山形県米沢市中央5丁目。粡町西宮戒神社。
戎像(3.5m。粡町西宮戒神社遷座50周年記念として粡町町内議員の方々より寄贈)。
旧粡町(あらまち)…『伊達時代は白子神社門前の町であった。慶長6年(1601)上杉景勝の時代直江兼続の城市改革によって現在の地に移り米穀の集散地として城下随一の繁華を呈した。』
粡町の由来碑…『米沢が出羽國府の支配にあって「おいたみ」と呼ばれ、原野に郷人らが散在して住んでいた頃の和銅5年(712)野生の桑林に一面の雪の原の如く蚕が繭をつくった。郷人らはこれを神の業とし祠を建てて祀った。白子明神である。やがて郷人らはこの祠の境内に集り(いまの元籠町)交換取引を始めた。斎市(いち)である。さらに祠前の道を拓らき、米穀取引市の門前町は生れ新町(あらまち)と名づけられた。米沢最古の町づくりであり、商取引市場である。伊達氏が米沢を領した時代(1570頃)に町人本町を六町設けた。新町はその筆頭市場であり「秋の日市」米穀市場として、商品流通の拠点となり、次いで蒲生氏領國時代もそのままの形で繁栄していった。直江兼続が米沢を領した慶長3年(1598)新町に米穀取扱の米座と旅人宿場を兼ねさせ、米宿場源吾店を設けたことにより、領内産米の直取引権を獨占し、米問屋町として凡そ十万俵の米の負荷販賣をするに至り、人口はこの町に集中し、一大商業街としての基礎を確かにした。次いで、直江執政時代の慶長14年(1609)に城下町割り改革が行われ、現在の米沢市街を形成し、新町は米穀市場、物資集散地として交通至便の現在地に移された。以来、上杉氏城下の町人の町、米の直取引市場として栄え、米座穀町は新町に固定した。精米が進み一般に白米を食するようになると、玄米に同じという意味に因み、粡町(あらまち)という名が全國各地城下町に現れたが、寛延2年(1749)頃に新町も粡町と書かれるようになった。さらに明治、大正、昭和と代々米沢市随一の商店街として町民は結束堅く、伝統を守り繁栄を誇ってきた。昭和42年(1967)9月、住所表示法施行に当り、歴史と傳統を持つ粡町の町名存續を町民は熱願したが、町割統合改廃とともに、中央三丁目、四丁目、五丁目と分断され、由緒ある町名は消えることとなり、翌43年、粡町商店会は粡町通り商店会と改称し粡町の名を残した。ここに粡町1200年の由来を誌し、幾度かの大火災や苦難を超えて、粡町を繁栄させてきた先人の偉業を讃え、これに感謝するとともに、幾世代の後人のために傳えるものである。』
戎十日市発祥の地(碑文:戎十日市由来記)…『昭和28年11月、西宮戒神社創建に際し社前の粡町商店連合会の56店は同社月例祭の毎月10日に「戎十日市」と名づけた報恩感謝の市を創始した。市は空前の盛観を呈し他町商店もまたこれに同調全市の名物行事となるに至った。爾来30年、当時の賑わいと粡町商人の心意気を回想しこの碑を建てる。』
休み石…『休み石は江戸時代の中期頃、粡町をはじめ宿場町の路傍ところどころに置かれてあった。旅する人や、行商人の休み場所として作られたもので、思いやりから生まれた生活の知恵でもありました。新たに作られた石は、粡町協和会百周年を期に参拝客や買い物客の休める場所として町内各所に点在させたものである。粡町協和会』
石灯篭一対。
粡町西宮戒神社の御祭神は蛭兒大神、天照大神、須佐之男大神、大国主大神、白子大神。
粡町町内の中心部に鎮座。昭和28年11月に兵庫県は西宮戎神社より分霊を奉じて創建。粡町戒講社が中心となり、粡町町内会、粡町商店会、粡町協和会(青年会)等で御守りしてきました。
白龍弁財天。池に水はありませんでした。
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