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一之鳥居(組丁の赤鳥居)。幸稲荷神社の参道入口になります。花輪ばやしの際には赤鳥居詰パレード(赤鳥居行事)が行われます。花輪ばやし最後の神事のサンサを行い、神様を遥拝する場所になります。赤鳥居は御同心組丁と呼ばれた武家屋敷があった地域にあります。
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案内板「赤鳥居」より…『幸稲荷神社の神輿渡御は、8月16日に神明社の神輿と赤鳥居で合流し、町内を巡行する。横丁の東突き当たりの「赤鳥居」と称される鳥居は福士川上流に鎮座する幸稲荷神社への参詣口として位置する。横丁の成立について一説には、幸稲荷神社に背を向けぬよう、また産土神の通りに都合のよいように東西に家並みができたといわれる。組丁は延宝2年(1674)中野氏が花輪城代として着任した時、同心三十人を配備したことから「御同心組丁」とも呼ばれる。「花輪ばやし」の全町内屋台の解散は、8月21日未明、この赤鳥居前で行われる。』
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昭和40年代の組長(写真提供富樫正一氏)。
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鹿角市歴史民俗資料館で見せて頂いた大正5年の花輪町真景図の一部です。
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赤線で囲んだ場所が下から赤鳥居、郷社御休殿、郷社幸稲荷神社。御休殿は谷地田町地区の御休殿(御旅所)とは異なります。
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こちらは途中の追分石(右稲荷神社八丁・左駒形神社花輪鉱山二里)前で見つけた鳥居(秋田県立比内支援学校かづの校付近)です。
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額束には「幸稲荷神社・駒形神社・三倉山神社」とあります。幸稲荷神社は右へ行くようですが、まず左にも向かってみました。鳥居の向こうに写っているのが追分石です。
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左に向かって、その道中の鳥居。額束には「駒形神社・三倉山神社・大山祇大神」とあります。しかしながら、この先へと進んで行くと、壊れた道路の復旧工事のため、途中で通行止めになっており、私が訪れた時にはこれ以上進めなかったため、上記の鳥居へと戻りました。
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追分石を右に進むと大きな鳥居が目に入ってきます。なお、道中に駒形神社の小さな鳥居もありましたが行ってません。
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神饌田奉献記念碑(昭和16年4月17日)。
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鳥居と御神橋(平成元年奉納)。
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御神橋から見える花輪スキー場ジャンプ台。
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参道石段。
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一生懸命掃除をなさっている方がいました。
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「夢を育てて」(創業35周年記念八重桜成木植樹奉納碑・昭和56年5月)。株式会社角昌機械店創立者阿部松司78歳謹建。
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幸稲荷神社の由来…『幸稲荷神社は、祭神に豊受姫命、猿田彦命、天宇都女命を祀り、鹿角花輪通の総鎮守、産土神として広く尊崇をあつめ、その創建は遠く鎌倉時代に遡ると伝えられます。三倉山麓の神域付近は、古代花輪の里発祥の地とされ、福士川は当神社の御手洗川とよばれてきました。代々盛岡藩主南部家の信仰が厚く、社記によれば文明2年(1470)南部政盛が神殿を再建したのを始め、その後社殿の修築はほとんど藩主の命によって行われました。寛永9年(1632)社領20石が寄進され、承応(1651)の頃すでに3間4面の神殿3間7間の拝殿という大社で藩主病気平癒の祈願所でした。大祭には花輪通代官が藩主の代拝を行い、御旅所への神幸には武装の士卒が随従しました。明治以降は、郷社として町費による修改築が行われ、現在の幣殿・拝殿は昭和17年に改築されました。神社の祭典に奉納される花輪ばやしは、日本三大ばやしの一つといわれ、昭和53年秋田県無形民俗文化財に指定されました。豪華絢爛な十町内の屋台が花輪ばやし迫力の演奏をのせて町内を運行する壮観は、東北夏祭りの代表として、国内はもちろん海外でもしばしば公演し絶賛を博しております。』
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石段前の標柱には「龍神社参道石段奉納記念碑」とあり、その下には石製の幸稲荷神社の神額がありました。
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18.5
石段手摺奉納者名(昭和56年花輪42歳寿会)。
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石段上の鳥居。
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神池。
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社殿前鳥居。
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石灯籠一対(文久3癸亥年4月吉日)。
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手水舎。
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社殿前参道。両脇に石灯籠と境内神社。
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石灯籠一対(昭和4年旧7月16日)。
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26.5
境内社。
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駒形神社。
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石灯籠一対(明治45年2月20日)。
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29.5
境内社。
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木鼻・虹梁の龍がかっこいいです。
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幸稲荷神社。
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社殿内。
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石灯籠一対。
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紀年銘は読み取れず。明治44年かな。
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火袋内に日光東照宮大金幣御守。
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境内社。由緒から消去法で推測すれば八幡神社かな。
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石灯籠一対(昭和54年9月11日)。
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奉納劔壹口・開業四拾年記念碑(醤油醸造元、秋田縣花輪町、淺利佐助)。
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奉納大幕壱帳・創業百周年記念碑(福寿醸造元、鹿角市花輪、株式会社浅利佐助商店・同社員一同)。
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