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山形県米沢市中央5丁目。虚空蔵菩薩。門には「福威智満虚空蔵菩薩」「別當関興庵」とあります。
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一花院の創建は上杉家の重臣千坂景親が米沢城下に入った折、祖とされる那須与一の持仏である虚空蔵菩薩像を安置するために一宇を設けて、千坂家歴代の菩提寺としたのが始まりとされます。千坂家は那須与一を輩出した那須家一族の後裔とされ、鎌倉時代に入り上杉家の家臣となり、上杉謙信時代に大功を挙げた千坂景親は上杉家四家老に数えられ、景勝の時代には初代米沢藩江戸家老に就任。千坂高信は満願寺家からの養子であったことから、満願寺家の菩提寺であった日朝寺(日蓮宗)に千坂家の菩提寺を変更すると一花院は衰微。しかしながら千坂家からは何らかの補助があったようで享保4年には千坂景親と那須与一の供養塔である三層石塔が建立されました。文政7年の火災によって堂宇が焼失し更に衰微。明治の廃仏毀釈運動により廃寺に追い込まれたと考えられます。現在は僅かに残る境内に虚空蔵菩薩堂と三層石塔、石祠、石灯篭などが残されています。また、前田慶次の菩提も一花院の境内に葬られ墓碑も建立されたとされますが、廃寺になった際に紛失したようです。御本尊などは関興庵(臨済宗)に移されており、境内の管理も関興庵によって行われています。
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那須与市宗隆(「平家物語」では宗高)は、鎌倉初期の武士であり、下野国(栃木県)の豪族那須資隆の11番目の子。源義経に従い、文治元年2月の屋島の戦いにおいて、平家方が小船に立てた扇の的を見事に射落し、源平両軍から称賛されたことで有名。この話は「平家物語」や「源平盛衰記」に名場面として描かれており、その後、能や歌舞伎でも演じられ、世に広く知れ渡ることとなりました。与市はこの功により、武蔵国太田荘など5ヶ所の所領を拝領し、その後は山城国(京都)で死去したとか、越後に追われたとか云われるも詳細は不明。但し、那須家は与市の弟の子が相続し、江戸時代も一万石の大名として続きました。
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那須与一供養塔(裏面:享保四年孟夏十三日建立)。高さ約4.2m。
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2段目外側中央に「供養塔、那須與一宗隆公、千坂對馬守景親公」と刻まれています。
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供養塔の中。
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虚空蔵菩薩堂。
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鰐口。
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虚空蔵菩薩堂内。
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一花院跡と那須与市の供養塔…『上杉家の重臣千坂家と縁深い臨済宗・一花院があった場所で、現在は虚空蔵菩薩堂が残っている。千坂家は源平合戦で活躍した弓の名人・那須与市の子孫で、与市の守り本尊であった虚空蔵菩薩像を代々伝えた。千坂対馬守景親の代に上杉家に従い米沢へ移り、この地にお堂を建て祀ったという。堂の前に建つ三層の石塔は、千坂家の遠祖・那須与市と千坂景親の供養塔で、享保4年(1719)に建てられたもの。なお、「米沢地名選」などの江戸期の地誌書には、前田慶次の墓が一花院にあったと記されるが、一花院は幕末頃に廃寺となり、慶次の墓石は現在確認できない。菩薩像は関興庵が管理している。米沢市』
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