松が岬公園(米沢城址)に鎮座。主祭神は上杉謙信公。旧社格は別格官幣社。
舞鶴橋石灯篭一対(大正13年)。
舞鶴橋石灯篭一対(大正12年4月)。
一之鳥居と石灯篭一対。
神額。
社号標「別格官幣社上杉神社」。
御定書(大正12年4月)…『定:一、車馬乗入ル事 一、魚鳥ヲ捕ル事 一、竹木ヲ伐ル事 右條々於境内令 禁止者也 大正十二年四月 上杉神社』。
社務所。
貞愛親王殿下親栽之松碑。
手水舎。
神楽殿。
二之鳥居。
上杉謙信公家訓十六ヶ条碑…『一、心に物なき時は心広く体泰なり。一、心に我儘なき時は愛敬失わず。一、心に欲なき時は義理を行う。一、心に私なき時は疑うことなし。一、心に驕りなき時は人を教う。一、心に誤りなき時は人を畏れず。一、心に邪見なき時は人を育つる。一、心に貪りなき時は人に諂うことなし。一、心に怒りなき時は言葉和らかなり。一、心に堪忍ある時は事を調う。一、心に曇りなき時は心静かなり。一、心に勇ある時は悔むことなし。一、心賤しからざる時は願好まず。一、心に孝行ある時は忠節厚し。一、心に自慢なき時は人の善を知り。一、心に迷いなき時は人を咎めず』
二之鳥居と石灯篭一対(大正12年4月)。
天正6年(1578)、上杉謙信が越後春日山城で急死し、遺骸は城内の不識庵に仏式にて祭られるも、次代の上杉景勝が会津を経て慶長6年(1601)に米沢へ移封されたのに合わせ、謙信の祠堂も米沢に遷されました。以後、米沢城二の丸の法音寺を主席とする11ヶ寺が交代で祭祀を執り行ってきましたが、神仏分離令・廃城令等により、遺骸は城内から上杉家廟所に移され、その守護のために法音寺も廟所前に移転。更に、城内に留まっている謙信の霊魂を神式で祀るため、11ヶ寺次席の大乗寺僧侶が還俗して神官となりました。この時に姓を大乗寺とし現在も同家で宮司職を務めています。併せて米沢藩中興の名君である上杉鷹山を合祀し、山形県社上杉神社としました。明治9年(1876)5月21日、現在の旧米沢城奥御殿跡に社殿遷座。明治35年(1902)4月26日に別格官幣社。この時に上杉鷹山は新たに設けられた摂社の松岬神社に遷され、上杉神社は再び謙信のみを祀ることになりました。大正8年(1919)5月19日の大火(舘山口町から出火し市内約1070戸焼失)にて本殿以下全焼し、伊東忠太の設計により翌年から再建に取り掛かり、大正12年4月に現在に残る社殿となります。総工費46万2550円余の大工事で、その資金は皇室からの500円、国庫からの38万3500円、地元の寄付金7万円余。更に胴突や木材・石材の運搬などに延べ2330人の労力奉仕があり、燈篭や樹木などの寄進もありました。例大祭は4月29日で、謙信の歿日を太陽暦に換算した日(旧暦3月13日)。
青銅製灯篭。
台座獅子。
謙信公400年祭・昭和53年9月。
狛犬一対(大正12年4月)。
唐門。
透塀。
拝殿。御祭神は上杉謙信命。
本殿。
本殿横にも建物がありました。御仮殿か祭器庫かな?
本殿北側入口。
石灯篭一対(明治27年4月28日)。
風神雷神かな。
波兎(竹生島文様)。面白い石灯篭でした。
福徳稲荷神社前から見た社殿。
案内板より…『【上杉神社御由緒】御祭神上杉謙信公。天正6年(1578)3月13日、戦国の名将上杉謙信公が越後の春日山城に49才で急逝された時、その遺骸を城中不識庵に仏式を以て鎮祭されたのであるが、2代景勝公が会津を経て米沢に移封されるに当り、祠堂を米沢城内に移して仏祭を厳修し爾来260年に及んだ。明治の世を迎え祠堂のまま神祭に改め、米沢藩中興の名君鷹山公を合祀して上杉神社と称し県社に列し、同9年には新たに神殿成り初めて遷座祭を行なう。明治35年、往時の勤王の功により別格官幣社に列せられたが(鷹山公は新たに摂社として松岬神社を創立して正面濠の外に鎮座)先年の神社制度の改革によって社格を廃して現在に至る。大正8年米沢市の大火後同12年米沢出身建築界の泰斗伊東忠太博士の設計により現在の神殿を始め一切を竣成したのである。境内は旧米沢城址本丸跡で例祭は4月29日(歿年3月13日を太陽暦に換算)。【宝物殿の御案内】御祭神上杉謙信公の遺品を主として2代景勝公、直江兼続公、中興の名君鷹山公の遺品遺墨等がほとんどで、平安より江戸期に亘る絵画、書跡、刀剣、甲冑、武具、仏器、陶漆器、服飾類等多種多様で重要文化財、重要美術品、県文化財、を含む収蔵品は優秀な美術工芸品として或は貴重な史料として往時を語り伝え、燦然たる光輝を放っている。上杉神社再建に当りその宝物殿として創設されたもので神殿と調和を保つ日本風の外観をみせた重層建築である。名づけて稽照殿という。開館午前9時から午後4時まで。』
社殿前唐門横の池と滝。
こちらの碑は内容が難しくて読んでいません。
赤穂事件殉難追悼碑…『元禄15年(1702)12月15日黎明、浅野内匠頭家臣数十人、吉良の本所邸を取り囲み狼藉に及ぶ、夜陰と言い、急変不意に依って利を失い、義央公害し給う、上杉家附人吉良の御小姓討死、五代綱憲公病床に在り、異変を聞こし召し驚歎し給い、七手士隊中三組、御馬廻馬上、其外士卒を以って急ぎ本所へ馳着き、一人も洩らさず討取るべしと御下知あり、己に出勢に及ばんとする処に、高家畠山下総守櫻田邸に馳来り、老中下知の趣を演達抑留せらる、綱憲公孝道を捨て、公聴の下知を承け出勢の士卒を止められ、米沢藩十五万石の静謐を保つ、宝永元年6月2日綱憲公御逝去、同年8月8日義央公室(三姫)歿、宝永2年閏4月綱憲公正室歿、宝永3年1月20日左兵衛義周配所上諏訪高島城に歿す、赤穂浪士事件の為に上杉家の不幸後年に及ぶ、星霜茲に280余年乃ち其の殉難の士を悼惜、藩侯哀史の実正を表白追念し勒して後昆に傳う。』
九月十三夜陣中作…『霜滿軍営秋氣清數行過雁月三更越山併得能州景遮莫家郷憶遠征憶』
『この詩は、上杉謙信公が天正5年(1577年)能登の七尾城を攻略した際、折から9月13日夜の名月に当たって月見の宴を開き、その席上作られたものである。碑の書は、上杉家第16代上杉隆憲氏(号 静山)が揮毫されたものである。読み方…「霜は軍営に満ちて秋気清し数行の過雁月三更越山併せ得たり能州の景さもあらばあれ家郷遠征を憶う」通釈…「霜は真白く陣屋に満ちて、秋の気は身に沁みるばかり清々しい。空には幾列かの雁が鳴き渡り、真夜中の月は皎々と冴え渡っている。その月明かりのもとに越後・越中の山々と、更に今我が手に収めた能登の景色を見渡すことができる。ままよ、故郷の人々は我ら遠征の身を案じているだろうが今宵はそれを忘れて、心ゆくまで歓をつくそうではないか。」』
絵馬殿・神符殿。
絵馬殿はただの休憩所に見えますが…
屋根裏にちゃんと絵馬があります。
かなり見にくいですけど。
校倉風の祭器庫。
稽照殿前の池と噴水。
甘棠之碑(從三位秋月種樹書・明治29年)。裏面「松岬公園記」。甘棠会は城跡公園整備のための有志団体。
鯉供養之碑(昭和35年)。碑の建立以来、毎年米沢鯉供養祭を開催しています。米沢鯉は年間約260トン(約17500匹)が生産されており、甘露煮などに加工されて県内外に出荷されています。米沢のABC(舘山林檎(apple)・米沢牛(beef)・米沢鯉(carp))として名産品になっています。米沢鯉は亨和2年に上杉鷹山公が、内陸で水産資源に乏しい羽前米沢の領民の水腫病及び乳不足などの医療食として、福島県相馬から稚鯉を取り寄せ米沢城の濠で飼育したのが始まりで、鷹山公の教えにより庭に池を掘って鯉を飼い、やがて晴れの日の行事や来客の時は決まって鯉の甘煮が振る舞われるようになりました。清流と冬の厳しい寒さが鯉の身を引き締めるため泥臭さがほとんどありません。
稽照殿(宝物殿)。大正12年に宝物殿として創設。鉄筋コンクリートで建てられた重層切妻造り。
上杉謙信の遺品や直江兼続の「愛」の兜など、文化財約1000点を収蔵展示。個人的にはかなり見応えがありました。ただ、通路奥の蔵(建物)はなぜか薄暗くて、展示物がとても見えにくい感じがするのは私だけでしょうか。※少し離れていますが「宮坂考古館」もおすすめです。
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