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山形県米沢市御廟1丁目。
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上杉家菩提寺。真言宗豊山派八海山法音寺。本山は奈良県の長谷寺。
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旧町名由来「御廟町」(現町名:御廟1・2丁目・直江町)…『米沢城下西部の侍町で、町名は米沢藩歴代藩主の墓所である御廟所が北側にあったことに由来する。また、御廟町から御廟所入口までの町は、御廟前町あるいは内御廟と称され、御廟を管理する「御廟之将」の屋敷が置かれた。』
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山門。
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山門前石灯篭一対と、地蔵様…じゃなく弘法大師様かな。
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越後の国南魚沼郡藤原の里、八海山の麓(現新潟県六日町)に、聖武天皇の勅命により天平9年(737)4月に総建された寺。藤原政照卿が天皇の命を受けて諸国巡視中、越後国、飯盛山の麓で病死し、その菩提を弔うために行基菩薩が勅命によってその地に法相宗の寺を建立したのが始まり。寺号は政照卿の法名「都正院殿正二位政照法音大居士」に依ったものです。その後、越後国真言宗国分寺兼務を命ぜられ、建久8年(1197)に源頼朝の祈願寺となり、天正年間には上杉家の帰依寺となって春日山に移されました。慶長6年(1601)に上杉景勝が会津を経て米沢に移封されたことに伴い、米沢城二の丸に伽藍建立。景勝公御逝去の際は、法音寺住職能海僧正が葬儀の導師を務め、以後、歴代藩主の葬儀はすべて法音寺住職が導師を務めることになり、上杉家歴代藩主の菩提寺となりました。寛文の頃より大御堂に勤仕する真言21ヶ寺の二の丸寺院の筆頭役、及び真言宗僧録司となり、藩内150ヶ寺の統轄をするようになります。正保2年(1645)、嵯峨大覚寺より院室名を永代兼帯することを許可され、院室菩提心院の号を贈られ、寺格は院主録所談林中本山となりました。明治3年8月に藩命により、歴代藩主の御廟所のある現在地(法音寺住職の隠居寺として江戸時代に延命寺が建てられ、住職は朝夕御廟所に出仕して御供養申し上げるのを主務としていました。それと合併して)に移転して復元されたのが現在の伽藍。明治9年に米沢城が取り壊され、本丸の地に上杉神社が造営されたのに伴い、謙信公の御霊廟も本丸より御廟所中央の現在地に移されます。
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御本尊は大日如来尊(江戸時代前期作)で、更に歴代藩主の位牌を祀る上杉家御霊屋、善光寺如来尊並びに附属宝物、謙信公帰依の泥足毘沙門天尊(謙信公帰依・鎌倉時代作)、管谷不動尊(鎌倉時代作)等が奉安されており、その他上杉家に係る什物が多数保存されています。善光寺如来尊はインドより百済を経て552年仏教伝来と共に欽明天皇に献じられた我国最古の仏像とされる三国伝来の秘仏。蘇我稲目に賜りましたが物部尾興等の奏請により難波堀江に棄てられた後、推古天皇10年(602)に信濃国人若麻績東人(本田善光)がこれを奉載して祀ったのが信濃善光寺如来尊。天文20年(1551)川中島の戦いの折、信州中野城主高梨政頼は戦国の兵火を避けるため、信濃善光寺の御本尊を上杉謙信公に奉じました。謙信公は春日山に如来堂を建てて御本尊を懇ろに奉祀するとともに深く尊信し厳重に守護。慶長6年(1601)上杉家の国替えに伴って善光寺如来尊も米沢に移され、景勝公は米沢城本丸の東南隅に藩祖謙信公を祀る御堂を建てて、御堂本殿の中央に謙信公の御尊骸、右に善光寺如来尊、左に泥足毘沙門天尊を安置し、更に二の丸に御堂に勤仕する真言宗21ヶ寺を建立し守護の掟頗る厳重にして、その供養勤行は丁寧を極め代々奉祀。法音寺が歴代藩主御廟所のある現在地に移転し、明治9年本丸の御堂が解体されて謙信公の御遺骸が歴代御廟所中央の現在地に遷座された際に善光寺如来尊、泥足毘沙門天尊は当寺に移され奉安されました。信濃善光寺から御本尊と共に伝来した附属宝物はいずれも鎌倉期の作で優れた金工品です。金銅五鈷鈴(2箇)、金銅五鈷杵、金銅舎利塔は県指定有形文化財に指定。管谷不動尊は建久年間、新潟県北蒲原郡菅国にて護念上人により創建された真言宗の寺である明王護国寺の御本尊で、建久5年(1253)に寺が雷火で焼失した時、不動尊に池のタニシが付着して類焼を免れたという伝承を残します。謙信公は諸仏に対する敬信極めて篤く、菅谷不動尊にも深く帰依されていたので、景勝公は国替えの際にこれを奉持して米沢に移し、本丸の御堂に祀り、明治9年当寺に移されています。その他宝物等については法音寺HPに詳細が掲載されています。ちなみに御拝観には予約が必要です(法音寺寺務所)。なお、境内には、幸寿丸墓、矢尾板三印墓、景勝公への殉死者の墓、池田成章墓、上杉茂憲公句碑等があります(以上パンフレットより一部抜粋)。
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客殿・庫裡。
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密厳堂。
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子育地蔵尊と米沢西部幼稚園発祥之地碑。
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子育地蔵尊の両脇の碑…『み佛の教えのままに幼児ののびゆく姿美しきかな』、『南無子育地蔵尊。米沢西部幼稚園創立50周年、西部乳児園創立40周年を記念して此の尊像を建立す。平成14年6月吉日記念事業実行委員会。合掌』
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子育地蔵尊の隣の建物。
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延命子育聖観世音菩薩。
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行きませんでしたが、その他本堂裏の庭園には上杉茂憲公句碑もあるようです。
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墓所へ。
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幸寿丸墓。
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幸寿丸の墓…『幸寿丸のことは、「前太平記」の第15、16巻にくわしく記されてる。謡曲の「満仲」は、あまりにも有名である。幸寿丸は、いまから1000年前の人、15才の時源満仲の第4子、美丈丸が乱暴して父に首をはねられるところ、その身代わりとなって命を捧げた。心をあらためて修行を重ね高僧となった美丈丸(源賢)と、その兄源頼満(大江山の鬼退治)は、その忠死に感じて、遺骨を善光寺如来尊の御堂に納め、ねんごろな供養冥福を祈った。善光寺如来尊が米沢にお移りになるにおよんで、上杉家御廟所内におさめられていたが、昭和16年この地に安置された。当山では、世のため人のために生きた尊霊をおなぐさめ申し上げるとともに、幼な子たちの美しく健やかな成長をいつまでもお守り下さるようお願いし、花壇をつくってお墓をきれいにし、いつもみんなで手を合せ、お祈りしています。』
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上杉景勝公殉死之墓。右中村甚助、左高野孫兵衛。
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池田成章(天保11年5月26日-大正元年10月11日)墓。
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出羽米沢藩士香坂昌邦の子として生まれ、米沢藩士池田峰蔵の養子となりました。藩校興譲館に学び、上杉茂憲の小姓となりました。町奉行、江戸留守居役を歴任。茂憲の側役として麻布邸に起居し甘糟継成と行動を共にし、ここで福澤諭吉、小幡篤次郎、シーボルトを初めとする人物らと知己を得ました。明治維新後は廃藩置県に伴い置賜県判事となります。明治14年5月に茂憲が沖縄県令に赴任するのに従い、10月に沖縄県権少書記官となります。翌年1月に事務官判事となります。明治16年に茂憲が沖縄を離れるのと共に東京に戻り、翌年に大蔵省御用掛となります。明治19年に大蔵省を辞任して米沢に戻り事業を開始。米沢中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)初代校長も務めていおり、また、両羽銀行(現山形銀行)の創立に関わり、明治29年に初代頭取に就任し明治40年まで務めました。主君の茂憲に終生忠誠を尽くし、明治29年に茂憲が米沢に戻った時の居宅として鶴鳴館(現上杉記念館)の建設に当たったのも成章。
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矢尾板三印(寛永17年-宝永2年)墓。
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寛文6年に京都に出て、野間三竹に医学を、松永尺五から儒学を学びます。寛文9年には藩主上杉綱憲の近習兼藩医となり石高70石。元禄3年には綱憲の儒者兼藩医となり石高100石。綱憲より上杉謙信及び上杉景勝の年譜編集を命じられ、元禄8年に「謙信公年譜」を、同16年には「景勝公年譜」を完成させ、その功績により100石加増され石高200石。三印は自宅に聖堂を設けて釈奠を行っていましたが、綱憲はこれを改築して元禄10年に「感麟殿」と命名。更に講堂を設けて藩士の学問所として三印に主宰させました。この学問所は後に上杉治憲が建設させた藩校興譲館の前身となります。綱憲が隠居して上杉吉憲が藩主となると、宝永元年には吉憲の側居となりましたがその翌年に死去。なお、聖堂祭主及び藩士子弟教育は片山元僑が継承。
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八海山法音寺について…『【一、縁起及び沿革】法音寺は山号を八海山といい、天平9(737)年、聖武天皇の勅命により、越後国魚沼郡藤原の里、八海山の麓(現在の新潟県南魚沼市六日町)に建立されました。天皇の命を受けて諸国巡視中であった藤原正照卿が越後国飯盛山で病死し、その菩提を弔うために、行基菩薩が勅命により法相宗の寺を建立したのが始まりです。寺号は、正照卿の法名「都性院殿正二位正照法音大居士」に依ったものです。その後、越後国真言宗国分寺兼務を命ぜられ、源頼朝公や上田長尾家の祈願寺となり、天正年間には上杉謙信公の祈願寺となりました。慶長6(1601)年、上杉家が会津を経て米沢に移られたのに随って、施主、上杉景勝公によって米沢城二ノ丸に伽藍が建立され、米沢藩主上杉家の菩提寺となりました。また、米沢城本丸に建てられた謙信公のご遺骸を祀る御堂に勤仕する真言宗二十一ヶ寺(二ノ丸寺院)の筆頭役、及び藩内真言宗僧録司となりました。正保2(1645)年、嵯峨大覚寺より院室名を永代兼帯されて、院室菩提心院を贈られ、寺格は院主録所談林中本山となりました。明治に入り、廃藩置県、破城令、神仏分離令などの措置により、明治3(1870)年、藩命により歴代藩主御廟所のある現在の地に移転されました。さらに、二ノ丸寺院の廃寺、米沢城が取り壊された本丸の地に上杉神社が造営されたのに伴い、明治9(1876)年、謙信公の御霊廟も本丸より御廟所中央の現在地に移されました。その後は、歴代藩主御廟所にお勤めをしながらも、一般の檀家も受け入れ、檀信徒それぞれ互いに力を合わせ、仏道宣揚の浄業に励んでおります。【一、宗派及び本山】もとは法相宗で本山は奈良の興福寺でした。その後、真言宗にかわり醍醐三宝院の末寺となりましたが、現在は、真言宗豊山派で本山は奈良の長谷寺です。【一、本尊及び仏さま】真言密教の教主である大日如来(金剛界)をご本尊として左右に宗祖弘法大師、中興の祖興教大師を、両側には真言八祖の像を安置し、さらに、正面両側に両部曼荼羅を掲げて仰ぎます。本堂の一番奥には、歴代藩主の御位牌を祀る上杉家御廟所が整えられて、それをお守りすべく左右に謙信公が最も尊崇された泥足毘沙門天尊像、菅谷不動尊像、そして信濃より移された善光寺如来尊像など由緒深い仏さまや什物を奉安しております。又、境内には幸寿丸の墓、景勝公殉死者の墓、矢尾板三印の墓、池田成章の墓などがあり、いずれも上杉家とご縁の深い方々のお墓です。【一、唱名】南無大師遍照金剛、または各々の仏さまの御名を唱えます。(両手の指を組み合わせる金剛合掌で手を合わせ静かに低頭します)【一、教義】真言宗は、お釈迦さまが開かれた仏法を基にして、弘法大師が説かれた教えです。人は皆、仏心をもっており、志をたて(発菩提心)、正しい信仰心をもち、正しい修業"三密の行"を修すれば誰でもこの身このままですぐに仏になれる(即身成仏)とされたのです。そして、この世に存在するものはすべて尊く、不必要なものは一つもない、そのすべてが自身の持っている力を出し切って生きている世界を密厳国土といい、これを曼荼羅の思想とされました。私たちは、家庭、地域や社会、世界の国々、そして仏法僧の三宝によって育まれ、生かされています。この4つを「四恩」といい、四恩に感謝することから密厳国土の実現がはじまるのです。又、「十善戒」などの、戒律を守り、祖先を敬う心を大切にし、すなおなこころを持った生き方をすれば、静かで安らかな日々が過ごせるでありましょう。山主、合掌』
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米沢藩主上杉家菩提寺八海山法音寺(真言宗豊山派)…『当寺は、天平9年(737)、聖武天皇の命を受けて藤原正照公が諸国巡視中、越後(新潟県)八海山の麓で病死し、その菩提を弔うため、行基菩薩が勅命によって其の地に法相宗の寺を建立したのが始まりです。寺号は政照公の戒名「法音大居士」に依ったものです。その後、越後国真言宗国分寺兼務を命ぜられ、源頼朝公の祈願寺となり、さらに天正年間には上杉謙信公の帰依寺となって春日山に移りました。慶長6年(1601)上杉家が会津を経て米沢に移られたのに随って、上杉景勝公により米沢城二の丸に建立され、また米沢城本丸に建てられた謙信公の御遺骸を祀る御堂に勤仕する真言宗二十一ヶ寺の筆頭寺院となって、米沢藩主上杉家菩提寺となりました。さらに天保2年(1645)嵯峨大覚寺より、院室名を永代兼帯されて、院室菩提心院の寺格を贈られました。明治になって廃藩置県、神仏分離令などの措置により、明治3年(1870)藩命に依り、此の地に移りました。本尊は大日如来尊で、上杉家歴代藩主の御位牌、謙信公崇拝の善光寺如来尊、泥足毘沙門天尊、菅谷不動尊などを奉安します。境内には、幸寿丸の墓、景勝公への殉死者の墓、矢尾板三印の墓、池田成章の墓などがあります。御拝観の方は予約をお願いします。』
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善光寺如来(法音寺)…『法音寺は上杉家歴代藩主の菩提寺で、秘仏の善光寺如来三尊像と付属の仏具を安置している。その来歴は、弘治元年(1555)の第2回川中島合戦の際、上杉謙信は長野善光寺の仏像・仏具を越後に持ち帰り、その後上杉家の移封に伴って米沢に移った。米沢城本丸の謙信遺骸を祀る御堂に安置され、維新後は上杉家で所持、昭和9年に上杉家から法音寺に納められた。仏具の金銅五鈷鈴(2個)や金銅五鈷杵には、貞応3年(1224)、仁治2年(1241)といった鎌倉時代の年号や「善光寺」の銘が刻まれ、金剛舎利塔(鎌倉時代の作と推定)と共に山形県文化財に指定されている。米沢市』
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上杉謙信肖像(米沢市上杉博物館所蔵)。
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