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日光東照宮(Nikko Toshogu Shrine)Part1』で書きましたが、日光東照宮拝観受付所の横に上新道があります。上新道は二荒山神社入口の楼門へと続く道です。距離は約200m。
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下新道は上新道と同様に日光東照宮と日光二荒山神社を結ぶ道で、約300mほどの杉並木の道です。こちらから向かった場合は二荒山神社大鳥居前に着きます。
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案内板。似たような案内板が他にもあるのでここでは省略。
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式内社(名神大社)論社、下野国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。正式名称は「二荒山神社」。宇都宮市の二荒山神社(宇都宮二荒山神社)と区別するために「日光二荒山神社」と称されています。古くは「日光三社権現」と称されていました。日光連山の主峰日光三山を神体山として祀る神社で、境内は本社(本社・別宮本宮神社・別宮滝尾神社・別宮本宮神社・別宮滝尾神社)・中宮祠・奥宮(男体山山頂)からなります。日光三山は男体山(古名:二荒山)・女峰山・太郎山からなり、二荒山神社ではそれぞれに神をあてて祀っています。三山のほか日光連山(奥白根山・前白根山・大真名子山・小真名子山・赤薙山)を境内地としており、その面積は3,400haにも及び、神域には華厳滝やいろは坂も含まれています。3,400haは神宮に次ぐ面積。二荒山神社は古来より修験道の霊場として崇敬され、江戸時代に幕府によって日光東照宮等が造営されると二荒山神社も重要視され、現在の世界遺産・重要文化財指定の主な社殿が造営されました。また、国宝指定の刀剣2口や多数の刀剣等の重要文化財を現在に伝えているほか、境内は国の史跡「日光山内」に包括されています。
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社名の「二荒山」の由来には補陀洛山説(観音菩薩が住むとされる「補陀洛山」が訛ったものといわれ、後に弘法大師空海がこの地を訪れた際に「二荒」を「にこう」と読んだことから「日光」の字を当ててこの地の名前にしたとする説。※但し空海の来訪は伝承の域を出ません。)・男体山女峰山2神の二神二現説・暴風雨説・アイヌ語説(熊笹=フトラ)など諸説あります。※男体山山頂遺跡の出土品から、鎌倉時代初期には「二荒」と「日光」が併用されていたことがわかっています。
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縁結びの御神木。杉と楢の木が合体した御神木で、「好き(杉)なら(楢)一緒」として、縁結びの御神木として知られるようになりました。
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神門。勝道上人の男体山登頂1200年を記念して昭和57年に造営(奥宮建立記念事業)。神門向かって左に親子杉、右に夫婦杉。家庭円満・夫婦円満などを祈願。
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手水舎。
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良い縁の笹。茅の輪くぐりと同じ方法です。縁結びの神社としても知られています。
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御神木の三本杉。
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手水舎と親子杉。
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日光二荒山神社の御祭神は大己貴命(大国主命、神奈備:男体山、本地仏:千手観音)・田心姫命(神奈備:女峯山、本地仏:阿弥陀如来)・味耜高彦根命(神奈備:太郎山、本地仏:馬頭観音)。三神を総称して二荒山大神といいます。
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霊場としての日光の始まりは、下野国の僧勝道上人が修行場を求め、大谷川北岸に天平神護2年(766)に紫雲立寺(現在の四本龍寺の前身)を建てたことに始まるとされます。二荒山神社の創建は、上人が神護景雲元年(767)二荒山(男体山)の神を祭る祠を建てたことに始まるとされます。この祠は現在の別宮となっている本宮神社であり、元は本宮神社の地に鎮座していました。上人は延暦元年(782)に二荒山登頂に成功し、そこに奥宮を建てて二荒山修験道の基礎を築き、その後、神仏習合の霊場として栄えることとなります。なお、社伝上は勝道上人が開祖とされますが、実際には太郎山神社周辺で古代の祭祀の痕跡を示す遺跡が見つかっており、相当古くから聖地として信仰対象であったことがわかっているようです。延暦3年(784)に参拝困難な事から男体山麓に二荒山神社中宮祠を建立。弘仁11年(820)には空海が女峰山の御祭神である田心姫命を勧請して滝尾権現を建立して遥拝所とします。嘉祥元年(848)には慈覚大師が日枝神社を滝尾権現境内に勧請(後の新宮)。その後、現在の本社の境内付近に二荒山神社を遷座し、本宮には太郎山の御祭神である味耜高彦根命を勧請したことで、日光三山である男体山、女峯山、太郎山の御祭神、大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命をそれぞれ祀る二荒山神社本社、滝尾神社、本宮神社の日光三所が確立。12世紀には神仏習合の形態が更に強まって本地である千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音が当てられます。
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延喜式神名帳に記載されている名神大社(延喜式神名帳に記載されている二荒山神社は現在の宇都宮市に鎮座する二荒山神社とする説が有力)で下野国一之宮、関東総鎮守として広く信仰され、鎌倉時代に入ると幕府、室町時代に入ると小田原北条氏から厚い崇敬を受けます。戦国時代には後北条氏に加担したことにより、豊臣秀吉と対立し北条氏が滅ぶと社領が認められないなどの弾圧を受けて一時衰退。江戸時代に入って日光の地に徳川家康が祀られることになると幕府から崇敬されるようになり、社領の寄進や社殿の造営などが行われて社運が隆盛。明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され二荒山神社本社となり、別宮として滝尾神社と本宮神社という形態が確立。明治6年には宇都宮の二荒山神社に加えて国幣中社に追加列格。
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拝殿は元和5年造営、正保2年再建。入母屋造。桁行5間、梁間4間。国指定重要文化財。拝殿内に狛犬一対。元和3年の東照宮造営の際に現在地に移転し、元和5年に秀忠公により本殿再建。本殿は単層入母屋(正面千鳥破風付)、銅瓦葺(元檜皮葺)、軒唐破風向拝付。桁行5間、梁間5間、向拝部3間。安土桃山様式の八棟造りを採用した神社本殿建築の遺構として貴重であり、周囲に付随する唐門・掖門・透塀・鳥居と共に国指定重要文化財。
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案内板「関東総鎮守 下野国一之宮 日光二荒山神社」より…『当神社は関東第一の霊峯男体山(二荒山)を始め八峯の二荒山の大神と崇めて奉拝し、神護景雲年間社殿を造営し、奉祀して以来1200年余の由緒をもつ延喜式名神大社である。男体山頂標高2,486米に奥の宮、中禅寺湖畔に中宮祠、そしてこの山内の神域に本社が鎮座する。【御祭神】二荒山大神・大巳貴命(大国主命)・田心姫命・味耜高彦根命【御神徳】国土経営・産業開発・凡ての産業を司られ福の神と称えられ、農業・婚姻(縁結び)・醸造・学業(医薬健康)の祖神として守り幸え給う。(これより神苑内)【御社殿(重要文化財)】本殿・拝殿・日枝社・朋友社・神輿舎・大国殿・銅燈篭(化燈篭)銅製春日造・二荒霊泉、霊水拝戴・別宮 滝尾神社(霊石安産子種石・酒の泉)本宮神社【祭典】例祭(弥生祭)4月13日~17日本社
・男体登拝大祭7月31日~8月8日中宮祠』
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社務所。
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こちらは上新道から来た場合にくぐる楼門と社号標。上記神門と同じく勝道上人の男体山登頂1200年を記念して造営。
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楼門脇に麻掛け大黒様。魔を除け、邪を祓い、身を清める「麻」を肩に掛けて、遥かな未来を見つめる大黒様です。麻に触れて身を清めます。麻は栃木県鹿沼市永野で生産された麻。更に大黒様に触れて清らかな気持ちでお参りくださいとのこと。多く触れれた場所はテカテカしております。
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楼門脇にうさぎ石というものもありました。ちょっと離れて矢印の方向から見るとうさぎに見えるそうです
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日本神話(古事記)因幡の白兎の案内板もありました。有名な話なので内容は省略します。とかいって、数年前に神社の勉強をするため古事記を読むまでは、ただの絵本もしくは日本昔ばなしの一話としか思っていませんでしたけどね。
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楼門の先の唐銅鳥居。柱に神仏習合の名残をとどめる蓮の花が付いているのが特徴です。
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唐銅鳥居について。
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神楽殿。明治17年建立。重層入母屋造。毎年4月2日国家の興隆を祈願して神楽が奉奏されます。
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大きな金の大黒様がおりました。
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良い縁狛犬一対。台座にはそれぞれ「良」「縁」と刻まれています。平成27年12月の奉納とありますが、製作されたのはそれよりも16年前。あまりの大きさに引き取り手が見つからず、眠ったままになっていたそうです。
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良い縁狛犬…『狛犬は、獅子や犬に似た想像上の生き物とされています。起源は、古代エジプト・メソポタミアでの神殿を守るライオン像とされています。中国を経て飛鳥時代に日本に伝わった当初は、獅子であり、左右の姿に差異はなく、開口した姿であったと言われます。平安時代になって、それぞれ異なる外見を持つ、獅子と狛犬の阿吽の開口閉口の像が対で置かれるようになりました。現在では、両者を合わせて狛犬と呼ぶようになっております。この狛犬は、飛鳥時代当初の獅子の形をインド黒大理石に彫ったもので、台座は日本三大銘石と言われる茨城県産の青糠目石です。左右の「良」「縁」の文字枠は八稜鏡を象ったものです。全国神社でも他にない、大変珍しい狛犬です。栃木県さくら市在住の飯沼休吾氏により、世界文化遺産登録15周年を記念して、平成27年12月に奉納されました。ここに、あらゆる良い縁を願い「良い縁狛犬」と名付けました。良い縁の神様日光二荒山神社』
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