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青森県上北郡おいらせ町神明前。阿光坊古墳群で有名な地域です。
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神明前遺跡…『黒曜石製の尖頭器(旧石器時代)が出土したことで知られている。また、縄文時代早期の土器も採集されている。現在、本村にある神明宮がかつてこの地の北方の神明山にあったので神明前と呼ばれるようになったという。このほか、遺跡の北には馬場跡が隣接し、また西側には館跡とよばれる平坦な場所がある。さらにその西側には下寺屋敷、大塔山阿吽寺跡と、伝説の地も多い。』
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地図を見ると遺跡はこの場所ではなく阿光坊八幡宮裏参道入口側の道路を上った先になりますね。馬場跡や館跡も記されています。
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参道。
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狛犬一対(平成5年旧2月25日)。
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社殿。
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由緒等は調べておりません。
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拝殿蟇股・木鼻。
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拝殿向拝神額。
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拝殿内。
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裏参道鳥居。
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阿光坊八幡宮新築記念碑(平成5年旧2月25日・裏面寄附者御芳名)。
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以下は、阿光坊八幡宮の境内ではありません。
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阿光坊八幡宮から程近い場所にあった鳥居になります。
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ちょっとした高台に鎮座しており、坂を上ります。
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稲荷の狐は見えましたが、何かは不明です。
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以下は近世の下田村についてのメモです。長いのでスルーして下さい。北郡のうち。盛岡藩領。五戸通に属す。江戸期を通じて当村の村高の大部分は下田家への給所高でした。天保10年の諸士・御給人等地方給所村付書上によりますと、下田将監の給所高800石のうち386石余が当村にあてられています。雑書の正保3年8月23日の条に「於六戸下田ニ黒鶴二羽、大坂勘兵衛討上ル」とあります。また、同書承応3年の条に「六戸之内、下田村烏留鮭御運上金五匁、同下主肥場鮭留四匁、下田之内、秋藤之鰯船御運上金弐匁五分、何も下田村竺物日向ニ被遣、手形三通工藤茂右衛門渡」とあり、当時奥入瀬川の鮭が重要な産物であったことがわかります。邦内郷村志によりますと、家数210、うち本村を除く集落別内訳は洗平14・新関(新敷)11・赤田4・阿光坊10・三本木22・木苗内(木内内)22・染屋4・間木1・木崎19・耳取7・秋藤(秋堂)17・土樋2・土用屋敷2・前宗瀬(前蒼前)3・木之下12・鶉久保8・古間木3・駒ケ沢2・七百3、馬数580。寺院には七戸瑞竜寺末正福寺が見えます。本枝村付並位付によりますと、村の位付は下の上、家数156、集落別内訳は本村29・洗平11・新敷5・赤田2・安光坊6・三本木19・木苗々21・染屋3・間木13・木崎12・耳取5・秋藤9・前惣前1・鶉久保5・木ノ下10・古間木3・七百2。江戸後期には給人である下田家が新田開発を推し進めています。同家は文政7年に御取分新田を願い出ており、この時取りかかった下田谷地の新田野竿高は387石余。しかし、同7年新田開発のために鹿角(秋田県)から金掘師などを呼びよせ、相坂川舟場尻から用水を引こうと試みましたが成功せず。また、天保飢饉の影響もあり新田の開拓は難渋をきわめました。開発を進めるために、木崎村向川除普請割付控帳によりますと、安政5年に当村周辺で奥入瀬川の川普請が行われており、藩も嘉永3年には盛岡の平野八十八、元治2年には五戸の三浦伊八などにそれぞれ当村付近における新田開発を許可しています。慶応元年の新田検地による改高は337石余で、半分の168石余は御蔵入となり、残り168石余のうち80石は開発協力者の赤石周八に、50石は鳥谷部門之助に、38石余が下田将監秀実の給地高に加えられています。この頃には杉の植立なども自由に願い出が許されるようになり、二川目御林の山守源之丞が杉300本の御忠信植立願を文久3年に当村肝入や老名を通じ提出。神社は地内木ノ下の西端に文明9年木ノ下の農民松林喜蔵が勧請したといわれる気比神社があります。同社は江戸期に木崎野馬護神・木下蒼前堂・馬頭観音堂などと呼ばれ、藩営の木崎野牧の馬護神として祀られ、馬を飼う者は遠くからでも参詣したといいます。現在でも旧暦6月1日と15日に例大祭が行われ、昔ながらの絵馬を売る露店が軒を連ねて大勢の人で賑います。この他に本村西部(字館越)に神明宮(皇太神宮)があります。寺院は地内南下田に寛永15年下田将監直徳の開基で、七戸瑞竜寺4世明守の開山という曹洞宗青峨山聖福寺があります。明治2年七戸藩領、同4年七戸県、弘前県を経て、青森県に所属、同11年上北郡所属。当地域は幕末に開拓が進んだところが多く、明治2年に成立する七戸藩でも大参事新渡戸伝の方針によって新田開墾が勧められました。当村においても家禄を失って帰農した元士族をはじめ、比較的豊かな農民たちが開墾を願い出て新田野竿高を認められ開拓に励みました。同藩では開拓御役所・野竿改開拓所を設け、明治4年5月には「七戸反別改印」を押して藩の御蔵入地であることを認める証書を交付。この時に当村は三分され、南下田村・中下田村・北下田村の3か村として扱われています。なお、明治4年9月に青森県の管轄下となるまでには再び下田村1村となったと考えられます。明治初年の村況は「南は山に近く、奥入瀬川区中を流れ、北に大沼あり、土地曠闊にして草莽多く、支村十六其中に碁布し小径縦横交互し行人地道を暗せされは甚難渋とする処なり」といいます。また、当村を東西に流れる奥入瀬川には西の犬落瀬村側と東の百石村側の2ヶ所に渡場がありました。明治9年5月改正の青森県学区割によりますと、洗平・新敷・阿光坊を含む下田村(戸数99・人口623)を1学区、下田村支村木内々・間木・染屋・木崎・耳取・秋堂(あわせて戸数109・人口696)を1学区、同じく支村木下・前蒼前・鶉久保・古間木(あわせて戸数35・人口247)を1学区として各1校の小学校を設置する計画であったことがわかります。のち下田学区と木内々学区をあわせて、同11年2月下田本村の聖福寺を仮校舎として第16中学区日新小学が開校。
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