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栃木県日光市稲荷町。入口向かって左の木は「虚空蔵尊のしだれざくら」として親しまれているしだれざくら。開花時期は4月中~下旬なので咲いていません。高さ約18m、幹周約3m、推定樹齢350年。近くにはほぼ同じ推定樹齢の「高田家のしだれざくら」もありますので、開花時期には是非そちらもご覧になってみるといいと思います。ちなみに石鳥居紀年銘は天保4年、宝暦4年。
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稲荷町は江戸期は日光門前東町の1町。古くは稲荷川左岸に位置し、皆成川村・稲荷川町と称しましたが、寛文2年の洪水の後、人家が大谷川右岸の現在地に移転してからは主に稲荷町と称し出町とも称されました。日光神領。元禄年間頃の「日光古図」(東照宮蔵)によりますと、稲荷川左岸には2筋の道筋が通り、1筋には北から1-4丁目・火之番屋敷が見え、川沿いのもう1筋に裏町通が見えます。また「堂社建立記」によりますと、寛文の洪水に際し「稲荷川四町、上一町残、萩垣町・鍛冶町三百軒余押流」とあるので、稲荷川町の一部が萩垣町・鍛冶町などと称していたことがわかります。「慶安郷帳」では「皆成川村」と見え、村高62石余(畑のみ)、「元禄郷帳」では「古皆成川村、稲荷川町」と見え39石余。元禄14年「日光領目録」では「外山分」として39石余が見え、「天保郷帳」では「古者稲荷川町、外山村」とあり村高は41石余。寛文2年の洪水による流失家屋300軒余、死者148人、被災者915人。被災後、宅地移転者200軒に3両宛、貧民60人に6両宛の救恤があり、稲荷川町の大多数の人家が移転。その後、洪水にあった元稲荷川町地域は、外山村あるいは萩垣面と称しましたが、行政上は移転後の当町に属して当町の1地区となりました。貞享元年の日光大火による当町(出町)の焼失家屋127。明和7年家坪数書上帳によりますと、家数92軒、うち萩垣面5軒と見えますが、同年の潰家坪数書上帳に潰屋36軒が書き上げられているため同年の家数は56軒だったと思われます。文久年間の記録では、日光奉行配下役の当町内居住者12。慶応年間の家数53・人数252。文政12年の年中御役勤方帳によりますと、当町も他の門前町と同様に日光山の祭祀や日常生活に関係する人足夫役を負担しており、その内容は4月御祭礼供奉御役109人、9月御祭礼供奉御役78人、3月御祭礼供奉御役16人、他に御宮御霊屋大掃除栗石返シ、御門主様三度御登山之節御発駕役、御宮日勤御掃除1日2人、御殿地石垣上草刈りなど多岐に渡っています。神社は建保2年禁裡守護の稲荷を勧請したものと伝えられ、河川・町名にもなった稲荷神社があり、民家と同様に洪水の後に現在地に移転。また、虚空蔵堂は寛永年間に神橋高台の星の宮(磐裂神)を現在地に分祀したもので、東町6町の総鎮守です。寺院には元多聞坊と称した天台宗香煙山瑞応院多聞寺があり、廃寺となった後も多聞坂の名を残しています。地内に西行戻石があり、往時西行登晃の砌、地元の小童が麦のことを「冬もえて夏枯草」と表現した才智に驚いて立ち戻ったという口碑を伝えます。
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狛犬一対。
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4.5
紀年銘は文政10丁亥歳正月。
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5.4
5.8
手水舎。
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常夜燈。
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常夜燈他、石仏、石祠。
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8.4
8.6
8.8
本殿。残念ながら修理中でございます(平成30年現在)。平成28年より改築及び境内の整備が行われているようです。貞享元年の火災で焼失した後の元禄5年に再建。平成元年修築。
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ブラタモリの日光宿場町のエンディング前のロケ地がここになっています。そちらで堪能ください。立派なものです。
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御祭神は虚空蔵尊(磐裂神=根裂神・石析神・根析神)。栃木県においては虚空蔵尊は神仏分離によって星宮神社、磐裂神社と改称させられましたが、ここは虚空蔵尊としています。
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虚空蔵尊…『・寛永17年(1640)、神橋右岸の磐裂神(虚空蔵尊)を分祠し、東町六ヶ町の住民の鎮守として祀る。・例年、正月9日-10日に大祭を執行。・御宮造、本朱塗極彩色の社殿は、栃木県文化財指定。・境内に太子堂もある。』
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社殿向かって右。
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不動明王。
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隣の石祠は何かわからず。
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境内。虚空蔵尊のしだれざくら横に建物があります。
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聖徳太子堂。
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狛犬一対。
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18.4
18.6
18.8
年代不明。
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19.5
常夜燈一基。
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聖徳太子堂内。
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大杉神社。
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神輿がありました。
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境内にはたくさんの庚申塔があります。
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24.5
この内、日光型庚申塔7基が有形文化財(建造物)に指定されています。
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25.5
日光型庚申塔…『日光型庚申塔の特徴は板駒型で上部左右に日月を陽刻し、中央上部に梵字を彫り、銘文に「奉信禮庚申青面金剛供養攸」などと刻む。さらに、上部に向かい合って合掌する二猿が陽刻され、下部に蓮華が刻まれている。この形式の庚申塔は日光地区に多くみられるが、天和2年(1682)以降は確認されていない。この境内では寛文2年(1662)から延宝8年(1680)の間に建てられた7基が指定されている。寛文2年6月には稲荷川の大洪水があり、かつて対岸にあった稲荷町が流失して多数の犠牲者がでた。その後、この地域に町が移転するが、年紀銘に「寛文二壬寅歳南呂十九日」とあり、8月に供養塔が建てられたことがわかる。寛文6年から延宝8年までは毎年のように建立されており、人々が町の安泰を願っていたことがうかがわれる。平成18年3月3日指定。日光市教育委員会』
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