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三戸郡階上町角柄折大日。住所に大日が付くからわかりやすいと思いきや、非常にわかりにくい場所にありました。写真(上・下)の場所から歩いて山へと入る感じですが、案内看板がありません。
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ここが入口です。
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この先に本当にあるのか不安になるくらいの道を進みます。
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横には川が流れており、大日堂前まで続いています。
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大日堂正面鳥居。角柄折正部家集落北西の御堂川支流沿い山中にある一大霊場。かつては当地方随一の大日様として信仰を集めた霊場です。
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周囲は巨木に囲まれております。
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20段ほどの石段。
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三間四方宝形造で屋根の頂点に雨仕舞として路盤を乗せた御堂が南西向きに鎮座しております。かつては御堂の西側に浄屋堂が建っていたといいますが現在は大日堂に合祀。現在は特に御縁日を催していませんが、かつては正月8日と夏の7月8日には参詣者で境内が溢れたといいます。
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堂内は内陣(※昭和40年代頃までは内陣部分が更に一間ほど奥に広い御堂でしたが、雨漏りによる老朽化で修築した際に内陣を狭めたといいます。と外陣を格子戸で仕切り、外陣には多くの絵馬が奉納されています。その中に明治36年旧正月7日に赤保内の大渡伊勢松(赤保内大渡に鹿花大権現堂を再建した信心深い地元の名士)が日清戦争の対露開戦を前に戦勝を祈願した絵馬があり、その図柄は川中島の合戦で武田信玄と上杉謙信が対陣している場面であり、力強さが感じられる絵馬です。また、明治39年旧7月8日い八戸小中野村の長畑亥太郎が納めた絵馬には日露戦争の軍服姿が描かれています。つまり、この大日様は出征する兵士たちに武運長久の神として篤く信仰されてきたものであるとわかります。内陣中央の内御堂には6枚の棟札が納められており、最も古い棟札は八戸藩五代藩主信興公が武運長久を祈り明和元年8月に大日堂を再興したもので、代々大慈寺住職と松舘籠田の山伏である愛善院が導師をつとめています。この年は信興公40歳のことであり、翌年幕府の許可を得て隠居し、新井田村に別荘を建てて移り住んだということから、幾度か信興公の参詣があったと考えられます。文化8年6月の棟札の導師は大慈寺16世曹逸文要和尚で、文化11年に糠塚大慈寺鐘楼、文政10年に松舘大慈寺山門、天保2年に糠塚大慈寺山門を建立した方です。天保15年6月29日の棟札の導師は大慈寺17世智法宣隆和尚で、宣隆和尚は安政2年に糠塚大慈寺薬師堂、安政5年に糠塚大慈寺経蔵を建立した名僧です。慶應4年6月29日の棟札では愛善院と貞泉坊の山伏らが導師をつとめていますが、明治4年6月に神仏分離や修験廃止によって山伏の愛善院は復飾し籠田長貞として神官となり、大日堂は神社となって御祭神は大日貴命に改められています。その後明治14年9月8日に社殿再建。堂内の外陣には「大日孁貴命」と書かれた正部家伊太郎奉納の大献額が掲げられています。なお、大日堂の御本尊は内御堂前に安置された高さ12cmの桐箱内に納められています。大日如来像は高さ5.5cmの木彫大日如来坐像(両腕欠損。延享6年8月18日の墨書きあり※恐らく寛政2年の誤記)です。内御堂の隣には若宮堂と呼ばれている小堂も安置されており、中には「奉造立若宮堂供家内安全祈攸 文政四辛巳天 正月十二日」と記した棟札があります。内陣には他に蒼前様の馬像や貴人が馬に乗った騎馬姿の像、権現様の獅子頭、浄屋堂から移した出羽三山の木札も祀られています。
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大日堂のブナ。
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神社前の露出している岩。
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狛犬一対(昭和13年旧6月8日)。
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出羽三山碑(明治24年旧6月7日)。
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堂宇正面扁額。
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堂宇内。
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中央に小祠。
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向かって左には大日靈貴命の神額や絵馬などが見えます。
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向かって右にも小祠らしきものが見えますが暗くてよくわかりません。
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