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青森県三戸郡五戸町倉石中市浦田。浦田天満宮。浦田協和館に隣接。
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鳥居脇に祀られている石。
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鳥居脇の庚申塔。
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琴平塔。
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台座碑文(琴平塔移設経過)…『明治12年(記念碑に刻まれていた年号)に建立されたと思われる当記念碑は、浦田集落、蝦夷舘地内の又重地区に向う村はずれの旧道沿いにあったが、平成28年、成木の根の盛り上がりのため、傾き、倒壊のおそれとなり、浦田自治会協議の結果、当天満宮境内に移設した。平成28年7月24日浦田自治会』
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殉国士の碑(青森県知事木村守男・平成10年8月15日建立)。
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向って左には戦没者名簿(戦没地・誕生日・年齢など詳細に掲載されています)。裏面に碑歴『一、昭和21年7月25日、竹洞福治郎発起人となり、自ら栗木柱建立、英霊16柱を記し、丁重な慰霊祭を行い、年中行事とした。二、昭和52年7月25日、立花富治終戦33回の供養を記念し、栗木柱の腐朽を新木柱に建て替え、盛大な慰霊祭を行う、氏は以後、護勲会長として毎年霊を慰め、今日の碑建立の基礎となった。三、終戦53年を期し、有志相謀り、青森県知事木村守男揮毫の顯彰碑を建立し、敬慕追崇の誠を盡す。』・浦田戦没者石碑建立委員会名簿。
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右に碑文『日清、日露の両戦後、日支事変、並びに大東亜戦争に出征し、故国を遠く離れて、酷寒のソ連、中国大陸、酷熱の東南アジア、フィリピン、ビルマ(ミャンマー)、或るいは太平洋地域の各戦線に於いて活躍し赫々たる武勲を収めたるにも拘らず、武運拙く、再び故国の地を踏む事能わず、国に殉じた諸英霊の忠誠も空しく、戦い我に利非ず、広島、長崎に世界初の原子爆弾の投下により、遂に昭和20年8月15日、終戦を迎えるに至った。戦後の日本は未曾有の困難に陥り、主要都市はボーイングB29の焼夷弾爆撃により無残な焼け野原となり、住むに家無く、食うに米無く、着るに衣類無く、働くに職無く、国破れて山河あるのみ、失望のどん底であった。しかしながら国民の努力と英知により、復興が目覚ましく、戦後20年にして、想像に絶する世界有数の経済大国に発展、今日、この世界平和維持に貢献し得るに至った事は、諸英霊の国に殉じた犠牲と加護の賜に因るものと信ずる。依ってここに同じく戦線に参加し、幸いに生還することが出来た有志が、その勲功と遺徳を偲び、遺族と相謀り、在天の諸英霊の功績を永く伝え、その御霊の安らかなることを祈り、再び戦禍の起こること無く、無窮の世界平和が維持されることを願い、誠心をこめて、この碑を建立したものである。東京陸軍少年通信兵学校第十期生元陸軍々曹畑山定雄』。裏面に遺族会や護勲会等の寄附者名碑。
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狛犬一対(納主荒屋敷喜八(満90才)長男賢治(満65才))。紀年銘は平成2年7月25日。
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石灯籠二対(平成2年10月吉日・昭和15年旧6月25日)。
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手水石。
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不明の石。
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社殿。文久元年旧6月25日に現在地に天満屋敷から移ったと言われていますが、詳細はわかりません。御祭神は菅原道真公、祭日は旧暦6月25日でしたが、近年は7月25日とのこと。
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拝殿の蟇股・木鼻。
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拝殿向拝神額。
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拝殿内。暗くて見えにくいかと思いますが、中央に青色に塗られた個性的な狛犬が一対。
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末社。
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騎馬姿の八幡神像にも見えますが、恐らく蒼前様。
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祀られている石。何かはわからず。
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石の窪みに賽銭が置かれています。
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