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「折爪馬仙峡県立自然公園馬仙峡」(ORITUME-BASENKYO PREFECTORAL NATURAL PARK BASENKYO)。女神岩のすぐ下を明神ヶ淵といい、男神岩・女神岩を見上げたり、対岸の大崩崖を望んだりできる馬仙峡の最も美しいポイントの一つです。また、一帯は公園として整備されており、直木賞作家渡辺喜恵子の歌碑や、二戸初の大渕発電所を記念した田中舘愛橘博士のローマ字の碑が立っています。
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馬仙峡公園内かと思ったら僅かに離れた場所にありました。
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渡辺喜恵子歌碑(「馬渕川」)…「明神の渕の澄めるもかなしけれ」。作家渡辺喜恵子氏が戦時中二戸市に疎開していた際に執筆した小説「馬淵川」の直木賞受賞を記念して昭和37年に建立された歌碑。「馬淵川」は戦時中の昭和19年、母の故郷である福岡の隣村である石切所字船場地内(祖父の家)に疎開してきたときに執筆された作品。12編の短編で構成されており、武家の娘さと子が南部藩の御用商人池田屋万兵衛に後妻として嫁いでから96歳で往生を遂げるまでの生涯が描かれている大作です。疎開する時に用意した原稿用紙2000枚を使い切った頃に終戦。碑は地元産の自然石を使っており、この碑のために渡辺喜恵子氏が作った句を刻んでいます(自身の揮毫)。この句は恋仲であった男神に裏切られた女神が大蛇に姿を変え、馬淵川の主になったと言われる悲恋伝説を詠んだものです。※まるで知っているかのように語っておりますが、お恥ずかしながら私は読んだことがありません。これを機に読もうと思ったのですが、絶版になっており、まだ手に入れておりません。弘前市立図書館にあることは確認しているのでそのうち読もうと思っています。
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伝説の概要…『男神と女神は幼き頃から恋仲(許嫁)でしたが、男神は心変わりをし、容姿の美しい鳥越山(もしくは朝日観音との説あり)に心奪われ、女神は悲しみ(嫉妬)のあまりに大蛇に変身し、鳥越山(朝日観音)を殺そうとしましたがかなわず、馬淵川に身を投じて明神ヶ淵の主となりました。日暮れともなれば明神ヶ淵付近にて、妙齢の美女に身を変えて現れるようになり、里人に恐れられていました。そこで「大淵大明神」の祠を建立すると、その後化身は現れなくなったと云います。』※下の写真は女神岩の身投げ現場となった明神ヶ淵。
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大淵大明神。
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干ばつになると村人は明神ヶ淵の大淵大明神にて雨乞いをしたそうです。三角関係の神様ではないのですね。なぜ雨乞いの神様になったのかはわかりませんが、水柱を噴き上げて、2-3日のうちには必ず雨に恵まれたといわれています。
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石祠。
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大淵大明神碑の紀年銘は明治44年正月12日。「滝中者中」とあります。
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手水石。
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『大正4年9月1日北白川宮成久王殿下御駐駕之趾』(国分謙吉敬書)
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裏面碑文…『昭和15年9月良辰建立・村長新田六助・郷総代荒谷甚四郎・外14名』
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馬淵川沿いから大崩崖手前の橋りょうと荒瀬橋が見えます。
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「明神ヶ渕と渡辺喜恵子の碑」標柱より…『「明神の渕の澄めるも悲しけれ」。明神ヶ渕を舞台にした男神と女神の悲恋伝説を、直木賞作家渡辺喜恵子が詠んだものです。喜恵子は大正3年(1914)、秋田県仙北郡桧木内村(現在の西木村)で生まれ、太平洋戦争盛りの昭和19年春、母の故郷である福岡町に疎開しました。戦後上京し昭和34年、小説「馬渕川」で第41回直木賞を受賞しました。この作品は第41代南部利剛公の治世から明治維新を挟み、旧南部藩の一商家(池田屋万兵衛)の波乱に富んだ有様を馬淵川の流れに見立てたもので、私たちの古里二戸市が舞台になっています。』
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案内板「県立自然公園馬仙峡」…『馬仙峡は、昭和37年國分知事が命名した名勝地で、青冽な馬渕川をはさんで、男神岩、女神岩と大崩崖等の自然が造り出した雄大な景観は、正に公園に値するとして、昭和37年折詰岳とともに県立自然公園に指定されました。渡辺喜恵子の小説「馬渕川」(直木賞受賞)はこのあたりで取材したものであり、女史の「明神の渕の澄めるもかなしけれ」の歌碑がここに建っている。』
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