明覧」及び棟方住職の「宗徳寺移転日記」』によると、「応永二十一年加賀国能美郡粟津郷若松城主時国信公、粟津郷に創建し、高僧の玉窓良珍を請して開山。天正十年戦火のため諸堂が悉く焼失し、仮本堂に多年住した。文禄三年小幡宮内大夫、父の菩提のため堀川角場町に再建し六月移る。直末十二ヵ寺(合併時十ヵ寺)、孫曾孫を合せれば九百三十二ヵ寺を有す。中林文英現住職たり。」と伝わります。当初龍谷寺(龍国寺とも)として開山、後に宗徳寺と改称。宗徳寺は開山した玉窓良珍とその門下が全国各地に教線を広げ、総持寺輪番地を勤めるなど大いに栄えましたが、その後、寺禄の廃止や士族の没落など時代の趨勢とともに荒廃。」
※長福山安養寺…『長福山耕春院の前身は、田舎館にあった南部方の田舎館城主千徳家の菩提寺の長福山安養寺(天文11年開山)。天正13年に五代城主千徳政武は田舎館城とともに津軽為信に滅ぼされましたが、その時の安養寺住職は宗徳寺玉窓良珍直系八代目の高僧明室禅哲であったとされ、その後為信が堀越に建立した耕春院の初代住職に招くことになります。』
※合併後の本寺、末寺について…耕春山宗徳寺の本寺は福井市禅林寺(玉窓良珍の師、普済善救禅師開山)。禅林寺の本寺は総本山総持寺。直末寺には龍光山宗徳寺から引き継いだ九ヵ寺(香積寺(柏崎)、四天王寺(津)、長勝寺(弘前)、常源寺(弘前)、長年寺(花輪)、長興寺(九戸)、大慈寺(遠野)、素玄寺(岐阜高山)、江西院(佐渡))。更に長福山耕春院末寺(藤先寺(弘前)、安盛寺(弘前)、正伝寺(弘前)、永泉寺(弘前)、川龍院(弘前)、盛雲院(弘前)、万蔵寺(弘前)、照源寺(弘前)、嶺松院(弘前)、鳳松院(弘前)、高沢寺(鯵ヶ沢)、宝沢寺(鯵ヶ沢))。■参考文献:宗徳寺移転合併百年記念「行持のしおり」。
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寺の什宝は度重なる火災にて焼失。元禄13年の火災では蔵経七千余巻、雑書二千余巻を焼失。文政元年の火災では伽藍再建のため富くじ興行をしています。明治5年の火災で全焼。明治44年に本堂及び山門再建。大正元年に加賀の宗徳寺を合併して耕春山宗徳寺と改称。時の住職は棟方唯一。棟方唯一は明治31年の特赦による免囚者を住まわせ、我が国の厚生保護の歴史に名を残します。昭和9年に黒瀧精一に宗徳寺を譲ります。
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珍しく貴重なものとしては、釈宗演筆の達磨図があります。鈴木大拙と共に世界に禅を広めた傑僧釈宗演が描いたもの。弘前出身の佐藤忠三(禅忠)が血書を書いて弟子入りし、禅修行の絵も描き禅を広める助けをしました。禅忠は夏目漱石の参禅の師でもある釈宗演の跡を継ぎ、臨済宗鎌倉東慶寺住職となりました。作品の多くは東慶寺の松ヶ岡宝蔵に多く蔵されています。禅忠の禅画は大変人気が高く、宗徳寺に禅忠の師が描いたこの達磨図を拝見に来る人もいるそうです。
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裏庭には竹が鬱蒼と生い茂り、竹林をのぞむ奥座敷では茶会が催されます。
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宗徳寺には弘前藩の重臣を務めた人々の墓が多数あります。それらのほとんどが立派な兼平石を使用(寛永-寛保期に集中)。梵字は釈迦三尊、釈迦如来、破地獄の印字「鴿(たん)」及び鳥八臼。禅の真髄を指す「祖師西来意」、「即心即仏」、「無位真人現面門」、「円」、「○」、「空・風・火・水・地」などが見られます。以前の記事でも触れましたが、著名な家として津軽家一族、大道寺、一町田、西舘、杉山、毛内、傍島、蒔苗、棟方、笹森家先祖、諸々の重臣たちの墓が立ち並び、
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特に杉山家の二代目から十四代目までの代々の墓石には「豊臣」の姓が見られ、杉山家が豊臣の姓を受けた三成の子孫であることを物語っています。
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「温明院殿宏量之悳居士」。高さ103cm(段含め158)、幅36cm、厚さ35cm。側面「明治二十八年九月二日。裏面「杉山龍江 行年五十五歳」杉山八兵衛成知(天保12-明治28)。石田三成子孫、杉山家12代。
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名は成知、字は初め八兵衛、後に龍江。津軽12代承昭の家老大道寺繁禎とともに弘前藩青年家老として活躍。幕末の戊辰戦争では庄内軍総督。箱館戦争には軍事総督として従軍。明治4年廃藩置県時に青森県權第参事。明治5年「奉請北巡建言」と題した明治天皇の東北御巡幸を請願し実現。今日の「海の日」のもととなっています。その後、中・北・南津軽郡長歴任。詩文にも長じ号は梅春。
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幕末・明治にかけての杉山家当主は成知・龍江で、長男の壽之進は明治30年から東奥義塾長。藩主からの経済的援助を失って廃校せざる得ませんでした。大正末期に再興した東奥義塾初代塾長笹森順造が青山学院長として転任するときに壽之進が贈った漢詩があります。「岩山舞雪富山晴 千里名山相送迎 剣気触山山欲撼 青山輩出幾豪英」。
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「嶺翁院殿梅雲香清居士 寛永二乙酉年二月十一日孝子敬白 藤原朝臣津軽玄蕃政朝」。高さ173.5cm、幅74cm、厚さ60.5cm。津軽玄蕃政朝(慶安元年-宝永2年)。弘前藩城代家老。馴縄流馬術創始者。3代信義の4子。信義の弟津軽百助信隆の養子となり、万治2年家督相続、1600石襲封。延宝3年城代、同8年家老。聡明で、武芸、書、茶の上手でもありました。
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「義忠院殿順正功寛大居士 文久二年壬戌年八月廿二日 寛照院殿象外智玉大姉 明治四辛未年十一月二十二日 大道寺族之助平朝臣順正」。高さ170cm、幅140cm、厚さ71cm。大道寺氏宇左衛門(文化6年-文久2年)。津軽11代順承、12代承昭の家老。大道寺玄蕃が10代藩主信順の意を害し自害、分家である順正がその跡を継ぎました。10代信順隠居の際に順正の計らいにより黒石7代左近将監(順承)が襲封、この時家老となりました。和歌にも長じ号は恒山。
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「(梵字)圓通院殿盛叟英堅巨居士便威正覺 于時延寶二甲寅年二月二十三日 嫡謹孝子敬白 大道寺氏宇左衛門尉平朝臣姓為久」。高さ242cm、幅97.5cm、厚さ48.5cm。大道寺宇左衛門為久(-1674)。津軽2代信牧の7子、3代信義の弟。福島正之の子直秀が満天姫の連れ子として津軽に来て、大道寺家の養子になっていました。その直秀が急死したため、為久は寛永17年に直秀の娘喜久と婚姻、直英の家督1000石を相続。万治3年津軽信政の城番、寛文10年城代となり、3代信義、4代信政の家老を勤めました。延宝2年城中の餐宴で中毒死。
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大道寺先祖代々之墓。昭和59年5月1日大道寺繁行建立。
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「むら雲はふもとに消えて山松のあらしの上に澄める月かな」繁禎。大道寺繁禎は第十二代藩主承昭の家老、版籍返還の後に執政に努力。国会開設請願運動、弘前事件では自由の名の下に間違った方向に導く人々の活動を阻止しようとした保守系人物の中心。
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「忠岳院殿義英久繁大居士 天保二辛卯年六月二十九日 大道寺隼人平朝臣久繁」。
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「陸軍兵科幹部候補生 石黒健之碑 昭和二十年六月八日比島マニラ東方四十五粁の山地にて戰死 三十三回忌の法要建立 尚書」
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「永覺院巨海良忠居士 全孝院徳岩道器居士 觀應院秋顔良正居士」、裏面「永 天保九戊戌年三月二十八日 全 嘉永三庚戌年正月二十五日 觀 弘化元甲辰年八月初八日 安政七庚申年三月二十八日十二代目武田和吉建立」。高さ98.5cm(段含め174.8)、幅34.8cm、厚さ30cm。武田甚左衛門恒広(-天保9年)。
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武田甚左衛門恒広は弘前の豪商。金木屋3代で中興の祖。初め兼次郎また嘉七と称しました。江戸で奉公、重用され、寛政11年弘前に絹布木綿の正札店開業。後に織座を建て、養蚕、桑樹植付も奨励し、その財は津軽一となり、凶荒の時に再々窮民を救済、弘前藩の御用達となりました。
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「嚴裕院殿贒徳正郡居士 明治三十六年第一月三十日 傍嶋正郡墓」。高さ187cm(段含め221.5)、幅139.5cm、厚さ43cm。傍嶋正郡(幕末-明治36年)。
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津軽3代信義の代の家老傍嶋太兵衛正玄の子孫。歌人、名は吉之進、字は正郡、号は松軒。文学を好み、特に詩書に優れていました。稽古館の教授、郡立中学校の執事から県立女子師範学校の教頭になりました。
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「鶓 爲機雄院殿即安全心居士也 萬治二天九月十七日施主 傍嶋太兵衛尉平朝臣正玄敬白」。高さ193.5cm、幅78cm、厚さ55cm。
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傍嶋太兵衛正玄(天正-万治2年)。先祖は池田弾正で伊勢国関の城主。6代のとき傍嶋に改姓。正玄ははじめ福島正則に仕え、関ヶ原合戦で活躍し、後に加藤清正、生駒壱岐守に仕え、禄1000石。主家の没落に伴い浪人。寛永10年に江戸で津軽3代信義に抱えられ、慶安2年信義とともに津軽へ下向し家老となりました。
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「(梵字)光巖院殿將山天良居士正覺(梵字)寔寛文十二壬子年欽孝子敬白 三月晦日 杉山氏八兵衛豊臣姓吉成」。高さ220.5cm、幅69.5cm、厚さ28.5cm。
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杉山八兵衛吉成(慶長15-寛文12年)。石田三成の次男で津軽に逃れた杉山源吾の長男。寛永10年津軽3代信義に召し出され1300石。三成の三女辰姫は、秀吉正室北の政所の養女として津軽2代信牧に正室として嫁ぎますが、約3年後に徳川家康の養女満天姫が降嫁されたため側室となりました。しかし辰姫は津軽3代信義の実母となったため、信義と吉成は従兄弟同士。室は信義の妹子々姫。寛文6年本参侍の組頭。同9年蝦夷反乱の際に幕命で侍大将として700人を率いて松前に渡るも既に反乱は治まり、蝦夷地の情況を視察して帰ります。墓碑銘には「豊臣姓吉成」を刻みます。
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「(卍)(梵字)真性院殿繁庵常昌大居士 覺霛位 延寶四丙辰暦四月二十八日終焉 藤原朝臣津軽平八郎為永」。高さ238cm、幅67cm、厚さ42cm。津軽平八郎為永(承応3年-延宝4年)。通称平八郎。津軽3代信義の子。津軽2代信牧の子津軽為節の養子。室は家老進藤庄兵衛正次の娘。寛文12年、19歳で家督800石を相続。延宝2年書院大番頭。同4年疱瘡にて没。
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津軽信經菩提塔(天和元辛酉年三月二十五日)。
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津輕淸禎之墓(明治23年)。
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津軽平八郎、津軽平八郎妻・・・津軽家を刻む墓は相当な数です。
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その他、一町田家(一町田八郎衛門(了義院殿輝海道光居士之霊)等)などの墓もありますが、拝んでは調べ・・・拝んでは調べ・・・に疲れていまったのでこの辺で。
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最後に笹森順造之墓。
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墓には「笹森順造 明治十九年五月十八日生 昭和五十一年二月十三日召天 笹森寿 明治三十年五月二十一日生 昭和五十六年六月三十日召天」「昭和五十三年十月二十二日笹森建英教え子他有志建立」とあります。
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