イメージ 2
寺下観音(階上町)』からの続き。
イメージ 3
観音橋を渡って鳥居をくぐると石灯籠がもう一対。
イメージ 4
イメージ 5
紀年銘は「嘉永7年4月吉日」。
イメージ 6
イメージ 7
古札納所。
イメージ 8
石段。
イメージ 9
仁王門。
イメージ 1
額束には「寺下観音」。
イメージ 10
イメージ 11
仁王像。味がありますね。
イメージ 12
イメージ 13
狛犬一対。
イメージ 14
イメージ 15
狛犬のお尻。
イメージ 24
イメージ 25
石灯籠一対(天保8年4月17日)。
イメージ 26
イメージ 27
イメージ 28
イメージ 29
手水石(堂改築記念・昭和3年旧7月)。
イメージ 30
西国三十三観音像。向かって左側、奥の方から、一番、紀伊の国那智山、二番、紀伊の国紀三井寺、三番、紀伊の国古川寺と二十四番まで並び、右側、手前の方から二十五番、二十六番と続いて、最後に三十三番、美濃の国谷汲観音となっています。つまり近畿三十三観音の功徳を受けられるようになっています。
イメージ 31
イメージ 32
イメージ 33
イメージ 34
寺下観音堂は赤保内の南東、標高740.1mの階上岳の北東山麓に位置。境内の北側を道仏川の支流寺下川が流れます。藩政期には同河川の北対岸、現潮山神社の所在地にありました。雑書の承応2年(1653)4月27日条に「八戸之内寺下観音」とあり、藩命により祈祷が行われています。寛文5年(1665)の無量院の御立願状(常泉院文書)に「一野沢寺下観音」とあります。別称応物寺。大同年間(806-810)田村将軍利仁が創建したとも、神亀年間(724-729)行基が海潮山応物寺として開山したとも伝えます。その後退廃するも、享保年中(1716-1736)津要玄梁が堂塔を修理して再興。寛保3年(1743)の奥州南部糠部順礼次第全に「寺下東シノ門一番正観音脇士不動明王 毘沙門天王(中略)観音堂ハ五間四面也。東向キ堂ノ前ニ少シノ森有リ、松杉四五本、有撞鐘堂、是レ本願ハ津要、施主ハ新井田村松橋氏常心居士寄進也」とあり、糠部三十三観音の第一番札所として信仰を集めました。
イメージ 35
明治4年(1871)廃仏毀釈により当堂は廃され、潮山神社となりました。観音像は妙村(現八戸市)の伝昌寺へ移されましたが、同7年現在地に再建。境内に仁王門、近畿三十三観音の石仏、鐘楼があります。堂内には小野道風作と伝える掲額、津要の額馬・絵馬などのほか安政4年(1857)の八戸藩士蛇口伴蔵の水運事業祈願の掲額があります。例祭日は旧暦正月17日・4月17日・7月10日。
階上町誌より…『寺下観音の例祭は旧暦の4月17日で、毎年八戸市内や岩手県地方からの参拝客で一日中にぎわう。階上岳の東の麓、清らかな流れのそばにある寺下観音、朱塗の鳥居を過ぎて杉木立の参道を進み、左折して石橋を渡り、石段を登った所、仁王門をくぐればそこが観音堂である。この中に神亀年中に行基という僧が作ったと伝えられる桂の木彫り、総高65センチの観音像が安置されてある。記録によれば、ここ寺下は、往時の海潮山応物寺の故地で、大同年間(806~809年)、天仁年間(1108~1109年)に中興、仁治3年(1242年)秋、雷火による山火事のため一山焼失。江山なる僧が灰燼の中より観音像を拾収して堂塔を再興。その記録を脇士毘沙門天像の胎内に納めたという。正徳2年(1712年)、盛岡祇陀寺前住、津要玄梁が寺下観音に参籠、江山の記した「応物寺廃頽の記」を発見した。津要は寺下観音を中心にこの地方の教化に生涯を捧げた。享保15年(1730年)に燈明堂を建てて八戸浦の諸国廻船の海上運搬の安全を祈願し、延享2年(1745年)8月4日には五重の塔を成就、この年の暮、閏12月25日にその下の津要庵で66歳でなくなった。墓は五重の塔址の下にあり、「前永平祇陀先住石橋玄梁大和尚禅師」と刻まれ、その上に九曜の紋が描かれている。(中略)明治4年(1871年)観音堂は廃され、その跡へ潮山神社が建設され村社となった。この時、観音像は八戸市妙の伝昌寺に預けられた。明治7年になって桑原氏が願い出て対岸の地に現在の観音堂を建立した。その後、大正2年8月、五重の塔は暴風雨のため倒壊した。寺下観音堂には、観音像、毘沙門天、不動明王像のほかに、「海潮山」、「応物寺」と山号の書かれた額、津要和尚の描いた額馬、観音来迎の絵馬、八戸藩士蛇口胤年の水運事業祈願の額などが納められてある。』
イメージ 36
鐘楼へ。5月中旬の寺下観音例祭では多くの参拝客で賑い、梵鐘の下に頭を入れて鳴らすと御利益が得られると、例年参拝客が列をつくるそうです。頭を入れて…経験ありませんがちょっときつくないですか?(笑)
イメージ 37
梵鐘(階上町指定有形文化財)。
イメージ 38
イメージ 39
梵鐘…『寺下観音堂にはその由来をまとめた「應物寺廃頽の記」が伝えられてある。海潮山應物寺は平安時代に再興し、鎌倉時代には落雷、火災による山火事のため焼失した。鎌倉時代、江山という僧侶がここを訪れ、その焼け跡の灰の中から観音像をはじめ脇士などを拾い集めて、観音堂を再興したと伝承されている。江戸時代に入り、津要玄梁和尚が観音堂に参籠した際、江山の残した廃頽の記を発見した。津要玄梁和尚は、享保4年(1719)に、八戸四代藩主広信公をスポンサーとして、その記録を刻んだ梵鐘を、江戸神田粉河の鋳物師に鋳造させ、納めたものがこの梵鐘である。寺下の歴史、江戸時代の八戸地域の歴史を解明する意味でも貴重な遺物と考えれる。』スポンサーという単語に違和感を覚えます(笑)
イメージ 40
鳥獣供養塔。
イメージ 23
鐘楼堂のそばにある巨木。
イメージ 22
鐘楼堂のそばにある巨木ヤマフジ。
イメージ 21
ナラの木に大蛇のように巻き付いており迫力満点です。
イメージ 20
樹齢不明。樹高25m、根回合計2m。
イメージ 19
こちらは少し離れて入口付近にあった寺下のメタセコイア。遺存種の一つ。生きた化石として有名。
イメージ 18
青森県内最大級で、樹高27m、幹周合計3.2m、樹齢不明。
イメージ 17
潮山神社(階上町)』へ続く…
イメージ 16
寺下観音歴史年表
【神亀】僧行基寺下に応物寺創建。
【大同】中興。
【天仁】僧慶雲中興。
【仁治3年】応物寺全山雷火による山火のため灰惨に帰す。
【寛元4年】雲江山「応物寺廃類の記」を録すると共に応物寺を再興。
【永生9年】観光上人順礼(長谷寺、円福寺等)
【大永4年】西門吉祥坊順礼(長福寺等)
【寛永3年】寺下観音再興(別当疾丈)
【正徳2年】津要玄梁寺下観音参籠「海潮山応物寺廃類の記」を発見。
【享保4年】八戸南部四代藩主広信観音堂に鐘を寄進。
【享保11年】応物寺津要和尚に使をやって目録を賜る。津要御礼に参殿応物寺の縁起を述べた。
【享保15年】寺下燈明堂落成供養、八戸の諸寺参集、国家清康を祈願、代参中里志摩初穂一貫文を献じ、津要へ惟巾目録を賜り、常燈明料として毎年銭五貫文別当野沢彦六へ給す。
【元文元年】南部広信寺下観音へ参詣。津要八戸妙久山伝昌寺の六地蔵を刻む。
【寛保3年】天聖寺八世則誉守西、糠部三十三ヶ所願礼、寺下を一番に桂清水を三十三番に決択。
【延享2年】寺下五重塔落成供養。閏十二月廿五日津要玄梁示寂(66才)※古書日記帳では廿九日
【宝暦8年】寺下燈明堂大破、別当より自費にて再建したき旨願い出た。
【寛政5年】五重塔修復を大工甚六より願い出た。
【天保15年】五重塔修復(棟札)
【改化4年】五重塔(勧化帳)
【明治4年】廃仏毀釈の令により応物寺(観音堂)の廃されたあとへ潮山神社を建立、鳥谷部村階上神社を合祭して村社となし、観音像は八戸市妙伝昌寺へ預ける。
【明治7年】桑原久右エ門持地へ観音堂建立を願い出た。
【大正2年】8月、大暴風雨のため五重塔倒壊。津要作五重塔壁板、蟇股相輪等野沢家に保管。

イメージ 3
イメージ 2