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岩手県二戸市福岡橋場。
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久府坂と街道分岐点…『天正19年(1591)の九戸の乱以降、九戸城は蒲生氏郷が修築し、三戸の南部信直の居城として払い下げられました。これを契機に地名が「宮野」から「福岡」に改められ、信直は家臣団を引き連れて移りますが、家臣たちは家族と離れ、在府小路周辺に住んだと云われています。左手の坂は当時、帰府坂と呼ばれていました。僅か百メートル程ですが、在府から帰る坂、或いは、在府に戻る坂として、家臣たちが三戸に残してきた家族を偲び、懐かしさと寂しさを込めて名付けたのが始まりと云われています。また、この坂の起点は奥州道中と浄法寺街道の分岐点でもあり、「末の松山波打峠従是三十丁」と刻まれた追分石があります。』
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追分石「末の松山浪打峠従是三十丁」
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追分石「右浄法寺・左一戸道」
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旧奥州街道帰府坂(久府坂)を上ります。左手は呑香稲荷神社境内(九戸城松の丸跡)です。
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右手には夕照山祖霊社がありました。小保内定身(1834-1883)と田中舘愛橘博士の墓(ローマ字で博士の名を刻みます)、國分謙吉(初代岩手県知事)の墓・遺髪を納めた追悼碑などがあります。
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夕照山祖霊社新築整備事業寄附者芳名碑(平成23年9月吉日)。
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坂上より。
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坂道に疲れた後は二戸駅に向かい…
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TOKIOの国分メンバーをはじめ、多数の有名人が訪れているらしいお店で腹ごしらえをして帰りました。
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