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青森県むつ市大畑町南町。かつての大畑村で、東町・本町・新町を含み,そのほか枝村として二枚橋村・木の部村・赤川村・下風呂村・桑畠村・異国間村・蛇浦村があります。江戸初期には既に本町・南町の2町には民家が軒を連ねていました。本町は元町で、商人・杣師・修験者等が住居し大町とも通称しました。南町は百姓・杣夫等が住んでメタ町と俗称しました。両町には寺院が並んで繁盛し、寛文7年に港が開け、延宝2年新町、元禄5年新町が開けました。東町は新丁ともいい、昆布市が立ったので昆布町とも呼ばれました。なお、寛文年間に既に菊池伝右衛門が赤坂(現東町筒万坂)に灌漑堤防を築造し水田を開発して稗を栽培しています。
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神社として慶安元年南町に遷座された八幡宮、慶安2年湊村に勧請された大畑代官所の祈願所でもある春日神社、延宝2年創建で黒森山を祀る木野部の玉垂神社、天正2年創立の赤川の八幡宮、貞享元年創立の小目名の大山祇神社、宝暦年間勧請・安永3年再建の二枚橋の西宮神社、安永8年再建の釣屋浜の塩釜神社、文化8年創建の孫次郎間の稲荷神社などが見えます。
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寺院として本町に慶長19年開山の曹洞宗大安寺、寛永7年開山の浄土宗宝国寺、延宝7年開山の真宗本願寺派正教寺があり、南町に正保4年開山の浄土宗心光寺、東町に元禄13年開山の日蓮宗本門寺、湊村に延宝8年開基の宝国寺末延寿庵が見えます。本門寺では大坂の豪商天王寺屋弥右衛門が大畑檜山伐採の縁故で宝永元年堂宇を寄進。
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東町には検断・宿老を勤め、徂徠学を研究し、「原始謾筆風土年表」52巻を著した村林鬼工(二代目源助)を輩出。古学の足羽源翔藍田は新町出身。歌人南向斎文水(高松喜太右衛門)は湊村出身で菅江真澄と交友がありました。また、湊村の八谷勘兵衛は他国商人飛騨屋久兵衛に金貸しをするほどの商人。本町出身の横山正太郎は上京して日本最初の写真家となりました。この他、歌人の池田亀麿、俳人の海客楼千波留などは当村の出身。
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狛犬一対(文久元年8月15日)。
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大畑八幡宮は特に漁業や海運関係者から信仰され、大畑湊に回航した船は、当社で海上安全を祈願する習わしがあったそうです。
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石灯篭一対(安政6年8月15日)。
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御祭神は誉田別命(応神天皇)、息長帯比賣命(神功皇后(応神天皇の母))。例祭は9月15日(14-16日)。京都祇園祭りの流れをくむ盛大なもので享保3年(1718)の記録にも残っています。
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最初は深山の地(深山神社。大畑町湯坂下から薬研へ行く途中の大畑発祥の地とされている付近。北西約3kmの地)に祀られていました。深山とは深山幽谷のことであり、大行院が山に伏し、修行を重ね、験を修めたと思われます。※深山神社の旧御神体は三面の御正体(懸仏)で、現在は八幡宮に祀られています。御正体裏面には延暦元年甲子の墨書きがあり、延喜4年に別当職を大行院がつとめたと記される棟札もあるそうです。
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宮司の宮浦家は代々その任に就いてきましたが、上記のように江戸時代までは大行院という山伏でもありました。大行院は京都聖護院系の本山派山伏で、享保10年(1725)には京都の神官、吉田家より宗源宣旨や神道裁許状を受け「正一位八幡宮」の神位を授けられました。つまり下北半島三十三ヶ所観音霊場巡礼第十番札所の大行院(御正体聖観音)とは大畑八幡宮のことです。神仏混合し、大行院が別当として祭祀を取り仕切っていました。特に漁業や海運関係者から信仰され、大畑湊に回航した船は当社で海上安全を祈願する習わしがあったと言われます。
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明治時代初頭に発令された神仏分離令により、「天照皇太神」「八幡大神」「水天宮竜神」「金比羅宮」(金平太神)「天満宮」並びに「住吉宮」(住吉神)が祀られ、神社として独立しています。ちなみに神仏分離の際、御正体は表向きだけ大安寺に移したことにして、実はそのまま八幡宮の御神体としていました。明治6年郷村社に制定があり、大畑村、正津川村、下風呂村地域の郷社に指定。昭和24年9月国有であった境内地を譲り受け、昭和27年8月宗教法人八幡宮となり現在に至ります。
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上記のように深山の地に元々あったわけですが、大畑湊で材木搬出量が多くなるのに従い、人家も本町・南町の方に形成されるようになり、江戸時代初期の慶安元年(1648)7月に人家も多い南町の現在の社地に分霊遷座(※現在深山神社は大畑八幡宮の奥の院とされています)。その後、正徳2年(1712)再建。寛保元年(1741)正月に焼失。寛保3年再建。明和8年(1771)に焼失し同年再建。天保11年(1840)8月再建。昭和42年に改築。現在の社殿は遷座350年にあたり、平成10年に改築されたものです。社内の御本殿は安永5年(1776)に江戸霊厳島の伊藤久右衛門より寄進されたもので、江戸から船で運ばれたものです。建築様式は流れ造、総欅製で柱の1本1本にも細かな彫刻が施された立派なものです。かつては山伏の修験場でもあった社務所は宝暦元年(1751)に「思斉堂塾」という寺子屋が開かれ、明治5年までの120年間にわたり、下北地方最古の寺子屋として地域の教育に貢献し、「人が集い・人がつくられる」場所として現在に至っております。大畑八幡宮社務所は建築年は不詳ながら、慶長18年(1613)に大修理した際の棟札が残されており、下北地域最古の木造建築物。ちょうど400年の節目の年(2013)に大修理が行われています。なお、社務所は境内ではなく、社殿の北東約250mの場所にあります。
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社宝として「あわび貝」があります。寛政の頃、幕府の御用船「政徳丸」に船頭として大畑出身の長川仲右衛門が乗っていました。房洲沖で嵐に遭って沈没しそうになった時、1枚の鮑貝が船底の穴を塞いで助かりました。その貝を持って帰り、大畑八幡宮へ奉納したところ、中に自然に「大神宮」という文字が浮き出ていたそうです。現在も海上安全の守護神として信仰されています。また、後醍醐天皇後宸筆の小色紙(御製の和歌(掛け軸))「したもみち かつちるやまの ゆうしくれ ぬれてやしかの ひとりなくらむ」があります。
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大畑八幡宮の由来(案内板より)…『・祭神-誉田別命(応神天皇)。・例祭-9月14~16日。・最初は深山の地に祀られていたが、慶安元年(1648)現在の社地に遷されている。享保10年(1725)には、京都の吉田家より「宗源宣旨」の許状を受け「正一位八幡宮」の神位を授けられた。社内の御本殿は安永5年(1776)に伊藤久右衛門より寄進されたもので、江戸から船で運ばれている。建築様式は流れ造、総欅製で柱の一本一本にも細かな彫刻が施された立派なものである。社宝として「あわび貝」がある。寛政の頃幕府の御用船「政徳丸」に船頭として大畑出身の長川仲右衛門が乗っていた。房洲沖で嵐にあい沈没しそうになったとき、一枚の鮑貝が船底の穴をふさぎ助かった。その貝を持って帰った処、中に自然に「大神宮」という文字が浮き出ていた。現在も海上安全の守護神として信仰されている。大畑町教育委員会。』
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拝殿向拝の蟇股・木鼻等。
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虹梁。
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拝殿向拝神額。
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拝殿内。
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御神木「八幡の欅」(樹齢234年超)です。
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安永3年(1774)、八幡宮御社を20間余りも後路(現在地)に移しました。その際に境内地に木を植え始め、鎮守の森の形成をはかりました。この御神木の欅は安永3年の御社殿移転の際に、蛇浦(風間浦村)から移植されたもので、当初3本が植えられ、境内の巨木として昭和の時代まで威容を誇っていましたが、台風や雷被害のために、2本が失われ、現存する唯一の御神木です。
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鎮守の森づくりは、現在でも「鎮守の森緑化推進実行委員会」により実施されていますが、八幡宮の森は<いやしの森>として、緑空間を大切に後世に伝えたいものです。ちなみに、御社殿の移転理由は、狭隘な境内の解消と、南町から出火し八幡宮や正教寺が類焼した大火によるもので、「鎮守の森づくり」は、緑により御社殿を火災から防ぐことも理由のひとつでした。
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狛犬一対(昭和55年3月25日)。
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一敷石寄附者芳名碑。
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手水舎。
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石灯篭一対(昭和53年5月吉日)。
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社殿横。
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石灯篭や手水石など。
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こちらの社には戦没者合祀者名簿が奉安されています。
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満州事変・支那事変・大東亜戦争殉國碑。
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忠魂碑(明治39年9月・大畑在郷軍人建立)。
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