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宮城県仙台市青葉区東照宮1丁目。天台宗眺海山康国寺仙岳院。
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門前の石碑…『輪王寺宮公現親王 北白川宮・能久親王御座所 東叡山輪王寺門跡徳玄謹書』
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山門と本堂が直線で結ばれていないのは、昭和4年の仙山線開通の際に山門を現在地へ移築したためです。
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創建は江戸時代初期の承応3年(1654)。仙台藩第2代藩主伊達忠宗(夫人は家康の孫娘で秀忠の養女振姫(池田輝政の娘))が江戸幕府(徳川家光)に願って日光東照宮の分霊を勧請し玉田崎に仙台東照宮を建立した際、別当寺院として江戸の最教院僧正晃海大和尚を招いて康国寺を開山したのが始まりで、その塔頭寺院です。仙台東照宮の拝殿から南に東六番丁および清水小路へと直線的に接続する約10町(約1.1km)の参道も建設され、梅田川に架けられた橋(現東照宮前橋)の南詰めに下馬が設置され、下馬より南側が門前町として御宮町と名付けられました。下馬は梅田川より北側が結界であることを示し、仙台東照宮の鳥居と梅田川との間の参道両脇には寺院が配置され、これら寺院の1つが当院となります。創建当時、忠宗は東照宮の祭祀料として500石、仙岳院関係に500石の合計1000石(後に1440石)を仙岳院に管理させ、その後の歴代藩主もお墨付きを与えています。開山以来、平泉中尊寺の歴代別当を兼ね、仙台藩領内の寺院では筆頭の格式であり、江戸寛永寺の末寺ともなりました。承応年間に境内に山王権現社勧請しています。東照宮遷座式には御布施が2万両を超えたとも云われ、当時の幕府への配慮が窺えます。子院(傍院)として延寿院宝蔵院、成就院、吉祥院がありました。また、真浄殿(伊達綱村が仙台東照宮境内に造営)には2代徳川秀忠から14代徳川家定までの歴代江戸幕府将軍の13基の位牌を安置。
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明治維新まで仙台藩一門格筆頭寺院として寺勢を保ち、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仙台東照宮とは分離し寺院として独立。多くの子院は廃寺となり、真浄殿に安置されていた歴代江戸幕府将軍の位牌も失われ、真浄殿は仙岳院本堂脇の境内に移築されて守り本尊と歴代住職の位牌を安置するようになりました。昭和期には万日堂が清浄光院万日堂として当院から独立。現在の仙岳院本堂は明和2年(1765)の火災後の明和3年(1766)に再建したもの(棟札有)。木造平屋建て、間口3間、奥行6間、入母屋、桟瓦葺、妻入、向拝一間、江戸時代中期の御堂建築の遺構として貴重であり平成8年に仙台市登録有形文化財に登録。寺宝には御本尊である釈迦三尊像(釈迦牟尼仏・普賢菩薩・文殊菩薩)や薬師三尊十二神将立像(旧東照宮本地仏)、阿弥陀如来坐像、五大明王像、馬頭観音菩薩坐像、宝冠阿弥陀如来坐像があり、何れも平成9年に仙台市登録有形文化財に登録。
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境内にある観音堂には小萩観音が安置され仙台三十三観音第11番札所となっています(御詠歌:あとたれし神もすずしめ法の花咲くやつつじが丘のみむろに)。小萩観音は十一面観音で平安時代末期から鎌倉時代に生きた石塚民部守時の妻小萩の念持仏とされ、行基の作と伝承されています。守時は奥州藤原氏一族の藤原忠衡の家来で、文治5年の奥州合戦の際に忠衡の女児を源頼朝軍から匿い、夫婦とも陸奥国賀美郡清水村(宮城県加美郡色麻町清水)の清水寺にいる弟の観円のもとに移り出家。元久2年に守時の故郷である陸奥国宮城郡小田原村福沢(宮城県仙台市青葉区宮町4丁目)に移り、福澤明神(福澤神社)に観音像を納めました。女児及び守時が死んだ後、小萩は福澤明神の宮守をしながら観音堂を建て2人の冥福を祈りました。文永元年に天神社(長命坂天神、長命荘天満宮)が創建されると小萩観音は天神社へと遷されます。天神社は慶長16年に玉田崎へ遷宮し、慶安2年に仙台東照宮の普請に伴い東に移動させられ、寛文7年には更に榴ヶ岡に遷されて天満天神宮(榴岡天満宮)となりましたが、これに合わせて小萩観音も移転し、天満宮の別当寺萩徳山仏生寺となりました。明治維新期に仏生寺は廃寺となり、小萩観音は一時商家の所有となり、その後当院が譲り受けました。
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天台宗仙岳院…『仙岳院は天台宗比叡山延暦寺を本山とし、1654年(承応3年)二代藩主伊達忠宗公が幕府に願って東照宮を勧請し、その別当寺として創建したものである。御本尊は釈迦三尊(釈迦如来・文珠菩薩・普賢菩薩)で併せて、東照宮本地仏の薬師如来及び日光、月光両菩薩と薬師十二神将もおまつりしてある。いずれも京仏師幸和の作である。創建当時、東照宮の祭祀料として五拾貫文(小田原、荒巻の地、黒川郡穀田が知行地)仙岳院関係に五十貫文、合計百貫文を忠宗公は仙岳院に管理させた。忠宗公など歴代藩主のお墨付は本堂に現存す。東照宮遷座式には伊達騒動の立役者原田甲斐守が奉行を勤め、そのときのお布施は合計二万両であった。(仙岳院三世亮栄師の記録)これらのことは仙台藩がいかに幕府に気をつかったかを教えている。初代最教院僧正晃海大和尚以来歴代平泉中尊寺別当と兼ね、仙台藩一門格筆頭寺院として明治時代に至り神仏分離により東照宮と分る。慶応4年(明治元年)7月2日より10月12日まで北白河宮能久親王(輪王寺宮公現法親王)ご宿泊、その部屋は現存している。御本尊釈迦三尊や薬師如来のほか仙台札所十一番の十一面観世音菩薩(小萩観音と称し奈良時代行基菩薩作)を奉安し、更に阿弥陀如来、地蔵菩薩、千手観音、聖観音、不動明王、大黒天、弁財天、歓喜天、山王神、そして天台大師、伝教大師、慈恵大師、加えて二代藩主忠宗公(忠宗公のお像は現存しているものは当院のもののみ)等を奉安。朝夕法華経を読誦し国家の安奉と参詣の方々の家内安全仏果増進と福寿増長、福徳円満の為のお祈りをしている。一香を献ぜられんことを。【仙台三十三観音第十一番札所小萩観音】札所十一番十一面観世音菩薩は「小萩観音」と呼ばれている。文治5年(1189)頼朝の平泉征討のとき藤原秀衡の三男和泉三郎忠衡の女児五歳を家来石塚民部守時、同妻小萩が護って加美郡色麻村清水寺観円(守時弟)のもとに身を寄せて出家する。元久2年(1205年)に主従共に仙台に移る。女児守時の死後小萩は現在の東照宮近くにお堂を建て女児の護持仏の十一面観世音菩薩(行基菩薩作-奈良時代)を念持仏としてまつりその冥福を祈ったという。東照宮建立の際、天神社と共に別当寺としてつつじが丘にうつされ萩徳山仏生寺と称した。明治維新後廃寺になり、観音さんは民家の所有となった。仙岳院十五世亮湛僧正が遺憾に思い、買収して仙岳院にまつったものである。「あとたれし神もすずしめ法の花咲くやつつじが丘のみむろに」。【瑠璃殿(宝物館)】薬師如来の浄土を瑠璃光浄土という。それにちなんで、薬師如来を本尊とするこの宝物館を瑠璃殿と名づけた。本尊の薬師如来は東照宮の本地仏としてまつられたもので東照宮、仙岳院創建時(1654-承応3年)京仏師法眼左京幸和の作である。日光、月光両菩薩、十二神将も同人の作である。このほか如意輪、馬頭、多羅、千手、十一面等の各観音菩薩、烏枢沙摩、不動、金剛夜叉、軍陀利、大威徳、降三世の各明王、三面大黒天、歓喜天、毘沙門天、弁財天、荼枳尼天等の諸天。その他仏部、菩薩部、明王部、天部の仏画二百余軸、各士の書、山水等合せて三百軸を蔵し、毎月テーマを設定して展示替えをしている。特に五代藩主吉村公筆の東照宮縁起、融通念仏由来記は貴重である。御来観下さい。御希望によっては、特別に展示を可能です。団体来観はご予約下さい。』
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釈迦殿(本堂)。
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不動明王と六地蔵菩薩。不動明王(倶利伽羅不動剣と羂索)。六地蔵菩薩…大堅固地蔵(天道にある者を導き守る)、大清浄地蔵(人間道にある者を導き守る)、清浄無垢地蔵(修羅道にあるものを救う)、大光明地蔵(畜生道に落ちている者を救う)、大徳清浄地蔵(餓鬼道に苦しむ者を救う)、大定智悲地蔵(地獄道に苦しむ者を救う)。
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不動明王。
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一代守本尊堂。
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瑠璃殿へ。
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瑠璃殿の地蔵。
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瑠璃殿。
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瑠璃殿(宝物館)…『薬師如来の浄土を瑠璃光浄土という。それにちなんで、薬師如来をご本尊とするこの宝物殿を瑠璃殿と名づけた。額の文字は、当院15世亮湛僧正の筆である。ご本尊の薬師如来は、東照宮の本地仏(徳川家康公は薬師如来がかりにこの世にお姿を現わされたという信仰に基づく仏様)としてまつられたもので、東照宮創建時(1654-承応3年)京仏師法眼幸和の手に成るものである。また日光、月光両傍侍菩薩像、薬師十二神将も幸和の作である。十二神将は十二支に配して薬師信仰者を守護するとされている。「子-毘羯羅大将。丑-招杜羅大将。寅-真達羅大将。卯-摩虎羅大将。辰-婆夷羅大将。巳-因達羅大将。午-珊底羅大将。未-額爾羅大将。申-安底羅大将。酉-迷企羅大将。戌-伐折羅大将。亥-宮毘羅大将。」。このほか、阿弥陀如来、如意輪観音、百済観音、十一面観音、聖観音、千手観音、馬頭観音、多羅菩薩、地蔵菩薩、烏枢渋摩明王、妙見菩薩、三面大黒天、歓喜天、弁財天、荼枳尼天(稲荷の神体)、双身毘沙門天、維麻居士像等を奉安している。軸物は浄土曼荼羅、涅槃曼荼羅、一心十界図、金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅、狩野探幽筆の維摩居士及び出山の釈迦、木村了琢筆の不動明王、聖観音、文珠菩薩、普賢菩薩、及び徳川家康公や、七仏薬師、五代藩主吉村公念持仏の愛染明王、橋本雅邦筆の慈母観音その他仏画多数。書には徳川家康公、伊達政宗公、澤庵和尚、藩主の書、北白川能久親王、吉村公の東照宮縁起、融通念仏由来記、中林悟竹など名士の書多数。その他の什物としては天海版大般若経六百巻などの経典類、切込焼の大壷、水差、猪口、皿、平戸焼の茶碗、藩主接待の膳部一式、瀬戸物、漆器類多数を収蔵している。これらの収蔵物は、特に軸物類は二百軸を上まわっているのでテーマによっては掛け替えている。薬師如来にご参拝かたがた、内部拝観ご希望の方は、庫裡のほうにお声をかけて下さい。また、ご本堂及び生れ年守り本尊堂へも、ご参堂の上、ご一家、ご自身の平安をご祈念下さい。院主敬白』
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鶴の松。
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クロマツ・樹齢約310年。仙台市制施行88周年記念名木・古木88選(昭和52年11月10日指定)。
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大乗妙典一宇一石供養塔。
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小萩観音へ。
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小萩観音。
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小萩観音堂内。
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小萩観音前石仏・宝篋印塔等。
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仙台札所十一番小萩観音…『札所十一番・十一面観世音菩薩は「小萩観音」と呼ばれている。文治5年(1189)頼朝の平泉征討のとき、藤原秀衡の三男和泉三郎忠衡の女児五歳を家来石塚民部守時、同妻小萩が護って、加美郡色麻村清水寺観円(守時弟)のもとに身を寄せて出家する。元久2年(1205)に主従共に仙台に移る。女児・守時の死後、小萩は現在の東照宮の近くにお堂を建て、女児の護持仏の十一面観世音菩薩(行基作-奈良時代)を念持仏としてまつり、その冥福を祈ったと言う。東照宮建立の際、天神社と共に、別当寺として、つつじが丘にうつされ、萩徳山仏生寺と称した。明治維新後廃寺になり、観音さんは民家の所有となった。仙岳院十五世亮湛僧正が遺憾に思い、買収して仙岳院にまつったものである。「あとたれし神もすずしめ法の花咲くやつつじが丘のみむろに」』
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小萩観音の隣りの建物。
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正一位笠松稲荷大神。
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笠松稲荷社の前にも石灯篭や石仏などが沢山ありました。
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七福神堂
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反射してわかりにくい写真ですが七福神がおります。
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