三戸郡田子町田子字堂ノ東。
糠部三十三観音二十六番札所。
案内板「真清田神社」より…『旧郷社。祭神は高照姫命。明治2年までは十一面観音を本尊とする金龍山清水寺と呼ばれ、大同2年(807)田村麻呂将軍の建立によるものとの伝説がある。南部信直・利直の尊崇厚く、田子城に在ったときは毎月参詣を欠かさなかったといわれ、寄進米二駄を供している。十一面観音像のほかに御前立ち童子と呼ばれる像三体が安置されている。糠部三十三観音二十六番札所であり、その御詠歌は「田子町にたつは神変ふしきしゃのちかいは すゑの世にもたえせし」。平成5年3月田子町教育委員会』
二之鳥居。
草むらの中に石碑。
注連縄に隠れておりよく見えませんが庚申塔の類かな。元治の紀年銘は見えます。
三之鳥居。
三之鳥居から先は巨木が多いです。
こちらは庚申塔。紀年銘は読み取れず。
巨木の多くに注連縄がされています。
「真清田神社の杉」として町指定文化財(天然記念物)に指定されています。
幹周4.81m、かつては根に近い部分が大きな空洞となっており、その部分を埋めているため樹高は不明。推定樹齢500年。
社殿が見えてきました。大きいですね。
社殿の周囲にも巨木。
真清田神社の御祭神は高照姫之命。創建は大同2年(807)3月17日と伝えられますが、部落の火災の折、古来の文書が焼失したために詳細不詳。現神社は昭和2年に改築され、同年郷社に列格。当神社の宝物として、坂上田村麻呂将軍の寄進によると伝えられる十一面観音像(6尺2分の木像)等が安置されています。
明治初年以前は十一面観音を本尊とする下田子観音堂とか金龍山清水寺と呼ばれる寺でした。別当吉野院(佐藤毅氏祖)。旧藩時代には代々の藩主の信仰が厚く、26代南部信直、27代利直は田子在城中は毎月参拝し武運長久を祈られたと云います。歴代藩公の領内巡検はもとより、幕府の巡見使通行の際も立ち寄って参拝する観音堂でした。明治初年の神仏分離に際して改名。
下田子十一面観音(木像。立像丈6尺、胸部広さ1尺8寸5分、首より頭上まで1尺3寸5分。)と前立童子3体(木像)は、いずれも写真で拝見したことありますが、中々個性的なお姿でした。前立童子はずっとその名で呼ばれてきましたが、後の調査で弥陀像・薬師像・毘沙門像と判明しております。平安期の様式の特徴が見受けられるものの、4体とも製作年代は不明であり、損傷は著しいです。また、町指定文化財にもなっている棟札8枚(正保3年~大正14年)が残されています。ちなみに棟札・観音像等については「田子町の文化財」(田子町教育委員会・昭和59年3月発行)にカラー写真とともに大変詳しく掲載されておりますので参照ください。
拝殿向拝。
拝殿蟇股。
拝殿木鼻と持送。
水引虹梁下の持送(裏面)。
手鋏。
手鋏(内側)
脇障子の孔雀。
拝殿内。
下田子十一面観音像・弥陀像・薬師像・毘沙門像の写真が飾ってあるのが見えました。
本殿。
本殿もまた素晴らしい造りですね。
本殿脇障子の狛犬。
手水石。
水道水を引いてますが、手水石は大変古いものですね(天明6年12月吉日)。
狛犬一対(昭和32年旧3月17日)。
隣の建物へ。
社殿内。馬頭観音堂でした。
中央には馬やら牛やらがおります。
一番大きいのが烏帽子直垂姿の騎馬像。
次に大きいのは鼻環の付いた牛。
かなり小さい烏帽子直垂姿の騎馬武者像。
その後ろには棟札らしきものがありますがよく見えず。
一番小さいのは陶器の馬。
昭和天皇皇太子時代の写真もありました(大正11年旧3月17日奉納)。
馬頭観音堂の外に出まして、末社です。
地蔵菩薩坐像。
こちらは何かわからず。
穴の開いた石などがありましたから薬師堂かも知れません。
こちらは山の神ですかね。
山乃神橋本源次郎翁公徳之碑(昭和21年5月30日建立)。
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