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出間館的写真からスタート。何度も紹介しているので最勝院の由緒等詳細は以前の記事なども参照ください。今回は石碑・記念碑メイン。
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仁王門前のエドヒガン(保存樹木・平成9年6月23日指定)。
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『エドヒガンは、桜の代表的な品種であるソメイヨシノの片親で、シダレザクラはエドヒガンが枝垂れたものであり、共に長生きする桜である。弘前市内には藩政時代に導入されたが、当時のもので残っているのはこの桜だけである。推定樹齢230年』※下記に桜が咲いた頃に再訪した写真あり。
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塔下煎餅(三浦煎餅店)が無くなって、景色も少し変わりましたね。
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新仁王門。昭和58年、真言宗智山派管長上野頼榮猊下御親修のもと立柱式を厳修した最勝院新仁王門。昭和59年が弘法大師御入定1150年御遠忌に正當するため、記念事業として参道整備と共に建立。宮大工は名工大室勝四郎棟梁。
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こちらは新しいですね。台座には文殊菩薩の梵字が彫られています。
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『最勝院檀信徒一同・本堂建立50年五重塔建立350年護摩堂及五智如来堂修繕竣工落慶記念・維持平成28年旧3月21日正御影供・金剛山光明山最勝院第丗八世傳燈大阿闍梨・亀甲山勧修寺密乗院兼帯院家中興第廿二世法印公彰代』
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本堂。昭和45年9月25日、真言宗智山派管長那須政隆猊下御親修のもと落慶法会を厳修した最勝院本堂。宮大工は名工大室勝四郎棟梁。後年屋根改修工事を行っており、平成14年正御影供に落慶法会厳修。この工事で千鳥、唐破風を 取り付けて、屋根の形状変更を行っています。宮大工は父大室勝四郎の後を継いだ大室勝男棟梁。
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護摩堂へ。
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護摩堂。
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護摩堂前狛犬一対。
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文久元辛酉年5月・宮川久三郎良致・野村伊右衛門清昌・上野儀三郎茂秀・鳴海久兵衛惟匡・武田嘉左衛門恒典・世話人奈良屋善助。
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弘法大師像。大正14年6月21日に再建。翌15年に五重塔の修理を行うため、その工事の無魔成就をも心願として建立。弘法大師像脇には、天保5年、昭和9年、昭和59年の御遠忌の記念碑が建立されています。ちなみに天保5年の碑には「最勝院二十八世院家寛剛」「百澤寺二十五世法印堯寛」「心應院七世明傳房快英」と刻まれています。
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弘法大師寶珠(大正14年6月21日・第36世智猛代建立・弘法大師御尊像之石)。
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その横の地蔵など。
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為死産児供養碑。
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聖徳太子堂・聖徳太子堂修繕記念碑・庚申堂・庚申塔・文殊堂・薬師堂。
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『此の御堂は日本文化と仏教の元祖であり聖徳太子を祀る。聖徳太子報恩碑は八職で聖徳太子奉讃会を興し職祖神太子を祀っている。【聖徳太子と伝記と主な行績】敏達天皇3年に御生誕(西暦574)。父用明天皇皇太子時代、厩戸豊聡耳皇子、上宮太子とも呼ばれている。祖父欽明天皇時代最初仏教伝来有り、現在の韓国当時の百済、高句麗、新羅より多くの教典僧侶、大工、瓦師、画工等来る。太子幼時より是等の人々に学問技術医学を学び信仰を国民に弘めた。20才にて推古天皇、叔母攝政皇太子となり冠位十二階=十七条憲法=大陸文化輸入、法隆寺(奈良)四天王寺(大阪)を建立。三経義疏を示す。歴法も採用す。推古天皇20年2月22日49才にて御逝去(西暦622年)。現在の太陽暦を換算すると4月11日命日となす。4月上旬奉讃会を開いて居る。』
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五智如来堂と棟梁堀江佐吉翁紀年碑(明治41年5月1日)。
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堀江佐吉翁紀年碑裏面。大き過ぎて見えませんが、上部は賛成人氏名、下部は発起人・委員氏名などです。紀年銘は明治41年5月。
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六角堂(如意輪観世音菩薩堂)。 
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六角堂前狛犬一対。
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六角堂由緒沿革…『この堂宇の名称は具には如意輪観世音菩薩堂と言い、元治甲子元年(1864)11月連光山大圓寺第21世朝昌導師のもと建立した。頭梁は成田屋常吉、寶珠鋳師は坂本久右衛門及び櫻庭弥太郎、書画は外崎左馬之助である。弘前城下本町の豪商一野屋の当主2代目一戸宇三郎庸友が嫡男運次郎の供養の為に建立した。宇三郎は作詞家一戸謙三の先祖である。謙三は詩集「ねぷた」の中にある「弘前」で一躍名を全国に馳せた人で、幼少の頃弘前で一番賑やかな最勝院宵宮の日、この六角堂へ一族で集まり過ごした事を懐かしい思い出として語っている。この六角堂は永い星霜の中で軸部の傾斜や寶珠露盤の破損とそれに伴う内部雨漏り等老朽化が進み、修繕するかどうかの判断に迫られていた。しかし、喪失していた御本尊を寺庭布施美智守が施主となり新たに制作の運びとなった為、修繕の方向で進める事と相成った。建物は半解体、基礎石交換、屋根銅板張替、寶珠交換、扁額塗替修繕、扉弁柄緑青塗替及金具一部取替、白壁漆喰塗替、木部弁柄塗替、金具取替を行った。内部は御本尊新規制作、荘厳関係全て新調、障壁画新規取付を行う等実に大規模な修繕となった。建物修繕は堀江組堀江敏志。御本尊は滋賀県大津市の渡邊勢山、障壁画は弘前市出身の渡邊載方によるもので、ご夫婦での制作である。修繕は平成18丙戌年4月から11月まで行われ、翌平成19年丁亥年4月8日新たなる御本尊を迎え落慶入佛開眼供養式が金剛山最勝院第38世公彰導師のもと厳修された。【本尊如意輪観世音菩薩】この六角堂の本尊如意輪観世音菩薩は一面六臂で蓮華座に思惟する姿で座している。梵名を眞陀摩尼といい、如意寶珠を意味する。眞陀は思惟の意もあり、この観音が思いを廻らし思惟する姿はここから来ている。如意輪観音の象徴である三昧耶形は紅蓮華上の八輻金輪に輪上の三瓣寶珠である。寶珠は福徳、輪は説法の智徳であり、蓮華はその体たる観音を表す。即ち、如意輪の尊名の由来は、蓮華部説法の徳を示す観音が、寶部の三昧に住する処からきている。六臂は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天に通じ、この六道を輪廻転生する魂の済度であり、更には六根罪障の滅除消滅をも意味する。この観音堂の六角形もそこに由来する。【ご利益】私達の悩みや不幸せのもとである六根罪障・煩悩・業障を滅所消滅して下さる有り難い仏様です。日頃の罪悪を自ら懺悔し、この観音様におすがりして世俗の垢を洗い流して頂きましょう。【御真言】「おん はんどめい しんだまに じんばら うん」金剛合掌。【御開帳】如意輪観世音菩薩の御開帳は年1回毎年旧暦6月13日例大祭の日と定められております。』
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六角堂の周囲には石碑がたくさんあります。
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こちらは状態はいいのですが篆書体・旧字で、状態も一部悪かったのでかなり適当です…『故青森縣警部弘前警察署長川嶋君諱信■鹿児嶌縣士■出以明治五年為東京府取締組累遷任警部其為警察署長以大坂府西長堀為始其後遷東京府為警察本署監視部遷青森縣■為署長経五所川原八戸轉弘前叙判任官三寺居三日■然長逝■廿三年六月八日也蓋君肺患踰年■■在先官面歿身常■病視事遂致弊面己冩君在間■十九年賞■數■■■見其勤構■惜哉■年四十一可盃■■■面歿家■■■■空■■■神戸■■爪髪■埋■■■示不■■■■■■■君為人不吐■■■故■■僚屬之敬■署務■故擧縣令目故伸固非偶然也弘前署員■哉表其墓也突■令茲小祥遂捐資以立碑使余■■云明治二十四年六月』…難解穴埋め問題状態。
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所謂…青森県警部弘前警察署長川島君を讃えた碑です。明治24年6月建立。黒瀧儀任撰・高山文堂書。
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隣りには故舘田福太郎之碑(明治39年9月26日)。
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こちらは状態が悪いです。側面に陸軍歩兵大尉正七位勲六等による説明があり、「青森県中津軽郡和徳村農岩吉第三子也明治九年四月十日生」「性温順」「愛馬曽為馬丁入歩兵…勲六等松平…」「役住予出生明治三十八年一月」云々…彫られていますが下部はほとんど読めません。
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木村藹吉君碑…『往時覇府乗政列國士大夫温飽終身攵久以還四方多故竒才異能起自微■爭立功名而肉食者委靡不振於是余竊有取於木村君馬君弘前藩人家世上士食禄三百石少壮游學江戸修西洋砲術當是時人■治平忌言兵事謗議紛興君不為意益究其學日亂■■矣非此無以展吾力也元治甲子藩王朝覲君攝行先鋒歩卒隊長事明年任稽古館督學奉主命更革兵制悉用西洋陣法戊辰之變以大隊長與南部兵戦於野邉地會覇府逋兵襲函館府知府清水谷公考告急乃航海往救激戦府克公考退不青森君殿後結銃陣賊不敢逼明年復從王師伐函館攻矢不來賊殊死戦鋒鋭甚乃大呼奮闘中飛九不屈麾部兵益進遂■其星■師賞■衆勇戦■以百金是歳藩主以君■陸軍會議長及攵武局長尋賞前功賜世禄米百參拾苞加以百金辛未任少參事未幾陸大概而藩廢入仕於朝補兵部省七等出仕■東北鎮臺第一分營地方司法士明年辭罷丁丑西征之役権補一等中警部未至於師亂平解職巳卯九月四日病没葬於弘前梅林寺先塋之次年僅四十君諱重清後改一綱又建別號顆卵通稱藹告父曰重矩本姓髙倉氏為木村重教嗣配其女生君於弘前元寺町之邸舎君娶豐鳧氏生二男一女其解職而歸也謂人曰天下事■無復用武術矣乃游北毎道愛知内土沃便灌漑欲募同志從事墾田■疾不果及没其友相議建碑大圓寺址以表之銘曰 有■有識 非肉食徒 在朝在野 報效是圖 偉矣竒士 呼■則無 司法卿■議■官陸軍中将従三位勲一等伯爵山 田顯義篆額宮内省四等出仕從五位勲六等川田剛撰文 海軍少佐從六位勲五等柏原長繁書』※途中で諦めました。変換できない字は異体字を使っています。木村藹吉は弘前藩士の家に生まれ(天保11年)。江戸で西洋砲術を学び、藩軍制の西洋式への改革を推進した方で、戊辰戦争では大隊長として弘前藩兵を指揮。明治2年新政府軍に従って箱館を攻め、矢不来で戦います。維新後兵部省に属しました。明治12年9月4日逝去(40歳)。名は重清・一綱。通称は別に杢之助・繁四郎など名前がたくさんある方でございます。碑の内容から梅林寺にお墓があることがわかります。有名な方なので別の資料等で調べた方が早いです。
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篆額山田顕義。
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石戸谷末九郎氏紀年碑(大正4年8月建立。東京大相撲協會目代)。
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本縣出身力士連名も彫られています。『綾川五郎治・綾浪源鋭・千年川亀之助・櫻川五郎藏・陣幕純司・小野ヶ崎金藏・雲龍辰五郎・立汐祐次郎・浪泉藤十・荒角国風・振分健藏・若松源治』 
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米山連紀年碑(米山連記念合同句碑)…『「松に吹く夕風たゝむ扉かな」歌月・「銀竹や是もひとつの雫より」窓旭・「御降は民の潤ふはじめ哉」蘿生・「初生りの桃添へにけり生身魂」松柳・「水の上水の流れて春の海」乙人・「一と樹つゝ秋押よせる紅葉かな」藤壽・「書初や筆は何でも押へ処」村丸・「幾年も煤けぬ神の鏡かな」有静・「春立や尽せぬ宿のふき茗花」和榮・「七瀬ある御秡も同じ落処」一鱗・「花の香や日の出の国は夕あらし」如遊・「花に遊ぶ鳥さへ口ふ親の恩」亀昌・「しら口しる人やしるべきひめはしめ」艸々』。
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紀年銘は明治33庚子年弥生。
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表徳碑…『巖山之霊氣磅礴而鬱積巖水之甘寒潤其土而清淋工氣之精英■構結果有異人生其間若櫛引錯齋其人即是也君諱清基稱儀三郎生而誠信不興人戲神截然與詳児異故世以異人目之幼喪怙恃及長兄尓立故承其後事祖母至孝家貧躬親樵圃以供養有暇則兀兀讀書手不釋券其學務經世實角不事記誦詞童學成擢爲藩學教授其誘掖後進諄諄懇幅説當世之務曰角彜倫之事薫陶所覃愚者奮頑傲者革門徒數百千人名■隠然震予闔藩臣室世臣皆請延為師然事有不可則侃侃執正不肯詭随禮貌衰者必痛絶之故貴戚敬惲奉訓一時俊髦夛出旅其門蓋於藩政所幽賛陰補亦夥矣其所上書建議剴切極言不避忌諱忠直剛毅■如此明治四年目老辞職廢藩之際肥遁予北鄙羽埜木津村以農桑樹藝自楽会十二年十二月八日罹疾歿享壽六旬以神祭式葬子原子村嗚呼君之學之徳皆異村人而其學之異猶可及也其悳之異不可跂及也世之碌碌庸庸随俗俯仰者可以愧死矣仝其門人思而弗惜乃與其友人及有志謀寛貞珉勒其徳以圖不朽来徴余文余既作其小傳故此不叙其世次唯表其徳爾 銘曰藩治三百世有贒臣徳之純粹厭推斯処』…※間違ってる自信あり!しかも内容もわからない笑
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小林翁碑…『翁諱惟行通稱忠之丞文化庚午生弘前明治十九年十月二日以疾而歿年七十七葬先塋側翁仕舊藩初為馬廻尋無代官管堀越村時村民有遍惰弊田土多為他村之有少壮流離貧困極矣此村者藩祖誕生之地社稷所始興也翁因感奮夙夜圖救済切請干官得減租免役之許招村民以勸農桑諭父老以守郷約居不幾田土復舊至仝民合致富者實翁之力也廢藩以後率先蹈義触使人振起於是其名益著晩事興業新開一社請補助金干官以固其基本翁為人直率有氣節人之所憚干為勇進為之可謂不世出士也我輩欽慕不巳乃相共謀建碑以傳之不朽云有志輩建立』※間違ってる自信あり!
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外崎友太郎翁之碑。
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工藤先生碑(門生・友人建立)。こちらは状態が悪い上に変色していてかなり読みづらい感じ…『先生諱貞栄稱喜古衛門青森縣弘前本家■事津軽藩先生仕藩歴官代官作事奉行■■宜清廡不聴請記不受苞苴甞為権貴■藩而節操彌堅世皆稱之其為作事奉行■■數也行己荘敬治家有法一家■之明治十五年十一月十六日没享年七十七葬旅法源寺其長子貞恭稱儀郎號慎齋任藩歴官典句代官等及廢藩置縣歴官區長縣属性恭謹無事父母悟々色■居官黽勉不倦百事其■先生甞設塾教授子呆慎齋先生継之措吉懇到有為之士夛出旅其門明治廿四年二月十八日歿享年六十葬旅先瑩側門生及友人相謀■志石以傳其徳乃為之銘曰 惟父惟子 孝順廣清 世濟其美 隠然垂名 如木婿々 如豆清々 積善之慶 子孫日榮 明治三十年(破損)二郎撰如禅髙宗書』。
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志士之碑…『明治37年4月20日北満州哈爾濱に於て不幸敵手に斃れたる横川省三沖禎介両氏の尊き血に染れる現場より携来りし日廻菊を茲に移植して壮擧を偲ぶ于時大正14年4月20日』
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村谷松三郎翁之碑。
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裏面碑文…『明治45年4月2日・文洞書・消防組中建立・世話役・弘前市松森町消防組小頭外崎友太郎、小和田久吉・黒滝元吉・千葉己之松・石川久次郎・工藤宇八郎・村田元太郎・森直吉』
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岩崎翁壽藏碑…『仙臺劍士岩崎翁今年六十有六而身健氣壯日執竹刀教撃刺其術入神見者僉以爲古所謂劍仙流亜也頃者門人相謀将建壽蔵碑来請余文按状翁名宗直稱權三郎其祖一條筑前守京都人移住陸奥國刈田郡小原村舟合慶長庚子從仙臺藩祖公攻白石城有功擢廣間番士子孫世祿至六左衛門某實翁先考也妣岡氏以嘉永元年七月九日生蚤喪父稍長嗜武技就淺野源太夫學小野派一刀流年十五既獲初段目録後從遊諸家窮其蘊奥①與知名劍士較技率常屈之有故出嗣岩崎氏明治九年廢刀令出斯道大衰翁深憂之十年五月與藤田某櫻田某謀開撃劍大會②宮城公園尋巡縣下各郡遂及福島岩手青森諸縣到③設演武場教授子弟奨勵備至十八年拜仙臺警察署撃劍教授明年轉盛岡署七月捕殺人犯髙椙某賜金三十一年移弘前市託賜明館教授又為縣市立中學校及第八師團歩兵第五十二聯隊野戦砲兵第八聯隊騎兵第八聯隊等教授盡瘁斯道四十年如一日執贄者前後二百三十三人他聽教習技者亦盖不下數百人可謂努矣嘗獻恤兵費軍資金賜木杯褒状翁隆準脩頤身長六尺力兼數人而資性謙恭聲貌温和不似世間劍客輙聳肩張臂言語粗堅④故衆懐而敬之配岩崎氏亦有淑徳生一男家庭平和如坐春風云惟我神州⑤武建國未甞受外邦軽侮者撃刺之術實與有力焉輓近好尚一變華奢為風柔惰成俗剛健碓武氣象殆乎掃地矣幸有前代遺老如翁者毅然守其道誘掖後進以供他日緩急之用乃特有技術因以不泯建國基礎因以不壊是所以與列國對峙而竸雄也猗歟盛矣哉 明治45年1月仙臺鐡軒 友武伸吉撰 巴陵 佐佐木守庸書』
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篆額。
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卯辰両年餓死供養塔(文化4丁卯年4月8日・施主桶屋町工藤仁八)。
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髙祖神變大菩薩(大正3年8月7日)。神変大菩薩は修験道の開祖(山岳信仰の第一人者)である役小角(伝634-701年)の諡号。上部梵字はアーンク(胎蔵界大日如来)。
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側面…『五重塔境内』『願主對馬清次郎建立』。
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こちらには『佐ノ山駒三郎・對馬豊吉・上田善太郎・北嶋平十郎・成田平吉/本不生位』とあります。真言宗の僧侶の位牌で位号に書くのが本不生位。
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側面…『明治三十二年五月五日白善・大谷連中』
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ってことで、最勝院石碑・記念碑編に挑んでわかったこと…
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我無学文盲之輩也!!…図書館かどこかでしっかりと調べるべきでした。
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長くなりましたが、桜の季節にも再訪していましたので、その時の写真も載せておきます。ちなみに最勝院は平成9年の放火事件以来、年末年始と宵宮以外の夜間は閉鎖していましたが、今年の弘前さくらまつり期間中は試験的に開放され、18時から21時までライトアップされていました。夜間は有料で、来年以降の継続は未定のようです。
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冒頭で述べた仁王門前のエドヒガン。元気に咲いておりました。
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エドヒガンと仁王門・五重塔・八坂神社鳥居。
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八坂神社境内。
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以下最勝院関連記事。
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