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米沢藩主上杉家墓所。
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杉木立。
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パンフレットより…『上杉家墓所は、米沢では「御廟」または「おたまや」と呼ばれ、親しまれてきました。昭和59年(1984)1月11日、全国の大名家墓所としては5番目に、国指定史跡として登録されています。御廟は、東西約113㍍、南北約180㍍で、約2㌶の面積を有し、柵の外側には、幅約3.6㍍の空堀と土塁が廻らされています。江戸時代初期から後期までの歴代藩主の廟が1つの場所に並置されるのは珍しく、近世大名家墓所の代表例とされています。文化14年(1817)の「御廟山古絵図」によれば、江戸時代の御廟は、南正面に門枡形を造り、それを入ると東西に参道が延び、さらにその参道から各廟屋に向かって参道が北行していることが確認できます。廟屋の前には、拝殿があり、「御廊下」を通って「御拝礼」の間に達します。また、廟屋の前後や各参道の両側には、家臣たちが奉献した石灯篭が置かれており、絵図内での石灯篭は約800基が確認できます。江戸時代末期には、約1500基を数え、威容を誇っていました。現在、廟屋配列の中央正面奥に鎮座するのは、上杉家初代の謙信公廟です。謙信公は、越後に生まれ、天正6年(1578)に、越後国春日山城(現、新潟県上越市)で逝去されました。御遺骸には甲冑を着け、甕中に納めて城中の不職庵に埋葬されたといわれています。上杉家は、慶長3年(1598)に越後から会津若松、さらに関ヶ原合戦後、慶長6年(1601)に米沢転封となりますが、御遺骸もその都度遷され、米沢においては米沢城本丸の南東隅に祠(御堂)を建てて祀られました。その後、明治5年(1872)に、謙信公と鷹山公を合祀する上杉神社が創建されると、明治9年(1876)に、謙信公遺骸は御廟の現在地に遷されるとともに、御廟内全体が、現在の形に改変されました。元和9年(1623)、二代景勝公が逝去された際、謙信公御遺骸の避難所であったこの地で火葬に附し、灰燼・冠服を葬り、廟を建てて、位牌を納めて廟所としました。御遺骨は、紀州高野山に納められました。その後、八代宗房公までは、景勝公を中心に左右交互に廟屋を建てて高野山に納骨する形式が採られました。十代治憲公(鷹山公)は、師である細井平洲先生の薫陶を受け、儒教の孝道上、親を火葬とすることは忍びないとして、九代重定公を土葬とし、以後十二代斉定公までこれに倣っています。廟屋の建築様式は、謙信公は流造、景勝公以下八代宗房公までは入母屋造り、九代重定公以下十二代斉定公までは宝形造りで、その違いは、とりわけ屋根の構造が象徴的です。全体として、上杉家古来の質実剛健の家風を表しており、装飾は有りません。御廟は、藩制時代には、御廟将が置かれ、御廟守・御廟番によって守られてきましたが、明治以後、大きく改変されました。特に、御廟の杜の巨木は、戦中戦後にかけて伐採され、江戸時代の面影は薄れましたが、今なお、一部に当時のなごりを留めています。長年の激しい風雪に耐え、災害を免れて、杉木立の中に整然と立ち並ぶ歴代藩主の廟屋は、上杉家と米沢の歴史を物語ってくれます。』
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空堀と土塁。
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上杉家廟所…『米沢藩主上杉家の墓所で、昭和59年に国の史跡に指定。正面中央が上杉謙信の廟で、その左右に初代藩主景勝から11代藩主斉定の廟が交互に建っている。』
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上杉家廟所…『上杉家歴代藩主の廟所で、藩祖謙信公の■(門+必)宮を中心にして、その両側に12代までの藩主の廟が並んでいます。廟は2代から8代までは社造りで、材質もケヤキを用い、柱は丸柱となっています。9代から12代までの廟は、10代藩主鷹山公の考案による宝形造りで、材質もスギやヒノキを用い、柱は角柱と簡素になり、藩の財政事情がうかがわれます。謙信公の遺骸は、甲冑をつけカメに納められ、越後春日山(現新潟県上越市)から会津(現福島県会津若松市)を経て米沢城へ移され、明治9年に現在の場所に移葬されました。昭和59年(1984年)1月「米沢藩主上杉家墓所」として、国指定史跡となった。』
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米沢藩主上杉家墓所…『歴代の米沢藩主の墓所で、杉木立の中に整然と廟屋が並び、市民からは御廟所あるいは御霊屋と呼ばれている。中央正面奥が戦国時代の名将上杉謙信公の廟で、上杉氏の移封に伴い、越後春日山から会津若松へ、そして1601年、米沢城本丸へ移された。さらに明治9年にこの地に移葬され、墓所全体が現在のように整備された。謙信公の廟屋の向かって左が上杉家二代(初代米沢藩主)景勝公の廟。元和9年(1623)に景勝公が死去すると、火葬に付され遺骨の大部分は高野山に納められ、この地には分骨という形で遺灰や衣服を埋めて五輪塔を置き、入母屋造りの廟屋を建てた。以後、八代宗房公まで同じ形式で左右交互に廟が造られた。寛政6年(1794)、世子(次期藩主)の顕孝公(鷹山公の長男)が19歳で急死した際、火葬から土葬に改められた。廟屋は宝形造りとなり、以後九代重定公から十二代斉定公まで土葬が続いた。この荘厳な廟所は、東西110m、南北180mで、樹齢400年を越す老杉があり、近世大名墓所の代表例として昭和59年に国の重要な史跡に指定され、平成6年から同20年にかけ保存修理工事が行なわれた。米沢市』
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廟所入口。
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中央正面奥が上杉謙信公霊廟。
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不識院殿(初代謙信公)。
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「上杉煇乕公之■(門+必)宮」とあります。※「煇乕」=「輝虎」。
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上杉謙信公霊廟を中心に左右に廟が並んでいますが、上杉謙信公霊廟が少し奥にあるので、ここから見ると裏側になります。
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正面に向かいます。
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向って右端(11代治広公側)から見るとこのような感じ。
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向って左端(12代斉定公側)から見るとこのような感じ。
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各廟所前には石灯篭も一対ずつ綺麗に並んでおります。
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改めて、不識院殿(初代謙信公)。
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覺上院殿(2代景勝公)。
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大上院殿(3代定勝公)。
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上生院殿(4代綱勝公)。
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法林院殿(5代綱憲公)。
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樹徳院殿(6代吉憲公)。
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桂徳院殿(7代宗憲公)。
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英徳院殿(8代宗房公)。
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東岳院殿(9代重定公)。
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元徳院殿(10代治憲公・鷹山公)。
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瓊林院殿(世子顯孝公)。※一段奥にあります
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享徳院殿(11代治廣公)。
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俊徳院殿(12代齊定公)。
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14代正二位上杉茂憲公殪(やまいだれ+夾土・エイ・うず-める)髪碑碑。※景勝公廟所の隣。
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※明治以後に死去した13代斉憲からは東京に墓所がありますが、上杉茂憲公は沖縄県令としての功績を称えられ、沖縄県民有志により歴代藩主廟に並んで記念碑が建てられています。
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有縁無縁三界萬靈塔(昭和12年9月吉日)。
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