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八戸藩総鎮守。三社大祭発祥の御宮。法霊山おがみ神社。八戸市内丸に鎮座し、八戸市内で最古の神社と云われます。主祭神は高おがみ神、法霊大明神。八幡町鎮座八幡宮(応神天皇)、常海町鎮座月山神社(月読命)、沼館村鎮座新川神社(瀬織津比売命)が合祀されています。
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以前の記事も参照ください。なお、「おがみ」と表示していますが、本来は漢字で雨かんむりの下に「口」を横並びに3つ、その下に「龍」を書いて「龗」です。
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神社の起源は諸説あり、現在記録上判明している限りでも約900年前の平安後期に遡りますが、それ以前の創建年代などがはっきりと記録されたものが残っていません(創建年代に関しては研究者・郷土史家の間でも見解が分かれ、産土信仰の誕生を類推して弥生期あたりからという説と、文化の流れを考えると飛鳥時代頃が妥当とする説があります)。この地域はその昔八戸村柏崎と呼ばれており、柏崎の産土神として地域の人々に祀られるようになったのが法霊山おがみ神社のはじまりと云われています。その後、大和朝廷の蝦夷征討により中央の文化が伝わるとともに、地域の産土信仰が神道と結びついていきます。これは類推するに約1200年程度前の出来事と考えられており、柏崎村の産土信仰が誕生したのはこれより以前ということになりますが、はっきりした年代を示すものは存在しません。
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稲作技術は時代とともに技術発展を遂げ、畿内や四国近隣では飛鳥時代頃より溜池や堤などを築き、農業用水の確保を行うようになりました。北東北の地でも稲作は行われていましたが、寒冷な気候に弱い稲作はなかなか発展せず、堤などが築かれるようになったのは平安中期頃。八戸地方でもその頃から堤が多数築かれるようになり、柏崎地域には柏崎堤が造られました。その堤を御守り頂く守護神が必要とのことで、地域の守護神である産土神のいる場所に堤の守護神を御祀りするのが妥当ということで、そのための社が築かれたそうです。この頃既に中央文化によってもたらされていた神道という概念に影響され、この社は「三崎社」(御崎社、御前社など様々な表記あり)という神社として祀られていくようになったそうです。この三崎社は堤のほとりに鎮座していたそうで、現在の内丸3丁目から柏崎方面に存在していました。
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鎌倉時代初期、八戸地方では日照り続きで農作物に深刻な被害が出ていました。この頃に熊野や京都の聖護院などで修業を積んだ法霊という霊験あらたかな修験者が、様々な土地で教えを説きながら東北の地に戻ってきていました。この法霊は、鎌倉幕府誕生の頃の功により源頼朝から北東北の所領を与えられた工藤祐経の一族である工藤祐道の末裔(現在も神職を務める坂本家の7代目)で、その先祖代々の土地に戻って来たことになります。八戸村に入った法霊は雨乞い祈祷に優れた山伏であったため、不作に疲弊する人々に乞われて雨乞いの祈祷をすることになり、寝食を忘れて必死に御祈祷を執り行いましたが、その甲斐むなしく雨を降らせることが出来ませんでした。人々の落胆ぶりに心を痛めた法霊は、その命を捧げるので雨を降らせてほしいと願い、三崎社内にあった池(現在の内丸1丁目の辺りに鎮座していた頃にあった池)に身投げをするという行為に及びます。すると池から法霊が龍に化身して忽ち天へ登り、空に暗雲が立ち込めて恵の雨を降らせたという伝説が伝わります。この御神徳に心より感謝した人々は、法霊の御霊を三崎社に合祀し「法霊社」という神社としてお祀りすることとなりました。
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江戸時代になって盛岡城を政庁とする南部藩が誕生。南部藩は現在の岩手県から青森県の太平洋側一帯の地域を与えられ、各地に支城などが築かれていきました。八戸にも八戸城が築かれ、法霊社はその館神として八戸城本丸に遷座。その後、南部藩は跡目問題解決の為、幕府からの命で盛岡藩8万石と八戸藩2万石へ分割されることとなりました。これに伴い元々八戸城の館神だった法霊社は八戸藩の藩神としてお祀りすることとなり、八戸城二の丸に遷座(寛文5年・当時は一般領民の参拝が許されない神社。但し祭礼の際には許されたという記録あり)。遷座の際、藩は法霊社の規模拡張を行い、八戸藩御領内総鎮守社と定めて、大名家南部氏の祈願所としました。江戸中期の享保5年に法霊社に祈願した結果豊作に恵まれたことへの感謝として、翌6年に法霊社の神輿を長者山虚空蔵堂(現長者山新羅神社へ渡御して2日後に還御するという神事が執り行われました。この神事が現在の八戸三社大祭のはじまりです。
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明治初期、神仏分離令が発令さたことに伴い、法霊社も高かがみ神を主祭神として法霊山おがみ神社と改称。山間部でもない平坦な都市部に位置しながら法霊山となっているのが山伏系の名残りとなっています。現在でも雨の神・豊作の神、そして地域の産土神・守護神として篤く崇敬されています。
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義経北行伝説が伝わります。源義経が平泉で自害せずに北へ向かったという義経北行伝説ゆかりの場所で、鳥居の建つ場所は義経正妻の京久我大臣姫が自害した場所と伝わり、手鏡が所蔵されています。また、江戸期にこの地方に伝わる義経北行に関する口伝を書き留めた「類家稲荷大明神縁起」という古文書が本殿より発見され、現在市立図書館にて保管されています。
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『悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は兄の頼朝に追われ文治5年(1189年)4月平泉の高館において31歳の若さで自害したといわれている。短く華麗だったその生涯を想い、後世の人々は「義経はその前年にひそかに平泉を脱出し、北をめざして旅にでた」という伝説を作りあげたのである。世に言う「判官びいき」であろう。ひそかに北へ逃れた義経は、八戸に上陸し市内の高館に住んだといわれる。元久年間(1205)義経夫人(京の久我大臣の姫君)が亡くなり京ヶ崎に葬り、法霊(りょう)大明神とあがめられた。おがみ神社がその場所だといわれており、八戸の義経伝説の記録「類家稲荷大明神縁起」が所蔵されている。公益社団法人八戸観光コンペンション協会』
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なお、以下は神社庁による由緒の概要です…『おがみ神社は往古柏崎に鎮座、勧請年暦不詳、鎌倉時代、法領明神の別当で代々大善院と称した。寛永4年(1627)再建、6年盛岡城主南部信濃守利直又造営す。山城守重直明暦4年(1658)3月18日御堂掃除料として別当持地の内高二十石分は諸役御免、残る持地分は諸役相勤めるようにと、時の家老、漆戸勘左衛門、桜庭兵助、毛馬内九左衛門より証書を賜わる。其の後、寛文4年(1664)台命により、南部重直弟、左衛門佐直房八戸を分領されてより、柏崎城地より当社地へ御堂移転。寛文6年(1666)直房臣大田重右衛門主命に依り奉行として、当社造営。9月20日遷座式。時の別当大善院寛久、これより八戸総鎮守と称し、南部家代々厚く崇信す。毎年9月19日祭典を執行の処、享保6年(1721)7月19日長者山へ渡御式の祭礼を始め21日還御す。文政7年(1824)、八代の領主左衛門尉信真の時、再建し8年7月9日遷宮式執行、これが現在の神殿である。』
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ちなみに『水神竜神 十和田信仰』(小館衷三)には「おがみ神社すなわち法領様が竜神の代表で雨乞の神としてまた鎮守として南部氏の崇敬する社で、八戸三社祭の三社の一つである。縁起によると650年前の正中年間に法領という修験僧が祈晴、祈雨を行っていたが、ある年の祈雨に失敗し、自ら神頭の池に身を沈めて降雨をもたらし、五穀豊饒にしたので、万民喜び、法領の徳を泰って建立した宮であるという。いずれにしても、司水神をあらわしており、現在は高おかみ神を祀っている。」とあります。
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現在の本殿は、約190年前に大名南部家より寄進されたもので、その前までは現在神楽殿となっている建物が本殿でした。現在の三八城公園あたりにあった法霊社が遷座する際に、現在地まで丸太などを転がしながら牽引してきたと云われます。現本殿は造りが特徴的で、本殿階最上段大床に出ると外に出る扉があり、その扉を開けて一度回廊に出て、外陣東側の扉から外陣内に入るという形式。しかしながら外陣正面にも御扉はあり開扉可能ですが、御鍵がなく、御鍵は外陣東側の外に取り付けられているという不思議な構造。なお、拝殿も現本殿と同時期に南部家より寄進された建物。社殿全体は権現造の様式で、入母屋造の本殿と流造の屋根がかけられた拝殿の間に石の間(幣殿)が存在するという形式となっており、昭和期にこの幣殿に覆いがかけられ、3殿全てが室内でつながっているという造りになっています。
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有形・無形それぞれ国・県・市などに指定された文化財等があります。八戸三社大祭の山車行事(国指定重要無形民俗文化財)は、享保6年から現在まで続く当神社発祥の神事で、毎年7月31日から8月4日まで開催。現在も神社が所蔵している御神輿が長者山に渡る事が三社大祭の本来の由緒です。法霊神楽祭(県指定重要無形民俗文化財)は、八戸地方及び近隣の神楽からの伝承を習得し、神社直属の神楽として組織されたもので、多数の権現頭による一斉歯打ちが中心演目。万年暦(市指定有形文化財)は、江戸幕府天文方、源嶺南から天文暦学を学んだ八戸藩儒学医平田周庵が、文化9年に奉納した暦額。各年の歳徳神の方角、節気、雑節、日月食の予告などが記号で書かれています。
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その他、武田信玄と屋台一式(市指定有形民族文化財)、太公望と屋台一式(市指定有形民族文化財)、享保六年記年銘鉾先(市指定有形民族文化財)、御輿及び戸張(宝物)、類家稲荷大明神縁起(宝物)、法霊縁起1巻(宝物)、古鏡二面(宝物)、城中大広間太鼓(宝物)、火縄銃(宝物)、白熊毛長柄(宝物)、勢州桑名住村正作太刀脇差(宝物)、和州出羽大塚文殊包重作太刀脇差(宝物)、備前長船清光作太刀脇差(宝物)、相州住正広作太刀脇差(宝物)などがあります。詳しくは公式HPかwikipediaを参照ください。
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おがみ神社の太公望・武田信玄(境内案内板より)…『八戸三社大祭(国指定重要無形民俗文化財)は今から約280年前の享保6年(1721)法霊神社(現在のおがみ神社)の御神輿の一行が、長者山・新羅神社まで練り歩いたことに始まります。この行列に山車は最初加わっていませんでしたが、「太公望」は延享4年(1747)「武田信玄」は天保4年(1833)の祭りに登場したことが古い記録からうかがうことができます。「太公望」は近江屋、「武田信玄」は河内屋の旧蔵品であり山車人形は京都や江戸から購入したものと伝えられています。このような山車が、江戸時代から明治時代にかけて旧暦の7月19日から21日の八戸の祭りに10台前後参加していましたが、ほとんどが八戸藩の有力商人により調達されたものでした。屋台には車が付いており、曳いて練り歩いたものと考えられますが、他都市の古い祭礼絵図には山車を担ぐ姿が多く見られ、法霊神社の物も調べ直す必要がありそうです。明治24年頃からは、山車は毎年新しく作り変えられるものへと変化し、旧山車の人形は、商家の店先に飾られるようになり、三社の祭礼の演出に一役買っていたようです。このように「太公望・武田信玄」は、八戸三社大祭の歴史を伝える貴重な文化財です。平成12年8月1日八戸市教育委員会文化課』
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手水鉢(文政11年6月吉日)。大塚屋寄進。文化4年に御用聞として藩の財政に関わっていて褒美を受けた商人は、松橋半兵衛、村井孫兵衛、橋本八右衛門(屋号七崎屋)、大塚屋市兵衛、美濃屋三右衛門、近江屋市太郎、大和屋茂兵衛、吉田屋惣八、淡路屋源之助、磯屋甚兵衛の10名。同7年に藩札を発行した商人は、七崎屋半兵衛、近江屋孫兵衛、美濃屋三右衛門、大和屋茂兵衛、吉田屋惣八、近江屋市太郎、加賀屋利助、磯屋善兵衛、河内屋八右衛門、大塚屋市兵衛、和泉屋喜兵衛、淡路屋源之助の12名。元治元年に御用金を献上した大商人は、廿三日町では金子宗七郎、山田弥三郎、石橋善兵衛、村井浅吉、石橋源兵衛、岩城屋善兵衛、叶屋文右衛門、升屋長治、淡路屋万右衛門、大村屋仁兵衛で、廿六日町にはそれより少し前に安太郎がいました。十三日町には、大塚屋市兵衛、板屋太郎兵衛、和泉屋吉兵衛、三春屋与惣治、富岡新十郎、古屋清七、中村屋万介、吉田屋豊作、大塚屋長兵衛がおり、十六日町には見えず。三日町には近江屋市太郎がおり、少し前の時代に三郎兵衛、忠七がいました。六日町には石屋平七、岩屋徳兵衛がいます。八日町には河内屋八右衛門、少し前に孫兵衛、長右衛門、伊五郎、津兵衛がいました。
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拝殿前石灯籠二対(昭和45年・文化12年9月)。
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手水舎。
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車祓所。
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消防殉職者鎮魂之碑(八戸市長中里信男謹書)。
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境内社へ。
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不動明王やら蛇やら石やら…の祠。
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ラブラブ狐。
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狐一対。
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稲荷大明神。
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小祠。
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大黒様やら恵比須様やら不動明王やら色々。
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庚申塔。
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稲荷の石祠。
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狛犬一対と稲荷祠。
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八大龍神。
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稲荷の小祠。
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馬頭観音。
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太平山鎮座三吉大神。
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布袋様。
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不明の祠。
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覆屋がある稲荷祠。
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狐一対。
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注意書き…『ポケモンGOでの無断駐車はレッカー移動を業者に頼みます。レッカー移動費を請求します。車のナンバーを控えます。』
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