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秋田県鹿角市八幡平切留平。キャメルマート秋田八幡平横に鳥居があります。キャラメルマキアートみたい…で、そのキャメルマート秋田八幡平向かいには大きな釜がありました。特に何の説明もありませんが。
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一之鳥居は結構大きいです。
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社号標。
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大鳥居建立協賛者名碑(天皇陛下御在位60周年奉祝・八幡平国立公園指定50周年記念、昭和61年6月19日竣工落成祭)。
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二之鳥居。
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紅葉ドライブの途中に立ち寄りました。
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山田善吉翁顕彰碑(平成元年6月吉日)裏面碑文…『約六百年前ニ建テラレタ旧神社ノ荒廃ヲ見兼ネ八幡平神社再建ニ当リ僻地ナ土地条件ノ中デ広汎多用ノ教神崇髙ナ人々ノタメ零ノ財源カラ幾多ノ困難ヲ克服シ霊験新カナ神々ニ相応シイ社殿並ビニ八幡平開発三先人ノ顕彰碑建設ニ導キ各協力者多数ノ中カラ率先サレタ山田善吉翁ノ功労ニ対シ心カラ感謝ノ意ヲ表スルタメ本顕彰碑ヲ建立シ其ノ努力ヲ讃エルモノデアル(※山田善吉翁顕彰碑建立委員会名は省略)』
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八幡平神社再建記念碑(昭和51年10月9日竣工祭)…『八幡平山麓最南端の此処切留平は昔狩人の假戸となり、その後定住する民家もあった。その人達の生活の據り所として神社が創設され凡そ六百年を経いると推定される。始め山神を奉斎しその後駒形神社として崇拝し昭和の今日に至っている。社殿は幾多変遷を経て腐朽損傷していたので八幡平山麓開発協議会発足と共に山麓の據点として神社を再建し境内地も整備し社名を八幡平神社と改称した。茲に記念碑を建立してその由来を後世に伝えるものである。』・裏面碑文…『祭神天照皇大神、大山祇神、春日大神外四柱。例祭日6月19日。棟梁渋谷義夫。宮司晴澤直見。事務局長長崎優書。石工成田李治。(※他八幡平神社建設実行委員会名等は省略)』
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狛犬一対(顕彰碑建立委員会建之・昭和56年10月12日)。
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崩壊している鳥居二基。
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八幡平開発先覚者顕彰碑…『【五代関直右衛門翁・阿部藤助大人。六代関直右衛門翁】八幡平ハ重畳タル奥羽ノ山岳中第一ノ神仙境ナリ あすぴーてノ山稜天空ノ階トナリ見霽カス原生樹海ノ連リ湖沼奇岩ノ点在薬効卓絶ナル霊泉群ノ湧出到ル処楽園ナラザルハ無シ此処ニ遊ブヤ忽チ憂患ヲ去リ精彩五内ニ充溢スト謂フ コノ無比ノ恵沢今ノ世ニ遍クナリシハ偏エニ懸カリテ三先人ノ雄図創業ニ因ルモノトス 半世紀ヲ遡レバ深山谿間ノ小浴舎僅カニ場治ノ需ニ応シ羊腸ノ山径ハ専ラ牛馬ノ背ニ頼ルノ他無シ 時ニ直往剛毅ニシテ気宇壮大郷土愛ニ徹スル先覚出デテ敢然トコノ大自然顕揚ノ事業ニ挺身セラル 温泉郷ノ建設路路ノ開削火山現象ノ調査温泉医療ノ研究等殆ト私財ヲ以テ当タリ或ハ官議ヲ動カシ操觚ノ士ヲ招キ勝地宣伝ニ寧日ナク遂ニ国立公園ニ指定サレ担担タル国道ノ実現ニ至ル 正ニ山霊凝リテ斯ク先覚ノ烈々ノ気魄ニ宿リコノ蓋世ノ偉業ヲ為サシメタルモノ歟 茲ニ三先人ヲ八幡平開発ノ祖ト景仰シソノ垂訓ヲ承ケテ齊シク後図ヲ踵ガンコトヲ期ス 昭和五十六年十月佳日 安村二郎撰』
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手水石。
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鳥居の跡がありますね。
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文化財「経塚」標柱。「元文五年埋蔵・礼観音」。神社再建の際に経塚であることがわかったそうです。
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鹿角市指定天然記念物「八幡平神社境内のミズナラ一本」(神社裏手・昭和61年1月16日指定)…『この木は、樹高約25m、幹囲約5m、樹齢220年(400年という説もあり)の巨木で、枝張りもおよそ30m四方にわたり、樹勢も盛んで、小高い丘に立つ姿は雄大である。八幡平神社を創建するにあたり、この天然の巨木も適地として選定した要素の一つであったと思われる。』
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社殿の裏にあるこの木です。
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切留平は昔狩人(マタギ)の拠点であり放牧地でした。その後定住する民家もあり、神社は山の神を祀る集落の鎮守でしたが、集落の消滅に伴って社殿も廃れていきました。その後、八幡平山麓開発協議会発足と共に昭和51年に再建し、切留平神社から八幡平神社へと改称。
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御祭神は天照皇大神、大山祇神、春日大神外四柱。ネットで調べると御祭神は八大龍神(八大龍王神)、山神、馬頭観音、天照大神という情報もあり、外四柱の内の2つ(八大龍神、馬頭観音)はわかりますが残りの2柱についてはわかりませんでした(※天照大神がかぶっており、大山祇神=山神とも考えられるため)。
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神額。
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拝殿内。
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