蔦温泉です。大町桂月と蔦温泉は切っても切れない関係なので、まずは蔦温泉から紹介です。
蔦温泉の歴史は古く、久安3年(1147)には既にこの地に湯治小屋があったことが文献に残されているそうです。その名の由来として「木に絡むツタ植物が豊富にあったことから」が有力説。
明治30年頃から奥瀬村の小笠原四郎らが経営をはじめます。明治41年に大町桂月が初めて蔦温泉に投宿。十和田湖から奥入瀬渓流沿いに歩いて蔦温泉に到着したそうです。その秋、雑誌『太陽』に「奥羽一周記」と題する紀行文を発表し、十和田の名を一躍全国に知らしめました。
明治42年に共同管理の湯治場から旅館へと経営体制を変更。大正7年には現在もなお正面玄関・客室としてそのまま使われている木造二階建ての本館が完成。
大正10年に大町桂月が北海道巡遊の帰途、13年ぶりに蔦温泉を訪れています。大正12年冬、大町桂月が児玉花外と共に蔦温泉で冬籠り。大正13年、薬師如来像開眼式列席のため、大町桂月が製作者の小杉未醒と蔦温泉を訪れています。大町桂月はその年末に最後の冬籠り。大正14年、大町桂月は蔦温泉に本籍を移し、6月10日に青葉萌える蔦で56歳の生涯を閉じました。
昭和35年に本館裏に木造二階建ての別館を新築。高台に建築されており4階建て相当の高さです。昭和42年公開の映画「みだれ雪」(主演:加山雄三・司葉子)で、本館の1室が撮影場所として使われており、現在も当時のまま客室として利用できるそうです。昭和44年に新婚旅行で宿泊された作詞家岡本おさみさんが別館客室のイメージをもとに一篇の詩をしたため、後にその詩を含んだ詩歌集を吉田拓郎さんに提供したところ、「旅の宿」という作品として結実し、昭和47年に発売されています。平成元年に西本館を解体し鉄筋コンクリート3階建として新築。
大町桂月胸像。没後50年を記念して建立されたもの。
横には「酒仙・鉄脚の旅人 大町桂月先生終焉の地」「明治・大正期の文人大町桂月大正14年6月10日この地に没す。享年57歳」とあります。
『世の人の命をからむ蔦の山湯のわく処水清きところ』。裏面碑文…『大町桂月先生は明治41年にはじめておいでになり以来この地を深く愛された。大正14年6月10日ここで病歿されました。50年忌にあたり遺徳を偲びこの碑を建てます。昭和49年6月10日蔦温泉小笠原四郎』揮毫は桂月の長男大町芳文氏の妻久世氏。小笠原四郎氏は蔦温泉初代館主。
大町桂月と蔦温泉碑…『大町桂月は明治・大正期を代表する文人の一人で、美文の創始者ともいわれる。本名を芳衛といい、明治2年(1869年)、高知市の旧武士の家に生まれた。幼い頃から漢学などの学問に親しみ、軍人や政治家などを志したが、文学の道に転じ、東京帝国大学国文学科在学中から学生文士として詩文を次々に発表した。明治31年(1898)、出世作である美文・韻文集「黄菊白菊」を刊行し、その文名を不動のものとした。その後おびただしい数の作品を著して好評を博し、当時の青年で桂月の文学に親しまざるはなしとまでいわれた。その著作は多彩なジャンルにおよび、著書はじつに二百冊を超える。晩年はとくに自然美の探訪、発見につとめ、文筆のかたわら、全国を訪ねて紀行文を発表した。明治41年(1908年)8月、はじめて十和田湖を訪れるやその絶景に魅了され、翌年その紀行文を雑誌「太陽」に掲載したのをきっかけとして十和田湖は一躍有名になった。その後も来訪を重ね、蔦温泉を拠点に県内各地を探勝するうち地元との絆を深め、大正14年(1925年)3月には蔦温泉に本籍まで移した。そして同年6月10日、桂月は急な病に倒れ、この蔦温泉で56歳の生涯を閉じた。いまはの際まで酒に舌鼓を打ち、辞世を詠み、遺言を述べ、家族や友人をやさしく気遣いながらの最期であったという。蔦温泉には本碑のほかに、墓所、また胸像と歌碑とがあり、十和田湖と八甲田の自然とを、いつまでも見守っている。「清文院桂月鉄脚居士」、生前自らがつけた戒名である。』
『十年あまり五とせ前に見しわらや今こそ玉のうてななりけれ」大正10年初冬蔦温泉にて 桂月』
この他にも大町桂月に関する歌碑がいくつかあり、更に蔦温泉内には大町桂月資料館(2015年開館)もございます。興味のある方は温泉がてらゆっくりと楽しまれてください。
沼めぐり入口。人気の散策コースです。
蔦野鳥の森案内図にある沼めぐりの小路マップ。沼めぐり(蔦沼-鏡沼-月沼-長沼-菅沼-瓢箪沼)は1周2.9km、ゆっくり歩いて約1時間半のコース。野鳥の小路はおよそ860m、ゆっくり歩いて約26分間のコース。
沼では釣りもできるみたい。各沼は紅葉の時期には人気の撮影スポットになります。
蔦温泉前から蔦沼川を辿っていきます。
川には小さな魚がたくさんいました。
蔦沼川を横目に国道103号線を渡ります。
103号線沿いに大町桂月先生お墓という看板があります。
まっすぐ山道を進んでいきます。
自然を楽しみながら。
気持ちいいですね。
途中から石段になります。
到着。
大町桂月墓前から見た道。
大町桂月墓前の石灯篭一対。
大町桂月墓。
後ろの木がいい感じ。
辞世の句…『極楽へこゆる峠のひとやすみ蔦のいで湯に身をばきよめて』
墓碑。胃潰瘍のために蔦温泉旅館にて死去。
墓碑裏面碑文…『清文院桂月鐡脚居士 俗名大町芳衛號桂月 明治二年一月二十五日髙知ニ生レ大正十四年六月十日蔦温泉ニ歿ス 享年五十七』
墓の横にあった壊れた灯篭か何かの一部。
大町桂月の横にも墓碑がいくつか並んでいます。
すぐ隣りはお墓じゃなく記念碑のようでした。
『武田千代三郎・小笠原耕一両先醒芳躅記念』とあります。
右側面碑文…『武田千代三郎は筑後柳河の人。明治四十一年六月青森県知事に着任して躬ら十和田湖を観るや其雄渾なる景致に傾頭し十和田湖の一書を刊し是を内外に宣揚したり昭和七年五月十六日歿す享年六十六茲に芳魂なり』
左側面碑文(こちらは読み取れないというより私が撮った写真がかなり微妙でした。■の数も適当です)…『小笠原耕一は十和田村奥瀬の人で村長及び県会議員を兼任■■■しく■■■十和田開発に生涯の力を尽し内外■■■宣傳武田林風大町桂月諸氏■■■謀り遂に国立公園十和田湖の基■■をしたり昭和二年五月十七日六十歳を以て逝く蔦山中の翠嵐長■に功績を■しべし』十和田国立公園の実現に奔走した当時の村長です。
裏面には昭和九年九月廿三日の紀年銘と、建立者蔦温泉小笠原四郎・小笠原なか夫妻の名前などが彫られていました。
記念碑横のお墓はいずれも小笠原家のお墓でした。
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