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三八城神社境内では三八城山朝市(4-11月・朝5-8時)が開かれているようです。八戸市は朝市に溢れていますね。
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青森県八戸市内丸。旧八戸城本丸の御殿屋敷地跡に鎮座。旧県社。例祭日は8月6日。御祭神は(上)天照大御神、(右)南部三郎光行命、(中)南部左衛門佐直房命、(左)新羅三郎義光命。
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石灯籠二対。
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殉職殉難慰霊碑。
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手水舎。
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神楽殿。
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石灯籠一対。
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境内社の稲荷神社。かつてはもっと鳥居があったと思われますが、現在は台石部分だけが残されていました。
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狛犬一対。
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現在は使われていない天水桶。明治11年の紀年銘が見えます。
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狛犬一対。
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元禄2年(1689)5月7日、八戸藩第二代南部遠江守直政公により、甲斐源氏の祖とされる新羅三郎義光命を邸内に勧請し、新羅宮と称したのがはじまりと伝えます。尚、八戸藩「御日記」には、神明宮御祭典の記述はあるものの、鎮座に関する記載は無いため、神明宮については不明。
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明治4年7月、廃藩置県に際し、八戸城が廃城になり、内部の建物は取り壊しや払い下げとなり、社殿も城外(八幡町11番地)へ移されました。その際、2間4方の切妻造の社殿が造営され、同じく八戸城の鎮守社で城内に祀られていた神明社と、南部家の祖とされる南部三郎光行命と八戸藩祖南部左衛門佐直房命の分霊を合祀して祖霊社に社号を改称、白川神道によって祭祀が行われます。
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明治7年8月15日に再び旧八戸城内の本丸へ遷座し、三戸郡の「三」、八戸城の「八」「城」に因んで三八城神社と改称。当初、社殿は旧城内御殿の御玄関のところに拝殿が建てられるも、その後、西の方へ引き移し、現在の社殿の位置は旧城内御殿の奥御居間の付近。
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明治11年に社殿再建に際して神社創立を願出て同年4月1日付にて許可、正式に神社となり、旧藩士達から灯篭、手洗い、獅子、その他の供え物が献納されており、同年の8月10日から17日まで正遷宮の儀式(正遷座祭)が斎行されています。明治12年8月28日県社列格、明治39年11月10日神饌幣帛料供進定神社指定。
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現在の社殿は大正15年に造営されたもので、拝殿は入母屋、桟瓦葺、平入、正面千鳥破風、正面1間軒唐破風向拝付。社宝には本小札勝色威二枚胴具足附具足櫃(室町時代後期、甲冑師明珍派第14代高義作)や梨子地螺鈿金装太刀(衛府太刀形式、金具は金銅製、随所に南部家の家紋、向鶴紋と割菱紋が見られます)、八戸南部家11代南部麻子氏から寄進された旧八戸藩主軍装用具(陣羽織・采配・軍配団扇・鎧直垂・大口袴・軍鞭・軍扇の8品)があり、いずれも昭和56年に八戸市指定有形文化財に指定。
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例祭日には白川神道奉行事(略式)榊舞が奉納されます。また、南部地方に伝わる古武道、神道無念流居合の奉納演武も行われています。
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拝殿内。
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拝殿前狛犬一対(明治11年8月)。
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砲弾が2つありました。
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大きい方の砲弾には「明治二十七八年役征清威海衛劉公嶋於獲之 沼田清吉 明治三十八年八月吉日奉納」などと刻まれていました。※明治二十七八年=日清戦争、明治三十八年八月=日露戦争終戦年
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「青森の伝説(森山泰太郎・北彰介)」に次のようにあります…『三八城公園は、藩政時代の城跡である。寛文4年(1664)に、盛岡の南部藩を継いだ重信の弟直房が、二万石で八戸藩主となった。公園に藩祖直房ほか南部家ゆかりの遠祖を祭る三八城神社がある。ここの梅林のあたりに、義経石と弁慶石というのがあった。足型のようなものがついているのが弁慶石で、足駄の歯型のような形のついているのが義経石とよばれた。弁慶石は、今、神社の石段の側に移されているが、義経石はどこへ行ったかわからなくなったという。』
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三八城神社と弁慶石(「伝説」源義経北方コース)…『悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は兄の頼朝に追われ文治5年(1189年)4月平泉の高館において31歳の若さで自害したといわれている。短く華麗だったその生涯を想い、後世の人々は「義経はその前年にひそかに平泉を脱出し、北をめざして旅にでた」という伝説を作りあげたのである。世に言う「判官びいき」であろう。義経が高館の御所から見渡して馬淵川の東の野原を京ヶ原、その北の州先を京ヶ崎と命名したのが今の三八城山である。足下のこの大きな石は弁慶石と呼ばれ、昔は境内南側のコブシの木のあたりに置かれていたという。石のところどころが人間の大きな足型のように窪んでいるのが、力自慢の弁慶が岩にしるした足型だといわれている。公益社団法人八戸観光コンベンション協会』
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弁慶石の窪み。
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