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坂上田村麻呂が安置したと伝えられる御本尊御開帳に行ってきました。立石寺(山寺)の御開帳以来です。
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山寺は50年に1度でしたが円覚寺は33年に1度です。期間は平成30年7月17日-31日。
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なんでも今回で3回目という方がいらしたみたいです。何歳なんでしょう!?
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ちなみに今年は羽黒山五重塔の内部特別拝観・羽黒三所大権現秘仏初公開が行われています。機会のある方は是非!
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澗口観音円覚寺。津軽観音霊場第十番札所・津軽弘法大師霊場第十二番札所・北国八十八ヶ所霊場第六十番札所・津軽観音霊場第九番朱印所。大同2年(807年)征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷東征の際に、厩戸皇子作の十一面観世音菩薩を安置して観音堂を建立したと伝える県内屈指の古刹。坂上田村麻呂が兜の中に納めていたと伝えられている影顕石守仏も今なお円覚寺に保存されています。
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その後、清和天皇の貞観十戊子年(868年)に、泰澄大徳の弟子で浄定行者の末弟の円覚法印が、修験道を奉じて諸国の霊山を遍歴、この地に来て観音堂を再興。この円覚法印が大和の国の人で当寺の開基。寺号は開基に由来。
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江戸時代までは、当山派修験宗の寺として加持祈祷を行う山伏寺。津軽三十三ヶ所観音霊場第九番札所の見入山観音堂は当寺の修行道場。明治5年に修験宗廃宗に伴い古義真言宗醍醐派となり現在に至ります。このような歴史的な背景から、円覚寺は祈祷寺なのでお葬式をせず、檀家は一軒もありません。江戸時代以前は各時代時代の豪族の帰依を受け、江戸時代には津軽藩主の庇護によって続いてきました。
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深浦は、上方(京大阪)と蝦夷地(北海道)を結ぶ経済文化の大動脈北前航路の蝦夷地へ渡る最重要港であったため、ここの観音様は澗口観音と称されて信仰されました。澗口観音と云うのは、澗(港)入口にあって、海上安全・商売繁盛の御利益のある観音様という意味です。古来から澗口観音として信仰を集めた祈願寺で、嵐の中から生還した船乗りのチョンマゲが多数奉納されていることからも船乗りの信仰の厚さを感じられます。
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本尊御開帳パンフレット。
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境内マップ(①拝観券売場②お守り売場・ご朱印授与所③圓覚寺三不思議(金運)の鍾石(黄金の音の石)④圓覚寺三不思議の龍灯九字の網(坂上田村麻呂お手植の神木。国重文・日本遺産「ちょん髷絵馬」いわれの杉。天空の桜、観音様の宿る杉。)⑤地蔵堂(子供を守る仏様)⑥庚申堂(旅人を守る仏様)⑦開帳記念事業海難者供養碑⑧県重宝・日本遺産宝篋印塔⑨圓覚寺三不思議(健康)の薬師堂内厨子(総桧造))。
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御開帳マップ。
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本尊拝観の為、割符の左半分を係に渡します。
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円覚寺に伝わる坂上田村麻呂が安置した厩戸皇子作の観音像(御本尊・秘仏)は大きさは1丈5寸(3m18cm)、木造総金箔塗の立像。古文書に「遥かに年を経て、本尊の御台座後光等も古へ破損、尊像のみにましましけるを、寛永元年当国大主信牧公御参勤の御渡海安穏御道中安全の御心願に依て御本尊御彩色、後光御台座新に御作御寄進あらせらる」とあり、また、「寛文七年四代藩主信政公、尊像の朽ち毀れたるを御覧ぜられ、漆にて尊像を固め、箔仏に荘厳す」とあります。本当に間近(目の前)で見ることができます。少し離れた場所から拝むものかと思っていたので驚きました。撮影禁止。
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本堂裏の寺宝館(篤学館)も観ることができます。国指定の文化財「船絵馬」、「髷額」や県指定の文化財、全国男女84,000人の毛髪で刺繍した「八相釈尊涅槃図」、当寺26世義観僧正の仏道修業の遺品の数々、坂上田村麻呂が陣中で信仰していた観音懸仏5体、兜の中に納めた影顕石守仏、古い狛犬など色々展示されていました。寺宝館はかなり見応えありますよ。撮影禁止。※写真はパンフレットより。是非現地で見てください。
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毛髪刺繍八相釈尊涅槃図(部分・パンフレットより)。日露戦役両国殉難者怨親平等仏果菩提のため、8万4千人の毛髪で、一針一真言、5か年を経て作成。東宮殿下(大正天皇)の御台覧に供し、御感賞の光栄を賜った天下一品の霊宝。
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髷額は荒天のため遭難の危機に瀕した船乗りたちがちょんまげを切り落とし、ざんばら頭になって一心不乱に祈り生還した後、そのお礼に奉納したもの。明治になって北海道へ向かう北陸や能登の船は深浦に入港するとまず、円覚寺に参拝してから、自宅に無事を知らせる電報を打ったそうです。
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さて、境内に戻ります。
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本堂。3世大善法印代から当山派修験宗となり、醍醐三宝院に属し、代々の法印が実修実証の修法を行じて来ましたが、その間、嘉応年中鎮守府将軍藤原基衡公、永正年中葛西木庭袋伊予守頼清公堂宇を再建したことが、古文書・棟札等で知ることができます。寛永2年越中守信牧公堂宇再建。明暦元年土佐守信義公堂宇修理。元禄13年越中守信政公堂宇再建。享保13年土佐守信寿公堂宇修営。現在の本堂は大正5年再建されたもので、玄関角柱・虹梁・蟇股・木鼻は寛永期のもの、正面扉・内陣外陣の丸柱は元禄期のものです。
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案内板「円覚寺(真言宗醍醐派)」より…『本寺は大同2年(807)に坂上田村麻呂が聖徳太子作十一面観音像を安置し、創建したと伝えられる。貞観10年(868)に円覚法印により再興され、その後、豪族や弘前歴代藩主の厚い庇護を受けていたことが文献等に記されている。海上交易が盛んになると海上の安全を祈願する船乗りが数多く参詣し、船絵馬や髷額を奉納して澗口観音として信仰を集めた。これらは室町時代初期の作と言われる薬師堂内厨子とともに国の文化財に指定されている。』
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案内板「澗口観音円覚寺略記」より…『「津軽一統志」に、次のように書かれています。「大同二年(807)、征夷大将軍・坂上田村麿、観音堂をこの地に建立し、厩戸皇子の妙巧なる十一面観音像を安置す。今の本尊これなり。」と、その後、貞観10年(868)、泰澄大徳の弟子・浄定行者の末弟の円覚法印が、修験道(山伏)を奉じ、諸国の霊山を遍歴して、この地に来て「観音堂」を再興しました。円覚法印は、大和国(奈良県)の人で、寺号の「円覚寺」は開山の「円覚法印」の名から付けられたのです。当寺は、当山派修験(真言系の山伏)の寺院で、「お葬式」をする寺ではありませんでしたので、江戸時代、幕府の「檀家制度」の発布後も、「檀家」はありませんでした。それで、江戸時代以前は、各時代々々の豪族の帰依をうけ、江戸時代には、津軽藩主の庇護によって続いていたのです。「深浦」は、上方(京大阪)と蝦夷地(北海道)を結ぶ経済文化の大動脈「北前航路」の蝦夷地へ渡る最重要港でした。そのため、ここの「観音様」は「澗口観音」と称されて信仰されました。「澗口観音」と云うのは、澗(港)の入口にあって、海上安全・商売繁盛の御利益のある観音様と云うことです。事実、数々の「船絵馬」「髷額」(国重要有形民俗文化財)や「奉納品」がその事柄を物語っています。明治5年(1872)新政府による「修験道禁止令」の法難の嵐によって、全国の多くの修験寺院は消えて行きましたが、当寺は生き残り、真言宗醍醐派末寺の「祈祷寺」として現在に至って居ります。本堂の後ろに、「寺宝館」(篤学館)があります。国指定の文化財「船絵馬」「髷額」(106点)や県指定の文化財、また当寺26世・義観僧正の仏道修業の遺品の数々が展示されて居ります。中でも圧巻は、僧正が日露戦役の両国殉難者供養のために、五ヵ年を費やして、全国有信男女8万4千人の毛髪を以て刺繍した「八相釈尊涅槃図」でしょう。』
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海難者供養碑・華表・石灯籠・石段。
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華表(鳥居)・石灯籠・石段・宝篋印塔・敷石・土台石…『寺院では「鳥居」を「華表」と云い、明治以前には「寺」に「鳥居」があっても、何も不思議ではなかったのです。また、「鳥居」は日本固有のものではありません。「インド」の「ストウーパ」(仏塔)の四方にも立っています。華表・石灯籠は破損していますが、江戸時代「北前船」によって上方・北陸地方から運ばれて奉納されたものです。華表の竿に「奉寄進大坂境屋」「寛政」の刻字が判読できます。左の「石段」も同様に「北前船」で運ばれて、寄進されたもので「越後宮川信心中」「松前栖原榮徳丸幸吉積下」「安政六年」の刻字があります。※石段横の「宝篋印塔」(県重宝)や本堂前の「敷石」「土台石」も同じように運ばれ寄進されたものです。』。境内地の桜…『境内地いは、合計11本の桜の木があります。例年では、4月下旬から彼岸桜が咲き始め、その後、山桜、しだれ桜、八重桜が咲きます。そして5月中旬まで桜の花が楽しめます。』
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ここには華表の柱部分しかありません。特に説明はありませんでしたが、もしかして山門前にある石はこの華表の笠木・島木部分では?憶測ですが。
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県重宝・宝篋印塔(江戸時代初期・笏谷石製)。
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鐘石。
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鐘石…『叩くと「金」の音がする。昔「黄金持ち」になろうと盛んに叩かれたそうです。』
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ほほえみ観音。
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円覚寺の竜灯杉。
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円覚寺の竜灯杉(町指定天然記念物)…『平成5年12月24日指定。江戸時代、西廻り航路(北前船)の海の男たちが、この沖で暴風雨に見舞われ、髷を切って一心に祈ると、この杉の梢から一条の光が放たれたそうです。九死に一生を得て辿り着いた船乗り達は、常日頃篤く信じていた澗口観音円覚寺にその髷を納めました(重要有形民族文化財髷額)。このような伝説がいつごろからか、北前船の船乗り達に「竜灯杉(竜神が宿って船乗りに助けを与える神木)といわれるようになりました。深浦町教育委員会』
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龍燈杉九字之綱。
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龍燈杉九字之綱…『千古の風雨霜雪に耐え、偉大なるパワーを秘めている御霊木です。紅白の綱を額に当て、願いをこめて「九字」を唱え、千古の偉大なるパワーを頂いてください。九字「臨兵闘者皆陳裂在前」』
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薬師堂。
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薬師堂厨子(総桧造)。国重文。600年前の桧の香が残る厨子。香堂とも。室町初期の建造物で、県内最古のもの。「工匠堂」と称され、飛騨の工匠の作。唐様式入母屋造の白木のままの大変珍しいもので、内殿には木仏薬師如来像と十二神将像を安置。更に至徳2年(1385)銘の鰐口(県重宝)が残されており、豪族の庇護の顕れを見ることができます。なお、太宰治が小説「津軽」執筆のために深浦を訪れて、円覚寺の薬師堂に参拝し、深浦を「完成されている町」と表現しています。
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薬師堂前。
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修行弘法大師石像・開基圓覚法印供養塔。
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案内板より…『およそ「弘法大師」の名を知らないという人は居らないでしょう。それはお大師様の御徳が広大無辺なるためです。昔から、お大師様には五つの尊像があります。これは、衆生済度のために旅から旅へと御巡錫なされた「修行大師」のお姿です。お大師様は、このようなお姿で野を過ぎ、山を越え、海辺を辿り、一歩に一人を済度し、一日に一郷を教化なされたばかりでなく、道なき所に道をつけ、橋を架け、農業はもちろん医療・土木・建築・産業・美術・文学等、あらゆる面にわたりその功績をたてられました。さて、お大師様は承和二年(835)三月二十一日、六十二歳で高野山奥ノ院に御入定なされましたが…「身は高野にあるとも、魂は処々に日々影向を欠かさない」…との御誓願により、日々夜々に影向あそばされ、その御利益は今も昔も変わらないのです。それ故に、「南無大師遍照金剛」の声々は全国津々浦々に普く、その信仰、その礼賛の声は天地に満ち、広大無辺なる御徳は永遠に燦として闇の世を照らし、三界人天の大導師として、真言宗の高祖として、また、日本文化の大恩人として忘れてはならないのです。あゝありがたや南無遍照金剛。合掌』
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不動明王。
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薬師堂横の板碑。安山岩。
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板碑(三基・年代不詳)…『鎌倉時代から室町時代(1186-1614)にかけての石の供養碑を板碑といいます。』
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稲荷堂・金毘羅堂・弁財天堂。寛永4年、深浦は四浦の1つとなり、奉行所が置かれ、北前船貿易華やかな江戸中期から明治中期にかけては、大阪はじめ日本海の港々からの船の出入りが多く、澗口観音と呼ばれるようになり、各港々の船主・船頭の施資によって天保7年に金毘羅堂が建立されました。
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北国船(重要有形民俗文化財)。
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地蔵堂・庚申堂。
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境内ステージ。
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菅江真澄の道(春光山圓覚寺)標柱…『春光山圓覚寺(「深浦の観音様」「澗口の観音」)寛政8年(1796)7月16日、椿山見物に出立する真澄は、「飛騨の工が建て」たお堂を拝観する(「外ヶ浜奇勝」)。これが現在国重文指定「薬師堂内厨子」。寛政9年(1797)2月10日(「つがるのおち」)、この寺で語り暮らした真澄は、「春雪にふり埋れたる雪の梢」を眺めて次の一首を詠む「木々の芽も春の光のやまのはは花とみゆきの霧も長閑かさ」』
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寺宝案内…『国・重要文化財「薬師堂内厨子(県内最古の建造物・室町時代初期)」。国・重要有形民俗文化財「海上信仰資料(国内最古唯一の船絵馬(北国船)及び北前型弁財船船絵馬・髷額等百六点)」。県重宝「鰐口(県内最古(南北朝時代)・至徳二年の銘あり)」「絹本著色聖宝僧正像(鎌倉時代)」「宝篋印塔(江戸時代初期)」。北前船時代の豪商:高田屋金兵衛祈願依頼状。高田屋嘉兵衛帰国御礼奉納品(ギャマン飾玉・シャンデリア)。当寺高僧義観阿闍梨の道業:毛髪刺繍・八相釈尊涅槃絵図。毛髪刺繍・三十三観音尊影。光明真言一万遍写経五輪宝塔。金胎両界大曼荼羅。その他古仏像等々』
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パンフレットより。
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平成30年本尊御開帳日程一覧。
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味のロード会場マップ。
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記念品を頂きました。
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御本尊十一面観音散華。十一面観世音菩薩の御影を当代28世住職が謹写。お部屋の壁の上部に掲げるといいそうです。
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裏面。
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御本尊開帳記念カード型お守り。
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円覚寺付近散策。
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すぐ近くにある風待ち舘前。「北前船」を復元して展示(※写真は館外にある実物大北前船)。深浦町は北前船の寄港地。江戸時代から明治にかけて、北前船の寄港地として栄えた青森県鰺ケ沢町など全国7道県11市町の「北前船寄港地・船主集落」は日本遺産の認定を受けています。
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深浦は津軽で一番の風待ち港として栄えた港でした。行合崎は細長く突き出た岬で、その沖で北前船が行き交うことからこの名が付けられています。行合岬と入前崎に囲まれた深浦の歴史を紹介しているのが風待ち館です。北前船の模型や船絵馬、古い海路図などが展示されています。
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