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東照宮表参道側の日光山輪王寺黒門(表門。皇族を門主と仰ぐ門跡寺の格式を示す門。本坊が焼失した時に唯一焼け残った建物。国指定重要文化財。)からも入れますし、長坂を上り、勝道上人銅像側からも入れます。
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明治の頃から日光は輪王寺・東照宮・二荒山神社の3ヶ所が参詣所とされていますが、それ以前は「日光山」として一つに包括された関東の一大霊山でした。本堂(三仏堂)・大猷院・慈眼堂・常行堂・中禅寺・大護摩堂・四本龍寺等のお堂や本坊、更に15の支院も含めた全体を輪王寺と総称します。境内地は大きく分けて「山内」と「奥日光」の2ヶ所となります。
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日光山は天平神護2年(766)に勝道上人により開山。以来、平安時代には空海、円仁ら高僧の来山伝説が伝えられ、鎌倉時代には源頼朝公の寄進などが行われ、関東の一大霊場として栄えました。江戸時代になると家康公の東照宮や、三代将軍家光公の大猷院廟が建立され、日光山の大本堂である三仏堂と共にその威容を今に伝えます。奈良時代の末に勝道上人によって日光山は開かれました。四本龍寺が建てられ、日光(二荒)権現も祀られます。鎌倉時代には将軍家の帰依著しく、鎌倉将軍の護持僧として仕える僧侶が輩出します。この頃には神仏習合が進展し、三山(男体山・女峰山・太郎山)三仏(千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)山社(新宮・滝尾・本宮)を同一視する考えが整い、山岳修行修験道が盛んになります。室町時代には、所領18万石、500におよぶ僧坊が建ち並んでその隆盛を極めました。江戸時代には天海大僧正(慈眼大師)が住職となり、山王一実神道の教えで家康公(東照大権現)を日光山に迎え祀ります。「輪王寺」の称号が天皇家から勅許され、更に慈眼大師(天海大僧正)・三代将軍家光公が祀られ、日光門主と呼ばれる輪王寺宮法親王が住し、宗門を管領することになりました。法親王は14代を数え幕末に及びました。明治になって神仏分離の荒波を越えて現在の輪王寺があります。
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輪王寺本堂(国指定重要文化財)は日光山随一、東日本では最も大きな木造の建物であり、平安時代に創建された全国でも数少ない天台密教形式のお堂です。嘉祥元年(848)に慈覚大師が比叡山延暦寺の根本中堂を模して建立したと伝えられ、当初は滝尾神社付近に建立されており、幾度か移動を繰り返して、現在の建物は正保2年に徳川家光公によって建て替えられたもので、それを明治14年に二荒山神社付近から移築しています。正面33m、側面25m、高さ26m。三仏堂は写真のとおり大修理中です(※2018年秋時点。個人的にはこれはこれで逆に貴重であると捉えるようにしています)。
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内陣の日光三社権現本地仏(金色木彫像:千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)は拝観可能でした。国内屈指の木造坐像仏です。千手観音(男体山)=新宮権現=大己貴命(総高703.6cm・本尊335.4cm)、阿弥陀如来(女峰山)=滝尾権現=田心姫命(総高756.3cm・本尊306.3cm)、馬頭観音(太郎山)=本宮権現=味耜高彦根命(総高744.7cm・本尊301.3cm)。目の前(内陣・修行の谷間)で拝む3体の御本尊は想像していたよりもかなり大きく感じました。台座も素晴らしいものでした(ぶっちゃけ寺ではこの仏像を見て、「台座が無い仏像は威厳が無くなるため、"台無し"という言葉の由来となった」と放送していました。)。なお、その他諸々展示されていますが撮影禁止のため写真はございません。また、その後の順路には十二支守り本尊様の仏像があり、案内通りに皆様それぞれの干支の前で拝み…そして…「この流れに乗ってしまうと絶対にお守りを買ってしまうやないか!!」ゾーンを通ってから退出します。言い方が悪くてすいません。お宿に戻って冷静になったら「お前どんだけ守られる気やねん!!」って自分に突っ込みたくなるほど、バッグの中にお守りがたくさんあったもので笑
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6.5
日光山輪王寺(日光山輪王寺の成り立ち)案内板より…『【奈良時代~平安時代】奈良時代の末、「勝道上人」により「四本龍寺」が建立され、日光(二荒)権現が祀られ、日光山が開山されました。平安時代になると真言宗宗祖の「空海」や天台宗の高僧「円仁(慈覚大師)」らの来山が伝えられています。「円仁」は848(嘉祥元)年に来山し、「三仏堂・常行堂・法華堂」を創建したとされ、この頃から輪王寺は天台宗寺院として歩み始めます。(※現存するこれらのお堂は、いずれも近世の再建)。「常行堂・法華堂」という修行の為の堂を2つ並べる形式は天台宗特有のもので、延暦寺[比叡山]や寛永寺[東京・上野]にも同名のお堂があります。【鎌倉時代】鎌倉時代には将軍家の帰依篤く、鎌倉将軍の護持僧として仕える僧侶が輩出されます。この頃には神仏習合が進展し、三山(男体山・女峰山・太郎山)、三仏(千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)、三社(新宮・滝尾・本宮)を同一視する考えが整い、山岳修行修験道(山伏/やまぶし)が盛んになります。【室町時代】室町時代には、所領18万石、500におよぶ僧坊が建ちならび、その隆盛を極めます。しかしその後輪王寺は1590(天正18)年、豊臣秀吉の小田原攻めの際、北条氏側に加担したため寺領を没収され、一時衰退します。【江戸時代】江戸時代に入り、天台宗の高僧「天海」が貫主(住職)となってから復興が進み、1617(元和3)年には徳川家康公の霊を神として祀る「東照宮」が創建されました。(※現在の東照宮社殿はこの時のものではなく、20年ほど後に徳川3代将軍「家光公」により建て替えられたものです)。1653(承応2)年には「家光公」の霊廟である大猷院が創建されました。その翌々年1655(明暦元)年には後水尾上皇の院宣により「輪王寺」の寺号が下賜され(※それまでの寺号は平安時代の嵯峨天皇から下賜された「満願寺」であった)、後水尾天皇の第3皇子・守澄法親王が入寺されました。以後、輪王寺の住持は法親王(※親王宣下を受け、出家した皇族男子)が務めることとなり、関東に常時在住の皇族として「輪王寺門跡」あるいは「輪王寺宮」と称されるようになりました。寛永寺門跡と天台座主を兼務したため「三山菅領宮」とも言われます。輪王寺宮は輪王寺と江戸上野の輪王寺及び寛永寺(徳川将軍家の菩提寺)の住持を兼ね比叡山、日光、上野のすべてを管轄して巨大な権威をもっていました。【明治時代】1871(明治4)年に神仏分離令が発布されると、二荒山神社、東照宮、輪王寺はそれぞれ分離されて二社一寺となり現在の「輪王寺」があります。現在、輪王寺に属する建物が1箇所にまとまっておらず、日光山内の各所に点在しているのは、このような事情があったからです。【現在】1999(平成11)年12月、輪王寺38棟、東照宮40棟、二荒山神社23棟、その他2棟、合計103棟からなる「日光の社寺」が日本で10番目となる「世界遺産」に登録されました。』
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三仏堂前の金剛桜。金剛桜(天然記念物・とちぎ名木百選)案内板より…『黄芽、白花大輪の山桜で花香が強く、樹齢は約500年。地際より数本の支幹に分かれ、特異の樹形をなし、その基部の周囲は約5.7mに及ぶ。繖房状に3~4花を着け、花茎は約3.8cmで、極めて大輪。花弁は円形で長さ約1.7cm。巾は約1.6cmで、花弁の縁は重なりあっている。明治年間、当寺門跡諶厚大僧正の謚号、金剛心院に因んで命名されたもの。昭和11年5月10日三好理学博士の調査により山桜の勝れた天然変種として国の天然記念物に指定された。(指定日昭和11年12月16日)学名:Prunus mutabilis Miyosf Kongo Miyos.』
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豊道先生顕彰碑。『先生、法名は慶中、天台宗の大僧正、東京牛込の行先寺住職に補任せらる。書道に精通し春海と号す。日本芸術院会員に推されその間、瑞雲書道会や日本書道連盟を設立、又、日中友好に貢献して郭沫若氏と親交あり文化功労者として顕彰さる。昭和45年僊化。書禅院大僧正春海慶中大和尚を諡る。享年93才』
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鐘楼。
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三仏堂前と向かい合うように宝物殿があります。宝物殿には入りましたがこちらも写真はございません。収蔵庫には、国宝1件・59点、重要文化財51件・1618点、重要美術品4件・7点を含め、日光山1240年余りの歴史を物語る約3万点の什宝を収蔵しており、常時50点ほどを拝観室に展示。また、徳川記念財団の特別協力館として、御宗家に伝来する初代家康公以来の貴重な宝物の常設展示も併せて行っています。
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紫雲閣裏手には逍遥園があります。宝物殿に入場すると逍遥園にも入ることが可能です。逍遥園は琵琶湖を模したと伝わる池泉回遊式庭園。鳴虫山、男体山、女峰山を借景とします。近江八景を模した理由は、朝廷から門跡として迎えられた宮様が故郷を偲んで寂しがられないようにするためと言われています。
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文化12年の大改修の際に儒者佐藤一斎により逍遥園と名付けられました。輪王寺門跡の庭園として江戸時代初期に作庭されたもので、一説には小堀遠州の作とも伝わります。完成を見たのは寛永年間ですが、その後改修が繰り返され、江戸時代全般にわたる変化が見られる興味深い名園。今は僅かに中の島と滝の石組付近とに江戸初期の面影を残していますが、文化12年には大改造されており面目を一新、更に明治時代に一部改作され、ほぼ現在の景勝となったものとされています。
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明治9年6月、明治天皇の東北御巡幸の際には、木戸孝允らを随えこの逍遥園に在った「輪王寺本坊」に3泊されており、二社一寺をはじめ中禅寺方面まで御視察になりました。神仏分離の混乱の時で「旧観を失うなかれ」という有名な言葉を残されました。その3年後にはアメリカ大統領となったグラント将軍も泊られ、庭園を心ゆくまで観賞されています。
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紅葉の時期がおすすめです。私が行った時期は少し早いです。毎年10月25日~11月15日には夜間のライトアップも行われています。
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輪王寺大護摩堂。大護摩堂の内陣には、御本尊の五大明王(平安中期作)を中心に、七福神や十二天など30躰の仏様や祖師像がお祀りされています。また、天井には、故吉原北宰氏(国指定彩色保存選定技術保持者)が、2年半の歳月を費やして完成させた「大昇竜」が描かれています。
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輪王寺護法天堂(国指定重要文化財)。元和5年に建てられ、桁行5間、梁間3間、寄棟、向拝一間、銅瓦葺。毘沙門天・大黒天・弁財天の三天が祀られていましたが、現在は隣の大護摩堂に遷され、七福神として祀られています。この三天は日光山の信仰上大切な存在であり、日光の男体山・女峰山・太郎山の三山に結びつき、この三神山のもとになる仏が三仏堂の千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音であるとされています。護法天堂では本堂の三尊が御利益をお願いしやすい福の神に姿を変えて三天となっています。また、ここは元々内権現堂と呼ばれました。仏が神様として現れた姿、つまり日光三所権現の姿で以前は祀られていたからです。
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大護摩堂前の相輪塔(輪王寺三仏堂の後方)。寛永20年に家光公の発願によって天海大僧正が建造。青銅製で高さ13.2m。国指定重要文化財。内部には1000部に及ぶという経典が納められており、天下泰平・国土安穏を祈願させたといわれます。当初は奥院に建てられていましたが、慶安3年に三仏堂旧地近くに移され、明治8年に現在地に移されました。相輪塔の上部には24個の金瓔珞と金の鈴の装飾が施され、この鈴風にあたると仏の功徳が受けられると云われています。
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相輪塔前には糸割符灯籠。青銅の燈籠一対です。
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慶長9年、徳川家康公によって中国産生糸の独占輸入と販売を許可された商人たちを「糸割符仲間」と呼んでいましたが、その商人たちが貿易の特権を与えられたことに恩義を感じ、慶安元年4月に家康公の33回忌に奉納。当時は商人という身分であるため、東照宮神前奉納が許可されずここに据え置かれることになりました。それでも民間奉納では破格の扱いであったといいます。
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相輪塔前の宝篋印塔。
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大護摩堂横の光明院稲荷社。
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光明院稲荷社…『鎌倉中期当山24世弁覚僧正が新たに光明院を建立し、日光山の本坊とした。その守護神として稲荷社を勧請、光明院稲荷と称す。古くから日光山の五大稲荷として学業成就、家業繁栄の祈願に特に信仰されている。』
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輪王寺本坊・日光山輪王寺門跡。寺務所に御用の方以外は立入禁止。
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私が歩いた軌跡的には『日光山輪王寺大猷院(Taiyuin Temple)』へ続く。
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