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三戸町貝守。三嶽神社の一之鳥居から数メートルの所に未舗装の道があり、その少し先に貝守地蔵堂があります。その昔、甲斐武田氏の末裔である中村式部尉勝氏が、源義家に従って奥州に下り、貝守の地に住みました。地蔵堂は勝氏の霊を祀ったものと伝えます。境内には大イチョウ(推定樹齢300年以上・樹高26m)があり、勝氏の墓標に植えたものと云われています。勝氏から3代の娘が、1度嫁ぎながらもほどなく離縁して実家へ帰されます。娘は「身重であれば屍は2個となるであろう。そうでないなら白玉1個となっているだろう。3年後に発掘してみよ」という遺言を残して自殺しました。3年後に掘ってみると、白玉が1個出ました。これを哀れみ娘も地蔵堂に合祀したといいます。大イチョウは乳が出ない母親がさらし袋に白米を入れて祈願すれば霊験あらたかであると伝えます。三嶽神社に参拝した後に寄ろうと思っていたのですが、三嶽神社参詣に満足して、すっかり忘れていました。イチョウの巨木に興味がある方は近いので行ってみてください。
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参道にあった石碑。よく見えませんが明治期の庚申塔かな。
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倒れていた碑。
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途中に墓所。
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旧貝守小学校跡地が貝守館跡。貝守館の出城と考えられる横館は猿辺川の右岸、貝守館の南方500mの地点で、南北にのびる台地の先端を利用した館。ちなみに『青森の伝説』には「貝守が岳の頂上に、大昔のこと手長婆が住んでいた。毎日この山から遠くの八戸の海を見ていて、手をのばしては海中の貝をとって食べていたという。だから今でも、頂上の岩に婆の食べた貝殻が、たくさんくっついているのだという。」とあります。
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社号標。
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参道石段。
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「邦内郷村志」によりますと三嶽神社について「神岳権現堂、重信公元禄6年再興。大同2年田村将軍の開基。往古百石有領、別当貝守弥七郎、依無調法而被取上、又二百石共云」とあります。
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御祭神は広国押武金日命。例祭日は旧8月3日。戸来三嶽神社よりも更に古い創建です。
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大同2年(807年)、坂上田村麻呂により創建され、天暦時代に蔵王権現を勧請したと伝えます。康平3年(1060)、源義家東征の折、別当貝守孫作の祈願にて神託を授かり大勝。南部家29代重信公によって神嶽権現堂が再建され、神仏混淆の時代には威徳院同行神嶽権現堂として尊崇を受けました。明治に至り三嶽神社と改称され、貝守の産土神として厚く信仰されています。
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境内には大杉や古欅が数多く生息しており、神々しい雰囲気を醸し出しています。
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拝殿。
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拝殿蟇股・木鼻・海老虹梁。
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向拝下神額。
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拝殿脇障子。
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拝殿内。
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幣殿・本殿。
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本殿脇障子。
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拝殿横に連結している建物。恐らく神楽殿。
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拝殿前石灯籠二対(明治35年旧3月7日・明治49年9月1日)。
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手水舎。
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手水石2基。
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狛犬一対。
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狛犬の上の台座には「大正14年旧3月3日・三戸郡蛇沼村願主・藏瀧宮」とあり、下の台座には「大正14年旧3月7日・猿辺村大字蛇沼本村納主・三滝宮」とあります。
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三嶽神社(三戸市長松尾栄謹書)…『三嶽神社には正確なる古書記録なく、詳細を欠くが「貝守家の言伝え」、「邦内郷村誌」によれば桓武天王の大同2年(808年)頃、坂上田村麻呂の開基と伝えられ、廣国押建金日命を祭祀すると云う。また蔵王権現を祀った年代は、村上天皇の頃(950年)と伝えられる。御冷泉天皇の御代(1060年)の頃、源義家東征の折、別当貝守孫作の案内にて当神社に戦勝を祈願し、神託を授り大勝したという。南部家29代重信公によって、神嶽権現堂を再建敬信した記録が邦内郷村誌に明記されている。神佛混淆の時代には威徳院同行神嶽権現堂として、世の尊崇を受けたという。明治に至り、三嶽神社と改称され、村社として近郷近在を鎮守されている。特に当神社と深い縁故がある貝守家は数百年に亘り、別当として奉仕した家柄である。或る時代には山伏となり、蔵王葛城山京都などを遍歴し、坊号、院号を許されている。郷に帰っては信仰を説き経済文化の導入に力を注ぎ、地域の安泰を祈って当神社を守護した足跡は、人々の等しく認めるところである。また神社の尊厳のために植えたと伝えられる杉の巨木は、稀にみる荘厳な神域を造成し、数大に亘る社殿の改築等に尽した実績は貝守家の誉れとして永遠に銘記するとともに、ここに名家としてその功労を顕彰するものである。』
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裏面碑文…『趣意書…三嶽神社の縁起は、時代の変遷により遠く忘れられてきている。このときにあたり、関係者が協議し古くから貝守の産土神として崇敬された当神社の来歴を明記して永く後世に伝え隆盛を期するものである。昭和51年9月1日』
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明治三十七八年戦役紀念碑・従軍紀念碑(明治27年9月)。
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忠魂碑(陸軍大将西義一書)。
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五訓の森(昭和7年5月建立)。
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石祠。
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石祠。
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末社の若宮八幡宮。
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こちらも境内社ですが何かはわからず。
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中央に祠、脇には「奉納三嶽神社」と書かれた木札。
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本殿両脇には狛犬一対(阿吽)。
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ちょっと見えにくいのですが、個性的な狛犬です。
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