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天台寺(二戸市)~其之肆』からの続き。
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仁王門は修理工事中。仁王門は本堂と同時期に造営工事が行われ、本堂より1年早い明暦3年に完成。八脚門、切妻造、鉄板葺(元はこけら葺き)。国指定文化財。仁王像(阿吽)は二戸市有形文化財。鎌倉時代の仏師、運慶の作と伝わる仁王像は、患部と同じ箇所にお札を貼れば病気や怪我が治るといわれています。男性は向かって右側の阿形像、女性は左側の吽形像に参拝するそうです。
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仁王門裏側。たくさんの石灯籠が並んでいますが…解体修理中により立入禁止です。
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中には古い石灯籠(寛政5年)もありますね。
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仁王門…『左右二体の仁王像は鎌倉年間の運慶作と伝えられる。患部にあたるところに男性は向って右の阿形像に、女性は左の吽形像に白紙をはって祈願すると、病いがたちまち治癒するという信仰がある。』
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仁王門の写真。江戸時代前期の姿が良く残されています。
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仁王門前の狛犬一対。紀年銘は明治42年だったかな。
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仁王門前の石灯籠一対(平成19年8月吉日)。
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こちらは判断しかねますが、豆地蔵と同じ表情ですね。
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修験堂跡。
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修験道跡…『月山に登る修験者は17日間この堂で精進斎戒しなければ登山できなかったと伝えられる。また旧4月18日の祭礼(十八講)には月山別当三光院の一行がこの堂に入り、装束を改め、心身清浄とした上で登山したといわれる。』
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月山堂への参道がありますが…
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これは無理ですね。月山堂正面に出ますが修験者の険しい道。ちなみに現在はここから行く必要はありません。
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文化財保護協力金としてお一人様300円を売店に支払います。安いもんですね。本堂はこんな姿ですが。
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本堂は国指定重要文化財。入母屋造、銅板葺(もとは板葺、桟瓦葺)の五間堂、正面に向拝一間。万治元年(1658)、盛岡藩2代藩主南部重直公により建立(建立棟札現存)。内陣と外陣が明確に区切られており、天台宗を含めた密教系寺院の伝統的な造りです。内陣奥の壁際には仏像を安置するための造り付けの大型厨子も存在。黒漆、朱漆、金泥で彩られており、かつては本尊の聖観音立像も秘仏としてここに安置されていました。建物上部には随所に彫刻が施されています。
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本堂前の手水石や石灯籠。
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半解体修理中のため近寄れません。
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天台寺本堂(国指定建造物・平成2年9月11日)…『桁行5間、梁間5間、一重、入母屋造、向拝1間。天台寺本堂は、萬治元年(1658)、盛岡藩主南部重直によって造営された本格的密教仏堂です。造営以後、元禄3年(1690)、享保16年(1731)、宝暦11年(1761)など本堂以下末社まで度々の修理が行われていますが、これらも全て盛岡藩による工事でした。本尊聖観音を納めた本堂内部の漆塗り大型厨子や各部の造りも優秀で、蟇股や木鼻などの細部に近世の特徴がよくあらわれています。同時期の造営になる仁王門も現存し、盛岡藩大工の技術水準を知る上で貴重なものです。平成4年10月浄法寺町教育委員会』
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ちなみに裏側から見ても現在はこんな感じでまったく見れません。
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本堂の写真。江戸時代前期の本格的な天台宗仏堂。
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本堂及び仁王門の古写真、発見墨書。発見墨書は「明暦三年・仁王門組物上面」、「昭和廿九年十一月吉日・仁王門組物裏面」、「明暦四年六月十日・本堂敷居裏面」、「明暦4年六月十一日・本堂敷居裏面」、「元禄三年七月廿修理・本堂破風板裏面」、「享和二戌年八月十八日修理・本堂小屋組材」。
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大正5年(とち葺屋根)・大正8年(桟瓦葺屋根)・平成25年(銅板葺屋根)の本堂と、明治期頃(こけら葺屋根)・昭和10年代頃(こけら葺屋根)、平成25年(鉄板葺屋根)の仁王門の古写真がありました。
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天台寺の歴史、本堂及び仁王門の時代別部材残存状況。
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寂庵・仮本堂。仮本堂にて参拝。さて、ここで一気に由緒に触れたいと思います。天台寺は、神亀5年(728)の開山とされる天台宗の寺院。「御山の観音」あるいは桂の木の根元から湧き出ている泉にちなみ「桂泉観音」とも呼ばれた天台寺は、古代最北の仏教文化の地として人々の信仰を集めました。
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新しい寺の候補地を捜すよう聖武天皇から命じられた僧・行基が、八峯八谿(8つの峰と8つの谷)を持つこの山を八葉山と名付け、桂の木を用いて観音菩薩像を彫り、天皇自らが記した天台寺という額を掲げて開いたと伝えられています。その真偽の程は定かではありませんが、仏像の製作年代等から遅くとも平安時代後期頃には創建されていたと考えられます。
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江戸時代には領主である南部氏からも厚い保護を受けており、現在の本堂も万治元年(1658)、盛岡藩主南部重直公により建立されたものです。しかしながら、明治時代には廃仏毀釈による仏像の破壊や、代々住職を務めた家系が途絶えたこと等により徐々に荒廃が進みました。
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これに追い打ちをかけたのが戦後(昭和28-31年)に起きた霊木(杉)伐採事件です。境内には樹齢100年を超える杉の大木が1000本以上も存在していましたが、当時の住職が業者に騙され、巨木1666本が業者の手によって伐採・売却されてしまいます。当初の理由は、一部檀家が本堂屋根改修経費を捻出するために30本程度の伐採許可を得たというものでしたが、伐採作業は延々と続けられ、また伐採杉は、天然秋田杉と産地を偽った上で総額約2億円で売り払われたそうです。これによって丸裸同然となった境内からは荘厳さが失われ、徐々に参拝者の足も遠のき、石段は壊れ、草は伸び放題という無残な荒れ寺と化してしまします。現在も杉の伐採跡は生々しく残っており、その切株には豆地蔵が置かれています。
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昭和35年には伐採関係者により、寺領約20ヘクタールのうち18ヘクタールに地上権が設定され、植林作業を行う自由も奪われます。檀家により地上権契約の解消を要求されるも、正式な手続きで登記された以上契約解消は困難となりました。昭和36年に檀家側から盛岡地方裁判所に民事訴訟が始まり、昭和42年まで38回の弁論を通じて、双方で地上権設定の有効無効を争われたそうです。昭和42年以降は裁判所側の要望により調停になるものの、調停作業は実質14回もの回数に及んだと言われ、話し合いがつくところまで至りませんでした。
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心を痛めた地元住民らの間で、昭和40年代後半から天台寺復興へ向けた機運が高まり出します。保存会が結成され、報道機関も寺の歴史と現状を取り上げ、学術的な研究や植林活動が始まりました。昭和50年には著名な作家でもある今東光(今春聽・天台宗東北大本山中尊寺貫主)が特命住職を拝命、翌年4月就任(第71世住職)し注目を集めます。昭和51年に寺院の荒廃問題がマスコミによってクローズアップされ、被告側に譲歩の態度が見られ、3ヘクタールを除いて地上権を解除するということで合意が得られました。
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そして天台寺の名を一躍広めたのが、昭和62年に住職に就任した…皆様もご存知かと思いますが…瀬戸内寂聴師(第73世住職)です。今師の弟子で同じく作家の瀬戸内師は、軽妙な語り口で非常に高い人気を博しており、その法話を聞こうと全国各地から人々が訪れるようになり、在職中に天台寺を東北有数の有名寺院に押し上げました。瀬戸内寂聴天台寺名誉住職特別法話は現在も人気を博しています。※平成17年に菅野澄順が第74世住職に就任。瀬戸内寂聴は元天台寺住職、現名誉住職。
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このように過去には色々とありましたが、現在では比叡山延暦寺からは不滅の法灯の分灯を受け、境内及び周辺道路の整備が進み、奉納された石仏が随所に立ち、瀬戸内師の提案で植えられた紫陽花が夏には美しく境内に咲き誇る素敵な寺院となっております。
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「施無畏」の額(今東光師書)。
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ってことで、『天台寺(二戸市) ~ 其之陸』へ続く…ちなみに今回のルートと現在地。
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