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天台宗日光山香華院清瀧寺。下野三十三箇所霊場第一番札所。関東百八地蔵尊霊場第49番札所。栃木県日光市清滝1丁目。1丁目は西部が観音堂・清滝寺・清滝神社の立地する歴史を有する古い集落となっています。
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清滝は男体山東南の溶岩円頂丘の緩やかな傾斜をなす丹勢山と、古生層を主体とする足尾山地北端の三ノ宿山・鳴虫山の山稜との間の大谷川上流谷底平野に位置。丹勢山麓に形成された集落の南端を大谷川が北東流します。近世まで現市街地の大部分は大谷川の氾濫原として不毛の地でした。地名の由来は清滝神社裏に「古杉樹茂り、峻岩数十丈聳えたる所に滝あり。是を清滝と号せり」とあることによります。清滝神社(明治4年まで清滝権現)は、弘仁11年空海来晃の折、滝尾神社・寂光寺(若子神社)とともに勧請されたといわれ、社の別当寺として清滝寺(江戸期に天台宗に改宗)が開かれたとされます。円通寺(長興山福聚院円通寺。明治4年廃寺)境内の観音堂(坂東三十三ヶ所観音霊場第18番札所)には勝道上人が中禅寺千手観音像を彫った末木で彫ったとされる観音像が安置され、女人禁制の中禅寺観音堂の前立の役を果たしました。「日本九峰修行日記」にも「清滝とて中尊寺前札所庵室あり、中尊寺は女人結界故に此所女人堂也、此堂に笈頼み置き中尊寺へ詣づ」と見えます。神仏分離により清滝寺・円通寺ともに廃寺となりましたが、明治42年に清滝寺は円通寺境内に再建(足尾銅山における鉱山開発事業に着手した古河電工により町が復興をし円通寺と合併・再興した形)。
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近くの清瀧神社隣りに清瀧寺跡がありますが、清滝の瀧もそこにあります。清瀧寺跡の案内板には「清瀧権現別当勝福山金剛成就院清瀧寺。弘仁11年(西暦820年)沙門空海上人(弘法大師)により創立。その後、円仁(慈覚大師)によって天台宗に改宗した日光山満願寺(今の輪王寺)別院として、蜜門灌頂の道場であった。」とあります。清瀧神社の由緒沿革についても簡単に触れておきます。弘仁11年(820)弘法大師空海が来山し、滝尾、寂光、生岡等と共に当社を創建。社名は社殿背後のお滝を含めた地形が中国大鷲山の清滝に似ているところから命名。往時は二荒山登拝の要路として、又、密宗修験の霊場として大いに栄えました。お滝の御神水は古来生命保全の霊水として広く信仰されており、又、社前の池は応永12年(1406)鎌倉管領の追討を受けた常陸国小栗城城主小栗判官満重を恋慕する美女照子姫が判官の無事息災祈願の際に洗面したところから、"照子姫の化粧池"と伝えています。御祭神は大海津見神。
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淸瀧千手觀世音菩薩縁起(坂東十八番立木觀音前立本尊)…『抑(そもそも)當本尊の縁起を原(たづ)ね奉るに神護景雲の昔日光山の開祖勝道上人是の山を草創して苦修練行怠らず茲に幾多の星霜を重ね給けるに延暦三年四月二十日黑髪山の半腹なる湖に棹さして西岸に渡り給ふ時忽然として千手觀世音菩薩湖上に出現し給ひ金色の威容堂々として山を壓(あつ)し眉間の毫光赫々として波を射けり上人面のあたり之を拝し奉りて信心肝に銘じ渇仰の念(おも)ひに堪え給はず乃ち湖の邊に一寺を創立して中禪寺と號し境内に桂の巨木を獲て立木の儘湖上感見の尊像を御手づから一刀三禮に彫刻し給ひ之を其の寺の本尊とは爲し給ひぬ斯くて觀音薩■(土+垂)の浄土に因みて此の山を補陀落山とは申すなりとぞ然るに此の地嶮しうして到り易からざれば結縁の便り遂に絶えなむことを憂へ給ひ上人更に彼の桂の餘材を以て又御手づから同尊の靈像を一刀三禮に彫刻して汎く群生を利益せむと誓ひ給ひしもの即ち此の本尊にて在(おは)しますなり爾来千百五十有餘載上人の本誓にも違ひ給はざれば世の渇仰彌(いよいよ)厚く立木の觀音大士と共に坂東十八番の札所に本尊として靈驗今に著く利生猶ほ新なるこそいとも尊き極みなり。仰ぎ願くは大悲の靈光永久に照して上は吾が皇室の盛運を擁護し奉り亦國家を泰山の安きに置き下は信心の輩(ともがら)を攝取して現當二世の幸を得しめ給はむことを敬(つつし)みて白(まを)す。明治44年5月吉辰。晃嶺沙門諶照謹識(日光山輪王寺門跡大僧正正彦坂諶照猊下)。日光山淸瀧寺執事』
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堂宇正面。
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手水舎。
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堂宇。
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8.5
向拝。円空作の「不動明王と脇侍二童子」があるそうです。円空の円熟期の傑作。日光市指定有形文化財。日光市の指定文化財HPから写真で見ることができます。また、内陣には古写経本「大般若」約400巻が蔵されており、書写の記年銘の最も古い大治4年銘の巻末の奥書に「二荒山一切経」とあるそうです。
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庫裡。
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鐘楼。
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11.5
決して広い境内ではありませんが色々なものがあります。
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12.4
12.8
しらみ地蔵。
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13.5
石造地蔵菩薩坐像(日光市指定有形文化財)…『年紀銘から天正年間(1573-1591年)に製作されたことがわかり、この時期の日光における石仏研究の貴重な資料である。像容は近世の坐像と比較し、肩が極端になで肩となっている。袈裟の文様線は単純で、首部の襟ぐりが深い。像の厚みもあり量感にあふれるが、全体的に簡素である。かつては清滝神社付近の路傍に祀られていたと伝えられ、この前で浮浪者がひなたぼっこをしながらシラミ取りをしていたといい、そのことから「しらみ地蔵」とも呼ばれている。平成18年3月3日指定日光市教育委員会』…しらみ地蔵の由来が何とも微妙です笑
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観音堂大修繕記念塔。
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宝篋印塔。
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「中禅寺前立」。
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馬頭尊等。
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大仏。
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水かけ観音。標柱「念ずれば花ひらく水かけ観音」。
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不動明王。
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「得大勢至菩薩」。
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六地蔵・如意輪観音。
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23.5
追分の碑(紀文句碑)。中禅寺と足尾への道を分けた道標。元文5年「紀伊国屋立之」の銘があり「右中せんし道 左あしをみち」「山高水長」「青葉からひと雫づつ大谷川 東江李喬」と刻まれています。
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紀文句碑二…『日光市内にある「紀文三句碑」のひとつ。中禅寺と足尾への道標を兼ねているので、追分の碑とも呼ばれている。紀文は、紀伊国屋文左衛門。姓は五十嵐、江戸中期の豪商。みかん船で知られ、俳句もたしなんだといわれるが、本人が日光に来たかどうかは、わからない。元文5年(1740年)の建立。』
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石灯籠。
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26.5
星野面山句碑。
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『「甘露法雨 観世音 沙羅菩提樹も 茂り居て 観音の 慈悲に醒むるや 春の夢 面山」星野面山は、本名利一。日光市清滝で薬局を経営、読売新聞清滝販売所長。俳句・水墨画にいそしむ。清水比庵・若山牧水・与謝蕪村などの文学碑を市内に建てゝいる。碑の文字は、面山の自筆。昭和47年7月の建立。』
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清水比庵歌碑。
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『「下野の国 巡礼札所第一番 日光清滝観世音 雨ほととぎす 九十三叟清水比庵」清水比庵は、本名秀。明治16年岡山県生まれ。日光電気精銅所を経て、昭和5年、日光町長に就任し、特に観光行政に尽した。昭和33年、初の日光市名誉市民。短歌の会「二荒」「窓日」を主宰。昭和41年(84歳)宮中歌会始めの召人(めしうど)を務める。昭和50年10月、93歳で死去。碑は、93歳の時の自筆で、昭和50年11月16日、星野利一氏が建立』
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