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十和田市深持字船沢。梅集落。敗走した落ち武者達が住み着いたという伝説を残す梅集落。また、梅集落一帯からは土器も出土しており、古くから人が住んでいたことがわかっています。落人の里の水は八甲田山系に源を発する水で、清澄な水のある所にしか育成しないウワバミソウ(ミズ)が繁茂しています。この山間の湧水は村の西カドと東カドの2ヶ所にあり、村人はカドの水と称していますが、梅集落の歴史的背景や茅葺屋根のカヤ人形等昔ながらの趣から「落人の里の水」として知られるようになりました。
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こちらは東カドの水になります。石段を下った場所にあります(石段は2ヶ所あり)。
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昔から村の生活水として使われてきました。現在は煮沸してから飲用するようにとの注意書きがありました。
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2つの水槽があり、それぞれ使用目的により使い分けられていたようです。
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なお、案内板は東カドにも西カドにも設置されていますが、内容はまったく同じものです。
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こちらは西カドの水。
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道路沿いにあるのですぐわかります。
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綺麗な水ですね。
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こちらには煮沸飲用の注意書きはありませんでした。
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水量も豊富です。
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私たちの名水(青森県知事認定・昭和62年2月27日)落人の里の水…『戦いに敗れた武士が逃げ落ち、そして住み着いた山村が、この地であると伝えられる。四方山にかこまれ山あいの静かで陽溜りがあり清水が湧き出る小さな集落。この場所は、適当な遁世な地であったであろうか。もちろん、この集落一帯は土器の出土することから落人以前にも人が住んでいたであろうことは想像にかたくない。一方「日本城郭大系」によれば梅集落の南に柏木館といわれるエゾ館の跡があると記録され、応永元年(1394年)の頃陸奥の名高い寺といわれた大梅念華山正法寺の高弟(特にすぐれた弟子)が梅に寺を建立(後に七戸町寺下「現在の金剛寺」に移る)された史実もある。この山あいの湧水は西のカドと東のカド、二ヶ所にあり、村人は「カドの水」と称しているが、梅集落の歴史的風情、カヤぶき屋根、カヤ人形など昔ながらのおもむきが「落人の里の水」として知られるようになった。昭和43年の十勝沖地震以来、湧水の水量も減っているが梅集落には川も井戸もなくこの湧水は大変大切にされている。昭和63年3月25日十和田市』
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西カドの水の脇にあった参宮記念碑。
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裏面碑文…『昭和16年12月8日大東亜戰勃発翌年17年2月25日戰勝祈願の為南進基地台弯に海上敵潜水艦の襲激を受けつつ渡り台弯神宮台中台南髙雄の各神社に詣で帰り四國金毘羅柏原伊勢大廟熱田明治神宮等参拝帰郷後世憂失茲建小碑。昭和24年8月吉日。(以下参拝者名6名省略)大正6年2月伊勢大廟及金毘羅宮島参拝者(参拝者名7名省略)』
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西カドの水の近くの建物は梅集会所。
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集会所の名前が名水庵です。なぜかおいしいお蕎麦を食べたくなりました。もしかしたら婆古石そばのように、ひっそりと蕎麦とじゅねもちが食べられる隠れた名店があるかも知れないと、近くを散策してみましたが特に何もありませんでした。
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