米沢城二の丸跡です。入口には大型の一間薬医門。左右に袖塀が付きます。反りのある伸びやかな流れの屋根は均整のとれ、各部の造りは正統的で近代和風建築としての技術水準の高さを示す好例となっています。
上杉伯爵邸は、明治29年、元米沢城二の丸跡に上杉家14代茂憲伯爵邸として建てられました。当時は敷地約5000坪、建坪530坪という壮大な大邸宅でした。大正8年4月に茂憲伯爵が逝去(76歳)。同年5月19日の米沢大火で類焼し焼失。大正14年に銅板葦き、総ヒノキの入母屋造りの建物と、東京浜離宮に依って造園された庭園が完成。設計者は中條精一郎、施工は名棟梁江部栄蔵による作品。昭和20年には米軍将校の宿舎として使用されます。昭和25年に接収が解除され、米沢市が上杉家より譲り受けました。翌年には中央公民館として市民に利用されます。昭和54年に上杉記念館と称し、市内観光の中核施設として観光客や市民に開放。主に郷土料理の提供、資料展示などされています。米沢の郷土料理の原点とも言われる鷹山公の「かてもの」を味わうことができる米沢唯一の館として現在に至っています。米沢鯉の甘煮をつまみに殿様の酒を飲み、〆はしゃぶしゃぶにしておきます。
浜離宮に倣って造られた庭園。
上杉鷹山公像。
碑文…『米澤中興の藩士上杉鷹山公は不世出の名君也士民を撫し殖産を奨め民力を養ひ文教を興し大儉を布き興業に努め就中機業を創めて織都の基を開く等その偉績炳として千載に輝き万民咸之を鑚仰す爰に於いて當市出身在京美術鑄金界の元老山田秀美氏は深く公を敬慕し愛郷の念凝って畢生の胸像作品を郷土に寄せんとし同じく當地出身彫刻家日展無鑑査三坂耿一郎氏に託するに原型の制作を以てし予にその安置建立を謀れり予は村山天童の出刻苦四十八年縁ありて當地に來住し常に江湖の愛顧を蒙る旦予が心血を傾け經營し來れる米澤新聞も亦幸ひ取締役會長加藤富之助氏外大方の支援を享け社運順調紙齢正に三千號を超ゆ乃ち衆恩感謝の微衷止み難き折柄山田氏の依嘱を快諾し淨地を此處に相し独力以て茲にその工を竣る正面の題字は米澤市長高橋廣吉氏の揮毫也希くは曳拔の人士公の尊容を拜し改めてその聖業を偲び後進の子弟亦更に感銘を厚くする所あらば予等の本懐之に過ぎざるものあらむ。昭和30年4月祥日。株式會社米澤新聞社々長辻武藏建立・編集局長石倉惣吉撰之』
上杉鷹山公像の横に我妻榮(文化勲章受章・米沢市名誉市民・民法学者)お手植えの白ウメモドキ。『昭和45年(1970年)、上杉鷹山公入部200年を記念して、米沢郵便局では「頌徳定額貯金」を発売した。それを記念して同年10月17日(貯蓄の日)に我妻先生夫妻に植樹を願ったもの。我妻榮記念館』
鷹山ゆかりの桑樹。
『第九代米沢藩主・上杉治憲(鷹山)は、藩政改革の一環として養蚕を奨励し、自らの台所仕切料(身の回りで使う金)を節約して桑の苗木を買い、領内の希望者に無償で配ったと伝えられています。その桑の木のうちの2本が、長井市五十川と白鷹町山口に現存しており、両樹とも高さ10メートル以上に成長して、勇壮な姿を呈しています。この桑樹は、平成17年に白鷹町山口にある鷹山ゆかりの桑樹から穂木を取り、接ぎ木して育てた桑の木です。平成24年5月米沢市・米沢繊維協同組合連合会、一般社団法人山形県蚕糸業会。シルクシンポジウムin米沢2012を記念して植樹』
ウコギの垣根…『ウコギの垣根は、米沢藩中興の祖、上杉鷹山公が奨励したことにより、普及したといわれています。米沢の多くの家々では、古くから垣根として用いられており、現在でも米沢のまちなみを語る上では欠かせない景観のひとつになっています。ウコギは、食用にも適しており、ビタミンなどが豊富に含まれています。春先に新芽を摘み、きりあえ、てんぷらなどにして食べます。昔から米沢に伝わるウコギを親しみ持って大事に育てましょう。米沢市』
庭園散策。
五重塔。
登坂又藏翁像。米沢市長(12-16代)。
加藤富之助像。昭和8年市会議員、同14年県会議員当選。昭和22年から6期、24年にわたり県議会議長。全国治山治水協議会、県観光協会など数多くの要職につき、山形県南部の政治、経済の発展に大きな影響力を与えた人物。
戊辰戦役・米藩総督色部長門追念碑(昭和38年市制70周年記念事業)。色部久長。江戸時代後期から末期にかけての米沢藩の家老で、受領名が長門守であったことから色部長門の名で知られています。戊辰戦争において奥羽越列藩同盟に列した米沢藩より、旧幕府の直轄領であった越後府で港のある新潟町を警備する為に総督に命じられます。新政府軍による海上などからの猛攻を受け、新潟の町は焼け野原になり、色部は新潟の町の戦争被害拡大を懸念して兵の撤退を決定。米沢藩兵が敗走する中、色部は敗戦の責任を取るべく、僅か数名の兵を引き連れ新政府軍の本拠地であった関屋へ斬り込み奮闘するも敵の攻撃に被弾し、敵に首級を取られまいと新潟市の中央区関屋下川原新田(現在の新潟県立新潟高等学校周辺)にあった茄子畑にて自刃し部下に介錯させました(享年44)。奥羽諸藩では戦犯者が処刑されるなか、米沢藩では色部に責任を転嫁したことによって被処刑者はありませんでした。色部の的確な判断により新潟の戦火の拡大が抑えられ、今ここに新潟の地があるのは色部長門のおかげであることを称え、色部の絶命した地には昭和7年に色部長門君追念碑が建立されます。後に米沢市でも戦犯として米沢藩の責任一身に背負って汚名を被ったことで米沢藩を守った功績を称えて、昭和38年に色部長門追念碑が建立されました。
色部長門追念碑…『慶応4年戊辰(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いが戊辰戦争の口火を切る。新政府軍による会津攻略が始まり、盟友会津救援のため米沢など東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結び決起する。同年5月米沢藩は色部長門を総督として越後へ出兵。同年7月色部らは新潟港防備の任にあったが、陸海両面から進撃する新政府軍らの攻撃に合い、勇戦奮闘するも圧倒的に優勢な新政府軍の前に、色部は7月29日新潟関屋で壮烈な最期を遂げる。この戦争で、色部は新政府に敵対した米沢藩の首謀者として責任を負わされて戦後処理され、藩の危機を救った。昭和34年、当市市制70周年記念事業の一環として色部の武勇をたたえ、その大恩に報いるため色部長門顕彰会が追念碑建立を提唱、同年8月建立をみたものである。その後会の合併により米沢御堀端史跡保存会が管理を継承してる。平成13年10月吉日米沢御堀端史蹟保存会』
二の丸の濠に浮かぶ小島が見えました。
行ってみます。
弁天堂でした。米沢市児童会館の裏付近です。
地図には「巳なる金弁財天」とあります。宇賀弁財天(弁才天と宇賀神(出自不明の蛇神)の習合)ですね。例えば上野公園(東京都)の不忍池辯天堂では巳成金大祭が行われますが、巳成金は辯才天の化身で身体が巳の宇賀神にちなみ、暦の十二支「巳」、中段(十二直)「成」、二十八宿「金」が合う日を、一年で一番金運に縁がある日とし、この日に金・銀・銭を紙に包んでおけば富むという故事に由来しています。
三の丸方面から見た弁天橋。
米沢市児童会館前へ。浜田廣介童話碑『強くやさしく男の子やさしく強く女の子』がありました。
浜田廣介童話碑…『「ひろすけ童話」で子どもたちからひろく親しまれている浜田廣介は山形県高畠町一本柳に生れた。日本のアンデルセンともよばれ「むく鳥のゆめ」「泣いた赤おに」「りゅうの目のなみだ」など数々の名作を残している。昭和62年5月24日建立よねざわ廣介会』
米沢市児童会館前濠沿い。右手は上杉伯爵邸の塀。
冠木門。
米沢市座の文化伝承館。
座って行う日本文化の心を育む長い歴史の中で培われてきた「座の文化」を伝承発展させていくために、水と緑の城址整備事業の一環として上杉16代当主隆憲氏の旧邸を譲り受け、和風文化の活動にふさわしいものに内部を改造し、更に本格的な数寄屋造りの茶室も新築した施設。茶室「静山庵」は上杉隆憲氏の雅号をいただいて名付けたもの。平成19年には敷地内の蔵が改装され、ギャラリーとしても使用されています。
上杉記念館(上杉伯爵邸)…『上杉記念館は、上杉家14代当主茂憲伯爵邸として、明治29年に建築。米沢城二の丸跡にあり、鶴鳴館と称されました。大正8年の大火で類焼し、大正14年5月に再建されました。庭園は東京浜離宮に倣って築園されており、庭園を見ながら、米沢伝統の郷土料理が味わえます。平成9年に国の登録有形文化財になりました。』
上杉記念館(上杉伯爵邸)…『上杉茂憲伯爵の邸宅として明治29年(1896)に建築、鶴鳴館と称された。大正8年の大火で類焼し大正14年に再建。設計は米沢出身の建築家・中條精一郎で、庭園は東京浜離宮に倣って築園された。平成9年に国の登録有形文化財に指定。現在、上杉記念館として、庭園を見ながら、米沢伝統の郷土料理が味わえる。』
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