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秋田県鹿角市十和田錦木稲生田。能や謡曲の「錦木」、また能因法師の歌「錦木はたてなからこそ朽にけれ けふの細布むねあはしとや」などの歌枕「錦木塚」として全国に知られています。世阿弥の謡曲「錦木」によって世に広がりました。
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近世ではこの地は「歌枕の地」とされており、菅江真澄や古川古松軒及び松浦武四郎がそれを記録しているほか、幕府巡見使がここに巡見所を設け、地元民に塚の縁起を聞き、細布の献上をしています。石川啄木も金田一京助から錦木塚の伝説を聞いてこの地に足を運び、「鹿角の国を懐う歌」をつくり歌っています。また、長詩「錦木塚」を雑誌明星に発表。
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錦木の話は東北各地にあり、青森市は矢倉山観音寺の錦木之塚を以前に紹介しております。
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塚は現在小公園の隅にあり、菅江真澄が犬の伏せた形と表現した大きな置き石があります。
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なお、公園内には錦木地区市民センターがあり資料室も設けられています。この地を訪れた古人や細布の現物などを展示。
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錦塚展示室と錦木塚の間。
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『錦木塚のあるこの地は、古歌に詠み込んだ名所「歌枕の里」として末の松山や象潟と並ぶ多くの歌人たちの憧れの場所でした。菅江真澄の遊覧記「けふのせば布」の中で錦木として5種類の木が出てきますが、この公園にはこれらを中心に植栽しています。①楓の木(ハウチワカエデ)②まきの木(マユミ)③酸の木(ヌルデ)④かばざくら(オオヤマザクラ)⑤苦木(ニガキ)鹿角市』
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錦木塚伝説公園全体案内図。公園内には「稲荷神社」(別記事)も鎮座しております。
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公園前標柱「錦木塚伝説の地・涙川」…『錦木塚伝説に登場する若者が帰り涙を洗ったとされる川を涙川という。涙川とは、現在の根津川、沢尻、松の木、神田の渡し、間瀬川などの、諸説が言い伝えられている。』涙川への案内板にもなっていますが矢印のみで場所はよくわからず。
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同じく標柱「史跡錦木塚観音寺跡」。
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ハリギリ(樹高22m幹周り5m)。
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「菅江真澄の道(錦木塚)」…『天明5年(1785)8月末、鹿角路に入ります。この塚をたずねる。<けふせばのの>「錦木の朽ちしむかしをおもひ出て俤にたつはじのもみじ葉」真澄』
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追分石(享保16年(1731)8月15日)。旧道より移動。
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「西左けまない道」「右にしき木」。供養碑をかねた珍しいもの。
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鎌田露山句碑「旅人にはたおる虫や姫の塚」露山。
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「春蝉は姫の雪かも声細し」詠み人読めず。
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入江為守歌碑「錦木のふることしのふ此ゆふへあき風さむし毛馬内の里」國萃會主催有志建立(昭和6年11月吉日)。
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大イチョウ切株。
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錦木塚へ。
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昔、鹿角が狭布の里と呼ばれていた頃、その地を治めていた狭布大夫の8代目狭布大海という人に政子姫という美しい娘がいました。政子姫は狭布の細布を織るのがとても上手でした。一方、東に2里ほど離れた大湯草木集落(三湖伝説の八郎太郎もこの地が出身だといわれています)の里長の子に、錦木を売り買いしている黒沢万寿という若者がいて、政子姫の姿に心を動かされました。黒沢万寿は錦木を1束娘の家の門に立てました。錦木は5種の木の枝を1尺あまりに切って1束にしたもので、5色の彩りの美しいものでした。この土地では求婚のために女性の住む家の門に錦木を立て、女性がそれを受け取ると男の思いがかなった印になるという風習があったのです。黒沢万寿は来る日も来る日も錦木を立て、3年3ヶ月ほど経ったころ、錦木は千束にもなりましたが、家の中に入れられることはありませんでせいた。黒沢万寿は草木への帰り道に小川で涙を流しました(後に涙川と呼ばれるようになります)。政子姫は黒沢万寿を愛するようになっていましたが、身分の違いから父大海に反対され、また、五の宮岳に住むという子どもをさらう大鷲除けとして、鳥の羽を混ぜた布を織っていました。鳥の羽を混ぜて織ることは大変難しく政子姫はみんなから頼まれていたのです。この大鷲除けの布を3年3ヶ月かけて観音様に願をかけて身を浄めながら布を織っていたため、求婚に応じることができなかったのです。そしてようやく布ができあがり、喜びに震えながら錦木を取ろうとするも、父はそれを許さず、錦木を取ることを禁じました。黒沢万寿は落胆のあまり死亡し、まもなく政子姫も黒沢万寿の後を追いました。父の大海は嘆き悲しみ、2人を千本の錦木と共に手厚く葬ったといいます。その塚が錦木塚です。(※もしくはあと一束で千束になるという日に、体がすっかり弱くなった黒沢万寿は、姫の門前にて降り積もった雪の中に倒れて死んでしまい、その2、3日後に政子姫を後を追うように死んでしまったともいう。諸説あり。)
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菅江真澄は犬の伏せた形と表現しています。
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色々な角度から。
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謡曲「錦木」と錦木塚…『謡曲「錦木」は、錦木伝説を基にして男女の恋を描いた曲である。陸奥国狭布の里で、女は細布(幅のせまい布)を、男は錦木を売る夫婦に合った旅僧が、売物の謂を尋ねると、細布とは鳥の羽を混ぜて織った布で、実らぬ恋慕の情に例えたもの、錦木は女の家の門に立てて求婚のしるしにする彩色の木であると答え、3年間も錦木を立て続けながら思いを遂げずに死んだ男の錦木塚に案内して二人はその中に消えた。僧がその跡を弔っていると夢に二人が現われ、過ちを悔い改める物語をし、仏の救いを得た悦びの舞を舞いながら、はや明方になって僧の夢は覚めて二人の姿は消え失せた。という筋である。錦木塚は、結ばれなかった若者の骸を千本の錦木と一緒に厚く葬った跡という。謡曲史跡保存会』
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錦木塚伝説…『今から千数百年程前、都からきた狭名大夫(さなのきみ)という人が錦木あたりを治めていた。それから8代目の狭名大海(さなのおおみ)には美しい娘がいて名を政子といった。姫は狭布(けふ)の細布を織るのがとても上手であった。その頃、草木の里に錦木を売るのを仕事にしている若者がいた。ある日若者は赤森の市で政子姫を見て、心の底から好きになってしまった。当時、男は女を妻にしたいと思うと、その女の家へ錦木を立てるならわしがあった。それを家の中へ取り入れると嫁いでもいいということであった。若者は錦木を姫の家の前へ雨の日も、大風の時も、吹雪く日も毎日立て続けた。政子姫は機織りする手を休めてそっと男の姿を見ているうちに若者が好きになっていたが、錦木は取り入れられなかった。父が身分の違いを理由に反対したためであった。もう一つのわけもあった。五の宮嶽の頂上に大ワシがすんでいて、付近の村から幼い子たちをさらっていった。或る時古川で托鉢に立ち寄った旅僧は、若い夫婦がわが子を失い泣いていたのでそのわけを聞き、鳥の毛を混ぜた布を織って着せれば、ワシは子どもをさらえなくなると教えてくれた。鳥毛をまぜた布はよほど機織りが上手でないと作れない。政子姫はみんなから頼まれ、親の悲しみを自分のことのように思い、三年三月(みとせみつき)の間観音に願をかけ身を清めて布を織っていたのである。そのために嫁に行くという約束は出来なかった。若者はそうとも知らずにあと1日で千束になるという日、女の家の門前で降り積もった雪の中でかえらぬ人となった。姫もそれから間もなく若者の後を追うようにこの世を去った。姫の父は二人をあわれに思い、若者の亡骸を貰いうけ、千束の錦木をいっしょに一つの墓に夫婦としてほうむった。その墓を「錦木塚」といっている。「錦木」「けふの細布」は平安後期歌枕として詠まれ、室町時代には世阿弥によって謡曲「錦木」が作られた。錦木塚伝説は世阿弥の創作に由来するといわれている。鹿角は伝説の里で知られている。「十和田湖と八郎太郎」「だんぶり長者」と、この「錦木塚物語」は、鹿角の三大伝説といわれている。平成19年11月建立。十和田地域伝説継承事業「錦木塚の伝説」実行委員会。』
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