稲荷神社の社伝によりますと、今津村は寛文年間に越前国からの移民によって開かれ、その時に稲荷神社も遷座されたといいます。
今津村及び根岸村には福井姓が多いのは、越前福井地方からの来住に関係するものと推測できます。
宝暦9年神社書上帳に稲荷宮が見えます。
天保10年、天保12年、嘉永3年の棟札あり。神事は3年に1度、今津村で執行。
蟇股・木鼻。
鬼瓦と懸魚。
白狐がおります。
社殿内。
正一位稲荷大明神の神額。
神額裏の小壁の絵も凝ってますね。
竜の絵馬など。
船絵馬もあります。
獅子頭。
社殿内案内板(大正13年1月26日御成婚紀念)より…『●祭神…倉稲魂命、猿田彦大神、大宮能女神。●御事歴…倉稲魂神は又の御名を豊宇気姫神、大宜都比賣神とも又保食神とも申し奉りて伊邪那岐命の御子和久産巣日神の御子に座まし天照大御神の大饌都神にして食物を幸ひ給うのみならず機織の業より家居の事をも霊幸ひます本御祖の神なるが故に食物、衣服、住居の守護神として天照大御神も重く此の神霊を祭らせ給ひて天孫御降臨時に當り八咫寶鏡に此神の御霊を副へて降し給へりされは天孫瓊々杵尊は之を宮中に齊祀られしか後雄略天皇の御代に至り帝天照大御神の夢の御誨に依り伊勢國山田原に遷座さしめられたり今の伊勢外宮と御同神なり。猿田彦命は猿田毘古之男神とも申し奉り御身の長頗る高く御顔赤くして鼻又隆く眼大にして威風堂々たる御神なりといふ天孫髙千穂峰に降り給ひし時之を途に迎え奉りて御案内申上け又天鈿命と共に天照大御神の御霊に供奉して伊勢に至りし功勞高き御神にして後五十鈴川の畔に閑屋せらる。大神は能く道案内をせられたるに因り又の御名をは岐神、道祖神とも申し奉る又俗に庚申神として崇敬せらる。大宮能女神は天照大御神の天岩屋に隠れ給ふや異様の装を為し給ひて岩屋の前に舞ひ大神岩屋より出て給ふや御前に侍して御心を慰め給ふ後天孫降臨の時從ひて降り給ひ猿田彦命と力を協せ荒神を拂ひ給ひ後宮中に奉仕し君臣の御中を取持たせられ宸襟を和らけ奉りしによりて又の名を天宇受賣命とも申し奉る。婦人徳育の典型として崇めらるへき神にそありける。●由緒…勧請年月不詳。明治6年3月平館村平館神社へ合祭同8年2月復社同9年12月村社に列せらる。●祭日…祈年祭5月10日・例祭9月10日・新嘗祭12月12日。』
本殿。
手水鉢。
石灯篭一対(大正5年9月10日・福井三藏)。
狛犬一対。
末社龍神宮。
龍神宮内。
地図を見ていたら稲荷神社のすぐ近くに「今津才の神」とあったので行ってみました。
才の神川・才の神橋(昭和40年8月竣功)。
地域名自体が才の神だったんですね。もちろん才の神(賽の神・幸の神・道祖神)にルーツがあるのかと考えられますが調べていません。
才の神川右岸の海岸沿いの丘陵地には今津遺跡があり、縄文時代の土器が多数発掘されているそうです。
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