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東京都中央区日本橋堀留町1丁目。日本橋七福神の恵比寿神。
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江戸名所図会にも挿画とあわせて紹介されている古社(古地図では「杉ノ森イナリ」)。
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鎮座地は新材木町で、材木商が多く居住していた場所で、『大岡政談』で有名な毒婦「白子屋お熊」の材木問屋もここにありました。
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平将門を討伐した藤原秀郷が、後に霊夢をみて、杉の高く繁る森に社を草創し白銀の狐像を奉納(戦勝祈願して平将門の乱を平定し伏見稲荷の神を勧請したとも)。また、文正元年(1466)太田道灌が東国の旱魃に悩み、当社に祈ったところ降雨が続いたとも伝えます(wikipediaによりますと雨乞いに霊験があったとして山城国稲荷山五社大神を勧請)。
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HPによりますと…『本社は遠く、一千年の昔、武蔵野の原たりし時代の、創建にして、天慶三年(940)田原藤太秀郷(後に藤原秀郷)平将門を追討せんと、常に信心厚き心から当社に詣で、戦勝を祈願し、下総の国(千葉の一部)に至り強敵を亡ぼす。これ偏に神助に依ることと、願望成就の報賽として、常に尊心せる、白銀の狐像を奉納す。(現存す)文正元年(1466)の頃、関東一帯、連年旱魃ありて、農民疲弊の時、太田道灌、当社に詣で民の憂いを訴え、ひたすら、雨を乞い祈らば、その霊験あり、大いに喜びて、尊敬のあまり、山城国稲荷山五社大神を、うつして祭祀す。以来、毎年4月中の卯の日(現在5月16日)を祭日と定め、御社大いに栄え、西の方、芝原宿という、鎧の渡しより陸奥に行く駅路ともなりぬ。江戸時代には、江戸三森(椙森、柳森、烏森)の一つに数えられ、諸大名の中に崇敬者も多く、松平伊豆の守信綱は、桜樹千株を移植し、松平播磨の守頼隆は、石の鳥居を建立せらる。又、商業の地として栄えた土地がら、晴天十日間の花相撲、更には、富興行等も、数多く行われ、三富の一つにも数えられる程であった。特に神道家の吉川惟足は信仰厚く、寛文年間(300有余年前)五社稲荷の一社なる大巳貴大神の御宣託に依り、恵比寿大神を奉斎せられ、今日に至るも年々盛大に、祭典を執行せり。たとえ、物換星移時世に盛衰あるとも、神徳天地と共に限りなし。江戸名所図会等にも掲載されている神社です。』とあります。
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御祭神は稲荷三神(倉稲魂命・猿田彦命・大宮女命)と蛭子神と姫大神を合祀し、五社稲荷大神としてしているとの文献がありましたが、境内案内板によりますと、主祭神は五社稲荷大神(倉稲魂大神・素戔嗚大神・大市姫大神・大己貴大神・四大神)を祀り、相殿として恵比寿大神を祀っているようです。
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江戸時代は三森の一社(柳森・烏森・椙森)と称されて庶民の広く信仰するところでした。諸大名の崇敬者も多く、また、神道家吉川惟足の信心厚く、寛文元年に伍社稲荷の一社なる大己貴大神の御託宣により恵比寿大神を祀ります。しばしばおこる火災(明暦の大火以後関東大震災まで20数回)からの復興のため、富籤の興行が行われており、大変人気があったとのことで、それを記念した富塚が境内手水舎の横にあります(昭和28年再建)。恐らく日本で唯一であろう珍しい塚です。宝くじの元祖ともいえる富籤は、しばしば火災で焼失した寺社が、その再建費用を捻出するために興行しました。中でも人気があったのが湯島天神・谷中感応寺・目黒不動の富籤で、「江戸三富」と呼ばれていました。神社には天保7年2月21日、幸手不動院(埼玉県)の修造費用のために興行したときの富札(組印:珠・番号:七千弐百三拾八・縦15.8cm、横4.4cm)が残されているそうです(中央区民有形民俗文化財)。
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社殿は関東大震災で全焼しており、大正12年に仮社殿・社務所を建て、昭和6年9月には社殿・神楽殿・神輿庫・社務所・水舎・玉垣・鳥居等本建築の鉄骨鉄筋コンクリート造にて整備。
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手水舎。
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天水桶一対(昭和56年5月吉日・椙森神社創建1050年奉納)。逆算すると椙森神社は承平元年(931)創建。
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石灯篭一基。
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狛犬一対(昭和8年1月)。
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神楽殿。
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富塚の碑。
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『当椙森神社は、遠く一千年の昔、未だ江戸が武蔵野の原と言はれた時代の創建です。江戸時代には、江戸三森の一つであり、又、江戸商人の発祥の地としても栄えて来ましたが、神社が街の中心にあるため、江戸三富の一つにも数えられる程数多くの富籤が興行された事が記録に、残されています。この富興行は、江戸庶民の楽しみの一つであり、庶民の泣き笑いが今に思い浮べることができます。この富塚は庶民の心の記念として大正9年に建立されましたが、関東大震災に依って、倒壊してしまいました。その後、富塚の話を知った氏子の人々は有志を募って、昭和28年11月に再建されたのがこの富塚です。この富塚は、他に類を見ないと言はれ、日本で唯一の物です。今日では、宝くじの元祖として多くの人々が、心中祈願をしている様です。』
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椙森(すぎのもり)神社…『所在地:中央区日本橋堀留町1-10-2。椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれています。室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために山城国(京都府)伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰した神社でした。そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森、柳森、椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めました。しばしば江戸城下等の火災で寺社が焼失し、その再建の費用のために、有力寺社で当たりくじである富興行が行われ、当社の富も人々に親しまれていました。明治維新以後も、東京市中の古社として盛んに信仰されましたが、惜しくも関東大震災で全焼し、現在の社殿は昭和6年に耐震構造の鉄筋造りで再建されました。境内には富塚の碑が鳥居の脇に立ち、当社で行われた富興行をしのんで大正8年に建てられたもの(昭和28年再建)で、富札も残されており、社殿と共に中央区民文化財に登録されています。平成8年3月中央区教育委員会』
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