暦仁元年(1238)長井時広の築城と伝えられ、松岬城と称しました。時広は源頼朝の重臣大江広元の次男で、奥州侵攻の軍功により文治5年(1189)に長井庄地頭となります。長井氏治世191年(8代)に及びます。康暦2年(1380)伊達氏8代宗遠が、長井氏8代広房を滅ぼして長井庄を領しました。15代晴宗が天文17年(1548)米沢城に移りました。17代伊達政宗がこの城で生まれます。政宗は天正19年(1591)豊臣秀吉により岩出山に移封。伊達氏治世212年。天正19年(1591)より慶長3年(1598)までは蒲生氏郷の一族郷安が城主となります。慶長3年からは上杉氏領となりますが、初めは上杉景勝公の重臣直江兼続が城主となり、慶長6年(1601)上杉景勝公が城主となり舞鶴城と称します。明治2年の版籍奉還までの272年間上杉氏が城主でした(2代景勝公-14代茂憲公)。明治6年に城が取り壊され、明治7年に公園として市民に開放。昭和27年より市都市計画として公園に整備、昭和32年10月都市公園の設置を受けました。四方が濠(幅20~36m・延長約800m)に囲まれ、桜(200本)に包まれた桜の名所として有名です。中央には上杉神社、濠外東方に松岬神社、同南方に上杉記念館(旧上杉伯爵邸)・市立児童会館などがあります。また、上杉謙信公像・上杉鷹山公像をはじめ、上杉神社稽照殿(宝物殿)・春日神社・福徳稲荷神社・招魂碑・上杉謙信公祠堂跡・曦山公碑・伊達政宗生誕の地標柱等があります。
松が岬第二公園から。まずは慰霊の碑(平成7年9月米沢市遺族連合会。米沢市遺族共励会婦人部・青壮年部)…『ふるさとの父母想ひ妻や子のやすらかなれと祈りつつ平和を願ひ散りし魂』。戦後50年を迎えて、太平洋戦争を顧みながら、世界の恒久平和と御霊の永遠の安寧を願い、戦争を2度と起こさない証として建立されたもの。
米沢牛の恩人チャールズ・ヘンリー・ダラス(1842生-1894没)碑。
『チャールズ・ヘンリー・ダラスは、天保13年(1842)英国ロンドンに生まれる。万延元年(1860)貿易商として中国に渡り、文久3年(1863)来日す。明治3年(1870)5月、東京大学の前身である大学南校に語学教師として奉職、明治4年(1871)10月には、旧藩校興譲館洋学舎に洋学教師として招聘される。明治8年(1875)3月、興譲館の任期が満了し、横浜の外国人居留地に帰る折り、米沢での滞在中に食した米沢産の牛肉が非常に美味だったことから、居留地の仲間に「米沢のおみやげ」として、生きた牛を連れて帰り御馳走した所、その美味しさが評判となる。これが米沢産の牛肉が世に出た最初の出来事となった。またダラスお抱えのコックである萬吉には、米沢で最初の牛肉店「牛萬」を開店させた。間もなくダラスの伝手により、添川村(現在の飯豊町添川)の生産者は、横浜の牛肉問屋と契約を取付、米沢産の牛を販売するに至った。そこから「米沢牛」の歴史が始まった。このダラスこそが、米沢の牛肉を文明開化の横浜に紹介してくれた「米沢牛の恩人」なのである。』
行在所遺趾碑(上部に伯爵上杉憲章筆の「明治天皇の」篆刻)。ここにあった南置賜郡役所に東北巡幸中(明治14年)の明治天皇が宿泊しました。南置賜郡役所(明治14年9月竣工)は木造2階建てのモダンな洋風建築物でしたが大正8年に焼失しています。
秦逸三先生の像。
『秦逸三は1880年(明治13)、現在の広島県安芸郡海田町に生まれました。東京帝國大学工科大学応用化学科を卒業し、1912年(大正元)に創立間もない米沢高等工業学校(現山形大学工学部)の講師(後に教授)となり、苦心の末、我が国で初めて化学繊維(レーヨン、当時の用語で人造絹絲)を作りだしました。そして、1918年(大正7)、米沢で帝國人造絹絲株式会社(帝人)が産声をあげました。この銅像は帝人株式会社三原事業所(広島県三原市)に長く設置されていましたが、帝人の前身である東工業株式会社米沢人造絹絲製造所が設立されてちょうど100年目の2015年(平成27)に、帝人のご厚意により米沢市へ寄贈されました。台座の「秦逸三之像」の文字は逸三の曽孫にあたる秦頼太氏の揮毫によるものです。米沢市』
上杉鷹山公。
上杉鷹山公…『上杉家10代上杉鷹山公は、困窮、崩壊寸前の藩を復興させた江戸時代随一の名君として知られる。14歳の時から、折衷学派の儒者細井平洲に師事し17歳で藩主となるや、大倹令・産業開発・藩校興譲館の創立・綱紀の粛正などを断行する。凶作に備え、城下や村々の蔵にもみを備蓄し、天明の飢饉には領民に配り一人の餓死者も出さなかったと伝えられる。11代治広公に家督を譲るとき民主主義の原点を示した「伝国の辞」を与えた。米国第35代大統領ジョン・F・ケネディは政治家で最も尊敬する人は、上杉鷹山公であると述懐したことはあまりにも有名である。鷹山公が家臣に示した和歌…「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」は、万事についての可能性を示す遺訓である。平成6年(1994年)5月吉日米沢松岬ライオンズクラブ』
『父(ジョン・F・ケネディ元大統領)が敬愛していた上杉鷹山は、領民に対して力を尽くし、教育に献身し、そして、一人一人に世の中を良くする力があるという信念を貫いたリーダーです。その姿は何世代にもわたる人々に影響を与えてきました。皆さんが鷹山から受け継いだ遺産を讃え、そして次の世代にその教えを伝えていらっしゃることは素晴らしいことです。父は、「人は一人でも世の中を変えることができる、皆やってみるべきだ」とよく言っておりました。しかし、鷹山ほど端的にそれを言い表した人はいません。「なせばなる」と…。平成26年9月27日キャロライン・ブービエ・ケネディ駐日米国大使』
草木塔(峰月書)。
草木塔…『草木塔は、江戸時代中期の安永9年(1780)に現在の米沢市田沢地区に建てられたものが最古とされ、「草木供養塔」「一佛成道観見法界草木国土悉皆成佛」「草木塔」などと刻まれた石碑の総称です。全国で34基確認されている江戸期の草木塔のうち、32基が山形県南部の置賜地方に分布し、米沢市には17基が建てられています。中でも10基が集中している田沢地区は、「草木塔の里」と呼ばれています。山林伐採や木流し(川を利用した木材・薪の流送)などに関わった山里の人々が、草や木にも魂があることを感じ取り、自然への畏敬や感謝、供養の気持ちを込めて草木塔を建立したと考えられています。近年、「自然との共生」という観点で改めて注目されるようになり、草木塔の精神に共感する人々によって、全国各地や海外にも新たな草木塔が建立されています。なお、米沢市にある江戸期の草木塔は、全て市指定有形民俗文化財となっています。建立平成25年8月吉日米沢市』
舞鶴橋(明治19年)。
米沢城址の濠に架かる石橋で上杉神社への参道です。凝灰岩の欄干を設け、親柱に自然石の奇岩を配するのが特徴。単アーチ橋ですが「めがね橋」の愛称で米沢市民に親しまれています。
舞鶴橋からの眺め。
舞鶴橋…『米沢城本丸跡の堀に架かるアーチ式の石橋で、上杉神社の参道として明治19年(1886)に完成した。江戸時代は米沢城の正面にあたり、木製の太鼓橋が架けられていた。舞鶴橋の名称は米沢城の別称「舞鶴城」に由来する。平成10年に国の登録有形文化財に指定された。』
舞鶴橋を渡って左手に御堂跡。
史蹟上杉謙信公祠堂跡へ。
上杉謙信祠堂(御堂)跡。
上杉謙信祠堂(御堂)跡…『江戸時代、上杉謙信の遺骸を安置した御堂(祠堂)が建っていた場所である。謙信は天正6年(1578)3月13日、越後春日山城で逝去、享年49であった。その遺骸は甲冑を着せ甕に納め、漆で密閉したと言われている。その後、謙信の跡を継いだ上杉景勝が会津120万石、米沢30万石に移封されるに伴い、謙信の遺骸も移され、米沢城南東隅のこの地に御堂を建て安置した。謙信遺骸の左右には善光寺如来と泥足毘沙門像が置かれ、その後は歴代藩主の位牌も祀り、最も神聖な場所として厳重かつ鄭重に祀られた。明治4年の廃藩に際し、仏式を改め神式とし、謙信は上杉神社の祭神として祭られる。謙信の遺骸は、同9年に歴代藩主が眠る御廟所(上杉家墓所)に移された。米沢市』
皇太子嘉仁親王殿下御大婚紀念之松碑。
招魂碑。
招魂碑…『この招魂碑は、慶応4年(1868)に始まった戊辰戦争で、主に新潟方面で西軍と激戦の末に戦死した米沢藩士280余名と、明治10年(1877)におこった西南戦争の戦死者52名を慰霊するために、明治11年4月に建てられました。その後、日清・日露戦争で戦死した将兵の霊も合祀されています。この場所は、米沢城本丸の東南隅にあたり、藩祖上杉謙信公の遺骸を安置した御堂があったところです。毎年2月に開催される雪燈篭まつりの鎮魂祭は、この地で執り行われます。碑は、凝灰岩で高さ約3.4m、総高約5.8m。碑名は、戊辰戦争に従軍して参謀を努めた斎藤篤信(後の山形県師範学校初代校長)が、稲穂の芯を束ねた特製の大筆で書いたものです。米沢市・米沢観光協会』
米沢城…『伊達氏・上杉氏の居城で、松岬城・舞鶴城とも呼ばれる。米沢城の起源は、鎌倉時代に地頭・長井時広が居館を置いたと伝えられる。その後、長井氏に替わり伊達氏が置賜地方を領し、天文17年(1548)には伊達晴宗が本拠を米沢に移し、輝宗・政宗の三代で米沢城下が整備された。天文19年(1591)、政宗は豊臣秀吉の命で岩出山城に移り、米沢城には蒲生氏郷の家臣・蒲生郷安が入るが、慶長3年(1598)に上杉景勝が会津120万石に入封、米沢城には重臣・直江兼続が配された。慶長6年(1601)、前年の関ヶ原の戦いで西軍方についた上杉景勝が米沢30万石に減封され米沢城に入城、城下の拡張整備に着手した。以後、寛文4年(1664)に後継問題で米沢藩は15万石となるが、米沢城は約270年間にわたり上杉氏13代の居城として明治維新を迎えた。城郭は平城で、本丸・二の丸・三の丸からなる輪郭式の縄張りで、三の丸の東側には町人町・職人町が置かれた。本丸の中央は藩主の住む御殿があり、南東隅の高台には上杉謙信の遺骸を祀る御堂が建ち、北東と北西の隅には三層の隅櫓があった。明治になって御殿や隅櫓は取り壊され、本丸跡は松が岬公園と上杉謙信を祭る上杉神社になる。堀と土塁が往時を偲ばせ、堀の周囲には桜の木が並び桜の名所ともなっている。』
伊達政宗(1567-1636)…『仙台藩62万石の基礎を築いた戦国武将。永禄10年に米沢城で生まれ、18歳で家督。幼名は梵天丸で、「独眼竜」とも称された。会津の芦名氏等を破り領地を広げるが、政宗25歳の天正19年に豊臣秀吉によって岩出山城に移される。その後、本拠を仙台城に移し仙台藩の基礎を築く。寛永13年に江戸で死去、享年70であった。』(案内板「米沢城ゆかりの戦国武将」より)。
直江兼続(1560-1619)…『上杉景勝を支えた知将。樋口惣右衛門の長男として坂戸城下に生まれ、景勝の近習に選ばれる。その後、重臣・直江家を継いで上杉家の中枢として景勝を支えた。米沢30万石へ移封後は、町割りや堤防・水路の整備、鉄砲鍛冶の招聘、学問所「禅林文庫」の開設など、城下町米沢の基盤を築く。元和5年に江戸で死去、享年60であった。林泉寺に兼続夫妻の墓がある。』(案内板「米沢城ゆかりの戦国武将」より)。
上杉景勝(1555-1623)…『米沢藩の初代藩主。坂戸城(新潟県南魚沼市)に生まれ、叔父上杉謙信の養子となる。謙信死後の家督争いに勝利し越後を統一。豊臣秀吉の命で会津120万石に移り五大老となるが、秀吉死後に徳川家康と対立、関ヶ原の戦いの後に米沢30万石へ移封となる。以後、重臣直江兼続に命じ、米沢城下の整備や政治体制の確立など米沢藩の基礎を築く。元和9年に米沢城で死去、享年69であった。』(案内板「米沢城ゆかりの戦国武将」より)。
案内板より。
上杉謙信が眠る米沢…『上杉謙信は天正6年(1578)、越後の春日山城(新潟県上越市)で49年の生涯を閉じます。その遺骸は漆で密閉された甕に入れられ、上杉家と共に越後から会津、米沢へと移されました。この案内板背後の高台は、米沢城本丸の東南隅にあたり、ここに謙信遺骸を祀る御堂(祠堂)が建てられました。本丸内に遺骸を安置するのは大変珍しいことです。御堂は城内で最も神聖な場所とされ、江戸時代が終わるまで藩士から崇拝されました。現在は歴代藩主が眠る米沢藩主上杉家廟所中央に遺骸が残されています。』
米沢城と舘山城…『米沢城跡(松が岬公園)から約3キロ西側の舘山地区に、山城と平城からなる舘山城跡があります。伊達家の正史「伊達治家記録」には、地元の有力者新田氏の居城であったり、伊達輝宗の隠居所、伊達政宗が地割した記載があります。また、平成25年の発掘調査で山城から石垣が発見されました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い以降の石積技術であることから、上杉景勝が築いた石垣とみられます。舘山城は、米沢城の西側の拠点として、伊達家や上杉家が整備した重要な城と考えられます。米沢市はこのような歴史遺産が多く残るまちです。』
よく似た「竹に雀」…『上杉家と伊達家の紋はどちらも「竹に雀」。二羽の雀とともに上杉家は輪竹、伊達家はたくさんの葉が広がる根竹が描かれます。そもそも「竹に雀」を最初に用いたのは藤原氏の一族・勧修寺家ですが上杉家の祖が勧修寺重房であることから、「竹に雀」の紋を使用しました。一方、伊達家は稙宗(政宗の曽祖父)の三男・時宗丸が越後上杉家(謙信が継いだ山内上杉家とは別)の養子に決まり、越後上杉家から「竹に雀」の幕紋(陣幕に描かれる紋)が贈られたことに始まります。養子の幕紋は華やかにアレンジされ伊達家の紋として用いられるようになったのです。』
上杉氏略系図。
伊達政宗公生誕の地碑。揮毫鈴木不倒。平成24年1月建立。
天地人「上杉景勝公と直江兼続公主従像」。
『慶長6年(1601)年、上杉家は関ヶ原戦の責めを負って、会津120万石から米沢30万石に移封された。初代藩主は上杉景勝公、その執政が「愛」の前立ての兜で知られる直江兼続公である。二人の主従は固い絆で結ばれ、義と愛の心で領国経営にあたり、米沢藩270年にわたる治政の礎を築いた。米沢市民は今なお両公に対し深い敬慕の念を抱いている。平成21年(2009)年、火坂雅志原作の「天地人」がNHK大河ドラマで放送されるや、景勝公と兼続公の精神と事績が一躍全国に知られるところとなった。これを機に、米沢藩を創始した二人の主従の事績を改めて顕彰し、義と愛の精神を人々の心に永くとどめるため、有志相集い、志を募り、「天地人」と命名して「上杉景勝公と直江兼続公主従像」を建立することにした。この像は、当時の国内情勢混沌たる中、不屈の意志をもって未来へ向かおうと、米沢入部の途次、新しいまちづくりについて二人の主従が語り合う姿を表現している。この像に託された両公の胸中に思いを馳せていただければ幸いである。平成23年4月吉日』
野口雨情の詩碑…『あづま山から兎がはねてぴょんとここまでこえばよい』昭和61年建立。
上杉謙信公之像(16代上杉隆憲書)。
上杉謙信公…『戦国末期、群雄割拠の中にあって「越後の虎」と怖れられた文武兼備の名将である。大儒者藤原惺窩は、戦国の世に学問を好んだ武将5人の筆頭に謙信の名をあげている。謙信は享禄3年(1530)1月21日、越後守護代長尾為景の次男(一説に三男)として越後春日山城に生まれた。幼名は虎千代、元服して平三景虎と称した。7歳のとき春日山林泉寺に預けられ、名僧天室の教えを受ける。謙信の生涯を貫く深い信仰心はこのとき培われたものであろう。天文12年、14歳の景虎は兄晴景の命によって林泉寺を離れ、越後平定に助力する。晴景に代わって長尾家を継ぎ、春日山城主となったのは19歳の冬であった。以来戦いにあけくれる日々を送る。攻めれば必ずこれに勝ったが、侵略のために兵を動かすことは絶えてなく、すべてが義のための戦いであった。戦国期最大の激戦と称される永禄4年(1561)の川中島合戦は、武田信玄との一騎打ちで広く知られるが、これも信玄に侵略された信濃諸国を助けるための義戦であり、謙信が戦術家としての天賦の才を遺憾なく発揮した一戦であった。この年、関東菅領上杉憲政の養子に迎えられ、上杉政虎と改名して管領職を引継ぎ、同年冬、将軍足利義輝の一字を賜って輝虎と改める。謙信と称するのは41歳の元亀元年からである。謙信は毘沙門天を深く信仰し、軍旗に「毘」の一字を用いた。出陣に際しては神仏の加護を願い、天に代わって世の邪悪を払う「武締式」を執り行った。生涯女性を近づけなかったのも信仰上の信念によるものであろう。謙信は詩歌・連歌の道にも堪能で、書は近衛流の名手と称された。天正5年七尾城外で詠んだ「九月十三夜」はいまも人々に親しまれている。天正6年(1578)3月9日、関東平定の出陣を前にして病で倒れ、同13日突然として逝った。享年49。遺体は甲胄を着て甕に納められ、上杉家廟所の中央に眠る。米沢ライオンズクラブ30周年記念・平成6年10月2日』
九月十三夜陣中作…『霜満軍営秋気清 数行過雁月三更 越山併得能州景 遮莫家郷憶遠征』(しもはぐんえいにみちてしゅうききよし すうこうのかがんつきさんこう えつざんあわせえたりのうしゅうのけい さもあらばあれかきょうのえんせいをおもうを)。天正5年(1577)9月13夜能州(能登)七尾。
旧米澤藩上杉舞鶴城趾礎石碑。
米沢城本丸北東隅櫓跡。
石段で上って行きます。
見えてきたのは従三位上杉曦山公之碑。
石灯篭一対。
従三位上杉曦山公之碑(題字は陸軍大将有栖川宮熾仁親王の書。石碑裏の文は伯爵勝安房(号海舟)の撰による。)…『曦山公とは上杉家13代斉憲の号、文政3年(1820)5月10日生、天保10年(1839)4月家督、戊辰戦の責により明治元年(1868)12月隠居、明治22年(1889)5月20日東京にて薨去享年70才。その間ペリー来航尊皇攘夷、奥羽越列藩同盟、明治維新、版籍奉還と波乱万丈の時代を逞しく生きられ、明治以降の諸功績により従三位に任ぜられる。明治24年(1891)公を慕う旧藩士によりこの碑が建立された。9月25日毎年碑前祭を挙行する。贈神社有志』
明治に入り隅櫓は取り壊されています。
建国記念の日(2月11日)碑。割れた「いただき橋」(大手門前広場前の御入水川に架かっていた石橋)の石材で作られています。
上杉鷹山公の誓い碑…『受次て國の司の身となれば忘るまじきは民の父母』
上杉鷹山公の誓い…『「受つぎて國のつかさの身となれば忘るまじきは民の父母」明和4年(1767)4月17才にして藩主となった日に詠んだといわれる。その師細井平洲先生に学んだ君徳の教えのままに領内士民の親となるべき覚悟を凝縮した誓いの歌である。寄贈国際ロータリー2800地区ガバナー大友恒則。平成19年10月当地区大会の記念事業として建立。九里茂三書』
『なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり』上杉鷹山公詠。
上杉鷹山公之像(16代上杉隆憲書)。
上杉鷹山公…『(上杉家10代)窮乏の淵にあった米沢藩を、卓抜な発想と大胆な政策によって再建した江戸時代随一の名君として知られる。宝暦元年(1751)7月20日高鍋藩主秋月種美(3万石)の二男として誕生。幼名松三郎または直松。母は秋月藩黒田長貞の娘春姫。春姫の母は(上杉家5代)上杉綱憲の娘である。宝暦10年、上杉重定(上杉家9代)の養子に迎えられ、明和3年治憲と改名。翌4年17歳で米沢15万石の藩主となる。幼少から折衷派の儒者細井平洲に師事し、実学一致の経世論を身につけた。藩主となるや大倹令・産業開発・藩校興譲館の創立・政務の革新等を断行し、隠居後も政務に参与して再建に努めた。米沢織・米沢鯉・深山和紙など鷹山の興した産業は現在に伝承されている。天明5年(1785)養子治広に家督を譲って隠居し、鷹山と号した。民主政治の原点を示した「伝国の辞」は、このとき新藩主治広に与えたものである。文政5年(1822)3月12日没。春秋72。上杉家廟所に眠る。【追文】アメリカ合衆国第35代大統領J.F.ケネディが、日本人記者団の質問に「日本の政治家で最も尊敬しているのは上杉鷹山である」と答えたとは夙に有名である。さらに最近では、わが国の行政改革の先駆者としての公の名は高まるばかりである。わが郷土米沢が世界に誇る偉人をさらに永く、広く世人に知らしめるため、ここに「上杉鷹山公像」を建立したものである。平成4年5月米沢中央ライオンズクラブ・姉妹クラブ上越中央ライオンズクラブ』
直江兼続公。
菱門橋(南参道・春日神社方面)。
菱門橋…『米沢城本丸跡の南側堀に架かる太鼓橋で、鮮やかな朱塗りの橋は写真の好スポットとなっている。橋名は、江戸時代は本丸内の藩主が住んだ「御殿」からの南出入口にあたり、その通行は厳重に取り締まったことから「秘し門」と称されたことに由来する。』
西参道。
西参道土塁。
こちらは「碩学…」と書かれていますが篆書体も苦手な上、碑文も読み取れなかったのであきらめました。
北参道と石灯篭一対。
北参道橋からの眺め。
本丸北東御三階櫓台が見えます。
浅間厚斎之碑(明治17年10月建立。從四位上杉齋憲篆額・小田切盛徳撰文・吉田晩稼書)。
米沢藩に西洋砲術と大砲を導入した人物のようです。
米沢城下絵図。
関連記事
コメント