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青森県むつ市大畑町深山。入口は県道4号線沿い。社殿はそこから山に入って少し歩いた深山平付近。大畑発祥の地とされる深山に鎮座。
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鳥居をくぐった後はこのような山道を歩いて行く感じです。
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道中は特に何もありませんが、道は整備されています。
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大畑八幡宮奥の院とされていますが、古い記録は焼失しており、はっきりとした創立年月日は不明。但し、御神体の裏に墨で書かれた延暦元年の文字や、棟札の1枚に延喜4年に別当職を大行院が始めたとの記述が見られます。又、御神木のうちで最も大きいものは目通りで周囲1丈7尺と書かれた享保の終わり頃(1735)の文書も残されています。江戸時代までは深山大権現と呼ばれていましたが、神仏分離令により深山神社と改名。明治6年5月に1度八幡宮に合祀されましたが同7年1月復社。同10年2月村社。昭和27年8月宗教法人深山神社。現在残っている棟札を古い順に並べますと、元和2年11月再建、元和3年焼失し元和4年11月大蔵坊の代に再建、承応3年10月別当左部の代に再建、延宝6年6月大蔵坊の代に再建、享保18年4月大行院永連法印の代に再建(この時に御神体を開帳。棟札の裏には八大竜宝神とあるようです。)、宝暦13年大行院涌心法印の代に再建、寛政3年3月大行院涌心法印の代に再建、文化11年9月宮浦河内藤原保春の代に再建、天保10年4月大行院三僧祇観黄の代に再建、明治16年5月宮浦力四郎の代に再建、昭和48年6月宮浦均の代に再建となっており、370年位の間に30-50年位の周期で建て替えられています。
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御祭神は誉田別命ですが、江戸時代までは神鏡が三面祀られていました。神仏分離令により、烏帽子をかぶった中央の神像の一面だけが残され、残りの二面は仏体であったために取り外され、書類上は大安寺に譲り渡したことにして社務所に保存。これらは御正躰鏡・懸仏と呼ばれるものです。三面とも大畑町史にて写真で見ることができます。烏帽子の神像は直径4寸(約12cm)の鋳物で、6cmの神像が浮き出ています。裏面には延暦元年甲子と墨で書かれています。他の2体は薬師如来と阿弥陀如来です。
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拝むことは叶いませんでしたが、奥院の左右には、廃止になったり、合祀された神社が祀られているそうです(天照皇太神宮・若木大明神・中嶋稲荷大明神・船橋稲荷大明神・蘇生稲荷大明神)。
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菅江真澄が次のように記しています。『(前略)川をへだてて深山権現の社のある山は、年を経た古杉が生いたっている。まことであろうか、大同二年のむかし鋳た神鏡を、ふかく秘めて神として祭ったものであるという。』
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石灯篭一対(文化13年4月17日)。
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深山神社の由来(※大畑発祥之地にある案内板より)…『祭神-誉田別命(応神天皇)。例祭-6月14日、15日。神社の創建は、不詳。御神体に延暦元年(782)の文字や、延喜4年(904)別当職を大行院が始めたとの言い伝えがある。元和2年(1616)再建、元和3年焼失、元和4年再建し慶安元年(1648)南町に八幡宮を遷座、当神社も奥の院として江戸時代まで、深山権現宮と呼ばれ祭神のほか阿彌陀、観音の二面の鏡子も併祀されていたが、明治になり神仏分離令により鏡子が取り外され、以後深山神社と改められた。深山一帯は、一説によれば大畑地名発祥の地とも呼ばれている。また、檜山は自然林の宝庫でもあり江戸時代には社殿修築改築材、御用船の材料として伐採されたほか、度重なる大飢餓の米稗などの食料買付の担保として、幾多の人々を救済したと言われている。文化8年(1811)川内の藤田三左衛門が、宮古で三千石船を造ったときその帆柱として、深山境内にある切株八丁敷の木材を伐採したということである。栃ノ木は、神木とされ傍に先人の最初の開発偉業を偲び、郷土を愛する心を後世に伝えるため石碑を建立した。大畑町教育委員会』※なお、由緒等については大畑八幡宮の記事にも詳しく書いていますので、そちらも参照ください。
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