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鳥居の如く、御神木の巨木が迎えてくれました。鎮座地は秋田県大館市比内町扇田本道端。米代川沿い。旧所在地は長岡城の下。
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入口の鳥居前にあったこちらの建物はわかりません。末社かと思われますが。覆屋が建設もしくは修復された日は昭和51年11月29日。
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その隣には神明社齋館の門があります。
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神明社齋館。
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社号標(大正3年6月)。
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菅江真澄の道「扇田神明社」標柱…『里の名のあふぎにかへてうちはらふぬさの追いかぜ袖に涼しき。』
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大鳥居・手水舎奉納奉賛会碑(平成15年5月吉日)。
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明石文治君彰功碑(昭和6年7月)。状態はかなりいいのですが旧字が多かったので読みませんでした。
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芭蕉翁句碑「何の木の花とも知らずにほいかな」。
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鎮座六百年記念碑(昭和43年)。
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狛犬一対(昭和16年)。
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木々に囲まれ、米代川のせせらぎが聞こえてくる気持ちのいい参道です。
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ちょうど堰があるのですね。
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水の音が大きく聞こえるわけです。
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参道二之鳥居。
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参道。
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手水舎。
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参道三之鳥居。
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手水石。
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『浅利則頼侍分限帳写』に、浅利家の小姓佐藤与三郎は扇田村、歩行頭の斎川甚右衛門は長岡に居住と記載。永禄年間頃に独鈷城主浅利勝頼は当村に長岡城を築城し、片山駿河守某を置きましたが、天正10年檜山城主安藤愛季に内応した片山氏らは当城で主君勝頼を謀殺したと伝えます。城は米代川・犀川に挟まれた独立丘陵を利用、周囲に帯郭がめぐり、西端部に三角形状の腰部を配置。犀川に注ぐ小川を濠に利用し、館神は八幡。秋田家の保護を受けた城下町としての機能のほか、米代川舟運の舟着場、鹿角・大葛への陸上交通路の要地、二井田を経て綴子方面に抜ける脇街道の起点でもあるという条件のもと大きな町場が形成されていたそうです。水陸交通の要衝を占める位置付けは藩政下でも強められ、陸路は鹿角街道・大葛金山街道等の羽州街道脇の結節点、水路は米代川廻船の拠点として宿駅・船宿が置かれ、三斎市を開催、物資の集散地として活気を呈しました。慶応4年の戊辰戦争にて全域が戦場となり村内は灰燼に帰しました。鎮守は神明社であり、市神も合祀。他に稲荷社、八幡社、相善社を祀ります。寺院は当村の有徳人小林徳兵衛が檀徒として開基したという浄土真宗大谷派小林山徳栄寺をはじめ、同派藤庭山長泉寺、曹洞宗薬王山寿仙寺、浄土宗法王山正覚寺、日蓮宗安入山寂光院の5ヶ寺、修験に扇田寺、本覚寺、南光院。
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扇田神明社の創立年代は不詳。長治2年(1105)創建とも。文治(1185-1189)初年にこの地に住みついた現宮司家の祖11代目が書き残す御用日誌に「伊勢の神鎮まり給う祠あり」とあります。神社記録に「天正三年領主浅利民部少輔興市公社殿移築す」とあります。郷村史畧に「勢産皇神祭祀六月十五日末社太子堂別当扇田寺」とあります。浅利氏が滅び、安東氏年代には安東氏(秋田城之助)の祈願所となり桧扇紋を社紋としました。後年佐竹氏の紋所を許され五本骨日の丸扇紋となります。格式高いこの紋の使用を許されたのは、秋田に移封になった20万石佐竹藩主が地方巡回の際、この地に入って境内に仮陣屋休処とし、境内でお茶の野点手をされ湧き出ずる泉の水の良さに感じられて、藩主休処に定められたことによります。それ以来、代々藩主より祭祀料が下され高張燈が奉納され、その張替も行われています。
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旧社殿は戊辰の役の南部、秋田の激戦地となり南部方により焼失。境内には戊辰戦争で戦死した佐竹兵2名の墓と戦闘の際に打ち込まれた弾玉が入ったままになっている杉の老木があります(※一之鳥居横の杉の木他、境内の杉に弾痕が見られるとのことですが、見つけるのは中々困難とのことです)。十二所城代茂木筑後、大館城主佐竹大和は大いに神慮をかしこみ、京の宮大工の手に委ねて社殿再建し現在に至ります。
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明治6年郷社に列格。明治40年10月10日神饌幣帛料供進指定神社。社宝としては浅利民部奉納両刃短刀。銘表として備前国住長船七郎衛門尉祐定。裏に天正九年二月吉日之作とあります。
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御祭神は天照皇大神、応神天皇、大物主神、大市姫神、倉稲魂神、言代主神。扇田神明社HPによりますと天照皇大神を中心に大市姫神、応神天皇、宇迦之御魂神、八頭龍神。境内社聖天神社。境外社として大市神社、稲荷神社、浅利八幡社、虚空蔵神社、琴平社等があります。
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元禄年間の神社記録には春秋2回の大祭とあり、現在の夏祭りは、繭の生産地であった此の町の取引市の終わった頃を選び、7月15日・16日(旧6月15日・16日)となっています。幕末から総代になる家は決められており、宮嶋家、麓家、乳井家、明石家の四家で、この四家に跡取りのない時に限り、坂本家、長岐家、大沢家、川上家、荒谷家が代役を務めたと伝えられ、現在も尚この制が守られています。
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拝殿向拝頭貫・蟇股・木鼻。
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海老虹梁・手鋏等。
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拝殿内にも五本骨日の丸扇紋がたくさん見えますね。
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横から幣殿・本殿。
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本殿、幣殿、拝殿の調和美、そして屋根の勾配、彫刻などが大変美しいものとなっています。
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社殿前石灯篭一対(明治己亥歳生同年會・紀元2600年、昭和15年)。
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社殿前狛犬一対(昭和13年旧2月1日)。
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阿形の口にお賽銭。
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神輿庫。
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社宝の六角御神輿(嘉永5年8月15日・秋田藩第11代藩主佐竹義睦公)。水戸造り神輿(台経6尺6角扇紋付)。この神輿を水戸から秋田まで貰いに行ったのが白丁の人々であり、その子孫は現在も祭典で重要な役目を果たしています。現在の神輿は2代目ですが初代も保存されています。
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屋根頂部の鳳凰台座六角箱の内側の墨書に「安政6年3月2日」の紀年銘が見えます。HPによりますと安政6年3月2日御ぬり直し、昭和21年7月10日塗修理記念とのことです。
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2代目。
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こちらの建物はわかりません。
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立派な御神馬です。
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こちらも御神馬。
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御神馬。
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こちらはかわいい感じですね。
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更に御神馬。
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御厩には「横町八幡様」とありました。
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末社。
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「大日霊貴神社神璽」の神札が見えます。御祭神は天照皇大神です。
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石祠。稲荷様。
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社殿横にある明治天皇巡幸紀恩碑。
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『明治十四年奥羽北海道御巡幸ノ時扇田町ハ御通輦ノ途ニ在ラザルヲ遺憾トシ有志四十名相謀リテ本町ヲ距テルコト七里ノ地青森秋田両懸ノ境ナル矢立峠ニ御野立所を建テ九月十一日御駐輦ノ光栄ニ浴シ且金五拾圓ヲ賜ハル町民聖恩ノ温キニ感泣シ恩賜維持ノ為ニ恩賜講ヲ設ケ御野立所ヲ本町郷社神明社境内ニ移シ爾後毎歳此ノ日ヲ以テ相會シテ聖徳ヲ追慕シ日清日露ノ役ニ際シテハ講ノ貯蓄ヲ割キテ陸海軍ニ献シ大杯ヲ賞賜セラル今茲御巡幸五十年ヲ迎ヘ感激更ニ新ナルモリナリ碑ヲ樹テテ聖恩ヲ不朽ニ傳ヘ併セテ後昆ノ教養ニ負セントス乃チ需ニ應シテ事ノ顛末ヲ記ス 昭和五年九月十一日 明治天皇聖跡保存會副會長正四位勲三等功五級男爵 井上清純撰 理事従四位勲五等小倉博書』
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『明治天皇聖蹟跡保存會會長侯爵西郷従徳謹書』
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宮嶋為昭君碑銘…『君諱為昭宮嶋氏金助其通稱也家世為羽後北秋田郡扇田邑豪農也君為人温厚恭謙志在于濟世継祖考之遺業資産益饒常以博愛篤行見稱焉曩之毎行鎮守郷社之祭典常以課錢邨内助其費為例君夙憂之慶應中義捐一百金以備緩急明治十五年以其資金若干開墾田一町餘歩貯蓄其所得以備祭典費義捐以来不復課其錢者實宮嶋氏之餘澤也如君者可謂敬神愛國之情厚且深者也君文化五戊辰年生明治元戊辰五月二十一日歿享年六十有一君初娶小畑氏擧一男一女女嫁宮嶋為久以男為政嗣家娶田村氏舉二女皆夭使孫次男爲敏為嗣又天於是使三男為義督家今金治乃是也令茲甲午之憂闔邨人民相謀建一紀念碑使余記其事余乃略敘其所聞云爾 銘曰 於戯若人 志身愛國 能貯能散 志存經術 寄蹤田里 養老畊植 一擧一動 無所不得 積善之家 餘慶岡極 建此臣石 以銘其徳 明治二十七年九月中浣 羽陰 松坪髙橋通明撰 従八位佐藤武友書』
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石祠。
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金毘羅大権現(嘉永6年癸丑8月講中)。
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青麻大権現(嘉永6年癸丑8月講中)。
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八聖山神社。
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裏面には宮嶋金助・梅村與兵衛・宮越庄兵衛・明石儀助・石垣傳兵衛・仲谷喜六・若松喜内・大黒半左衛門・安達萬之助・中山文藏の10名の名前が刻まれています。
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忠魂碑と石灯篭一対。
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陸軍中将男爵立見尚文書。
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忠魂碑横の祠。
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太平山・唐松山ほか。
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二十三夜塔。
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表忠碑。状態は良いのですが読んでいません。興味のある方は参拝へGO!!素敵な神社でしたよ。
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