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秋田県鹿角市十和田毛馬内柏崎。仁叟寺、鹿角市先人顕彰館、毛馬内柏崎館の近くです。明治44年に月山神社に合祀されているようです。由緒等はわかりません(※調べていません)。
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かつては立派な拝殿があったのではないかと思わせる境内ときちんとした石段がございます。
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こちらの史跡案内図を見てもかつては社殿があったとわかります。
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御祭神は天照大御神。
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石灯篭一対(大正7年)。
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すぐ近くにあった内藤湖南先生誕生地の碑(一番下の写真は碑から見た神明社)。住所は秋田県鹿角市十和田毛馬内古下タ。碑文…『東洋学の権威 内藤湖南誕生地 郷賢顕彰會』、裏面碑文…『昭和36年6月26日建立』、隣の碑…『高田地区土地区画整理事業による道路拡幅にともない、生誕地より約二十米ほど東方の現在地に碑を移築した。平成9年3月内藤湖南先生顕彰会』
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内藤湖南(慶応2年-昭和9年69歳)は日本の東洋史学者です。名は虎次郎。字は炳卿。湖南は号。別号に黒頭尊者。白鳥庫吉と共に戦前を代表する東洋学者であり、戦前の邪馬台国論争、中国に於ける時代区分論争などで学会を二分。生まれは秋田県鹿角市(陸奥国毛馬内村)。南部藩士内藤調一(号は十湾)と容子の次男として誕生しました。父十湾は折衷学派に属していました。6歳で『大学』をわずか4ヶ月で習得し、7歳で『二十四考』『中庸』と四書を習得し、13歳時で頼山陽『日本外史』を通読し、詩作を始めます。友人や世間の評判も「学問が出来ても決して威張らず、喧嘩など一度もしたことがない。感心な子どもだ」というものでした。秋田師範学校に入学後、一人キリスト教会に通ってアメリカ人のガルスト・スミスについて『万国史』などを勉強。明治17年、秋田師範学校を4年かかる過程を2年半で卒業し、綴子小学校の主席訓導(実質的には校長)となります。明治20年に上京し仏教雑誌「明教新誌」の記者(主管は大内青巒)となります。その後「三河新聞」や雑誌「日本人」、「大阪朝日新聞」、「台湾日報」、「万朝報」などの編集で名を馳せました。日露戦争に於いては開戦論を展開。明治40年、京都帝国大学(現京都大学)文科大学史学科東洋史学講座講師となります。明治42年に同大学教授、明治43年に文学博士となります。東洋史担当講座にて足掛け20年務め、同僚の狩野直喜・桑原隲蔵とともに「京都支那学」を形成、京大の学宝と呼ばれました。史論の代表的なものに、独特の文化史観に基づき、中国史の時代区分を唐と宋の間を持って分けるというものがあります。内藤は秦漢時代を上古と規定し、後漢から西晋の間を第一次の過渡期とし、五胡十六国時代から唐の中期までを中世とし、そして唐の後期から五代十国時代を第二の過渡期とし、この時代をもって大きく社会が変容したとしました。邪馬台国論争については、白鳥庫吉の九州説に対して、畿内説を主張し激しく論争。「東の白鳥庫吉、西の内藤湖南」「実証学派の内藤湖南、文献学派の白鳥庫吉」と称されます。大正15年に大学の60歳定年制にもとづき、京都帝国大学を退官し、帝国学士院会員に選出。京都府瓶原村に隠棲し、読書著述の日々を過ごしました。墓所は京都東山の法然院です。
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