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栃木県日光市本町。日光田母沢御用邸記念公園前。栃木県日光市本町。日光田母沢御用邸記念公園前。かつて原町。江戸期は日光門前西町の1町。古くは飛石八幡が祀られているため八幡原と呼ばれていました。寛永18年に日光山内から妙道院・釈迦堂が移転。妙道院は元寛永5年日光一山の菩提所として仏岩に建立されたものであり200石を領有。境内には家康・秀忠縁故の家臣19人、及び慶安4年家光に殉死した家臣5人の墓碑が建立され、一般に殉死の墓と呼ばれます。貞享元年の日光大火による焼失家屋22。この時、釈迦堂を除いて妙道院や田母沢川両岸にあった勝道伝説で知られる地蔵堂も焼失しております。後に妙道院は将軍御成御殿を拝領して再建。田母沢川左岸の地蔵堂も犬牽地蔵の伝説のある中禅寺湖畔にあった延命地蔵を移し祀りました。元禄頃の地図によりますと、原町西側に上原町の名が見えます。享保8年の西町の地図によりますと家数38。慶応年間「日光山森羅録」によりますと家数25・人数121、町並みの長さは2町・幅4間半。また、幕末期には日光奉行配下役人17人が当町に居住。明治7年に日光町の一部となり、同年日光町、同22年からは日光町日光の通称地名。同年一部が四軒町となります。同31年当町と上本町・大工町の一部(上大工町)・花石町の一部の地域に田母沢御用邸が建設されることとなったため、同地域の住民は下本町東側(善如寺谷・西谷など)に移住し、通称地名の安川町を形成し当町名は消滅。
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輪王寺釈迦堂並びに表門は栃木県指定建造物(昭和56年10月27日)。
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釈迦堂正面にある表門は桁行13尺・梁間12尺6寸。素木造りの簡素な四脚門です。屋根は切妻鉄板葺で、元はこけら葺きであったと考えられています。破風の反りや懸魚の形状が江戸時代の特徴をよく表しています。貞享元年焼失、貞享4年再建、正徳元年造替。
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4.5
釈迦堂は5間×5間、桁行43尺1寸、梁間44尺6寸5分、寄せ棟造りで向拝一間、ベンガラ漆塗り。創建年代不明。当初は山内の中山にあり元和3年に仏岩の開山堂南側に移転、寛永18年に妙道院と共に現在地に移転(妙道院は焼失)。
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四方に縁を廻らし、正面中央間のみ内法長押を高くして桟唐戸を建て、両脇の二間は舞良戸釣りとし、両側面は舞良戸建て、奥の一間と背面は全て板壁。内陣の天井は格天井、外陣は竿縁天井。
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江戸時代初期から中期にかけての特徴がよく表れている建造物です。須弥壇下からは棟札4枚が発見されており、最古は正徳元年のものです。
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釈迦堂(栃木県指定文化財)…『創立年代は不明。山内地内の仏岩谷の開山堂わきから、寛永18年(1641)妙道院とともに現在の地に移された。妙道院は明治初年に途絶えた。本尊は釈迦如来座像で、脇侍として文殊、普賢の両菩薩を安置し、天海大僧正の像も祀ってある。7月13日に輪王寺により盂蘭盆会の法要が営まれる。』
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宝篋印塔(明和5年)。
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たくさんの石仏や墓碑(歴代住職の無縫塔や無縁塔など)、石碑等が苔生した状態で置かれています。
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10.8
すべてを紹介しませんが、いずれも古い歴史を持つものです。時間があれば一つ一つじっくりと見てみたかったです。
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11.5
七條愷翁之碑。誰かわからなかったのでネット検索したら「西東書房創業者」と出てきました。なぜここにあるのかはわかりませんが、かなり有名な方らしいです。
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日光奉行の墓「養徳院殿従五位下前讃州剌史浩嶽良然大居士」。
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釈迦堂殉死の墓及び譜代家臣の墓標柱。
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釈迦堂殉死の墓及び譜代家臣の墓。
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釈迦堂殉死の墓及び譜代家臣の墓24基(栃木県指定史跡・東側43m、西側38m、南側12m、北側16m・所有者輪王寺・昭和56年10月27日指定)…『本史跡は、雄大な女峰山の東南麓、大谷川北岸に南面する栃木県指定有形文化財(建造物)釈迦堂の西側にあり、総数24基の墓碑がすべて釈迦堂本堂に東面して整然と立ち並んでいる。これらの墓碑は、江戸時代には、前・中・後の3列で、前列(5基)が徳川三代将軍家光の殉死者5名の墓碑、中列(12基)と後列(7基)が初代将軍家康・二代将軍秀忠の譜代家臣の墓碑であった。しかし、明治31年(1898)、田母沢川支流の根通川の水を田母沢御用邸に引く用水工事のため、後列の7基が前列右側に移され、現在の2列になった。○殉死の墓(5基)…慶安4年(1651)4月20日、徳川三代将軍家光の死に際して、殉死した側近5名の墓碑である。殉死したのは、堀田正盛(玄性院殿、老中・下総国佐倉城主)、阿部重次(芳松院殿、老中・武蔵国岩槻城主)、内田正信(理明院殿)、三枝守恵(静心院殿)、奥山安重(真證院)の5名である。墓碑は、前列中央から左端までの5基が、この順で並んでいる。殉死の理由はそれぞれにあったが、家光から特別な恩顧をうけており、いずれも番方の頭(親衛隊隊長)を勤めていたことも見逃せないところである。殉死は、一度に有能な家臣を失うことであり、後継者にとっては大きな痛手となることから、寛文3年(1663)四代将軍家綱の時代に、幕府は殉死を禁止し、江戸時代を通じて、この堀田らの殉死が最後になった。なお、平成9年9月の保存整備工事の際、殉死した5基の墓から、分葬された遺骨が発見された。○譜代家臣の墓(19基)…殉死の墓5基を除く19基は、初代将軍家康・二代将軍秀忠に仕えた重臣の墓碑である。これらの家臣の墓碑は、当初東照宮奥の院の傍にあったが、寛永13年(1636)、家康の21回神忌の際に、仏岩谷にあった慈眼大師天海大僧正創建の妙道院に移された。さらに4年後、妙道院とともに現在地に移転した。』
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前列。向って右から藤堂高虎・板倉勝重・土井利勝・酒井忠利・酒井忠勝・永井直勝・永井尚政。
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17.5
前列上記7基に続けて向って右から殉死者5名(堀田正盛・阿部重次・内田正信・三枝守恵・奥山安重)。
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18.5
後列。向って右から松平正綱・成瀬正成・竹腰正信・高木清秀・天野忠重・中山信吉・稲葉政成・板倉重昌・渡辺守綱・渡辺重綱・諏訪部定吉・安藤直次。
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