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山神碑(大正14年)。
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狛犬一対(昭和47年9月吉日・部落一同建立)。
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狛犬というか完全に狼です。阿吽。
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毛並みがリアル。
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当神社は秋田県鹿角市の不老倉(ふろうくら)鉱山に関係した神社であるとも云い、天和年間に発見された当時は狼倉(おいぬくら)鉱山と呼ばれていたそうです。
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狼(おいぬ)=不老(おいぬ)ってことらしいです。「おいぬ」は狼のことで、明治初年頃までは奥羽山脈の奥地に生息しており、山の神の使いであることからこの地方では御犬と尊称していたそう。
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参道の階段は一部腐食しているので少々危険です。落ちるわけではありませんが気を付けましょう。
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御祭神は大山祇姫命。姫なので女神としています。山の神といいますと一般的には女神ですが、記紀では男神として登場します。なお、当神社では山神の他にオテンマ様が祀られているそうです。所謂「御伝馬」に由来するかと思ったのですが、ここではオテンマ様は山ノ神の親神であると云います。山ノ神の親神というと伊邪那岐神と伊邪那美神が思い浮かびますが違うようです。オテンマ様(テンマサマ・オデンマサマとも呼ばれる)は青森県南部地方で広く信仰されていた土着神であり、テンマには、「天摩」「天魔(神)」「天間」「天婆」等の文字があてられるそうです(土着神のオテンマ様と天満大自在天神が読み方の音韻上の類似から混同され習合したとする混淆信仰)。この神は、中世以前の古い時代から信仰されてきた民俗神の一つでその性格については不明。性別は女神とされており男根信仰が盛んに行われたそうです。主としてお産や病気の神、子宝の神として祀られており、祟り神として畏怖もされました。尊容は長い髪を垂らし右手に柄の長い鉞(斧)を左手には経巻を持つ、あるいは、天神と習合した習字箱のようなものを持った女性像が伝わっています。御神体を獅子頭(権現様)によって表象しているものが複数件みられ、馬頭観音とも混同されていたそうです。後世には天神と混同されたため天満宮に男性器を祀る信仰がそのまま受け継がれました。天神の学問や子供を守る御神徳が新たに入り、天神を山の神として、又は京都からきた女神とし山の神の妻、もしくは天神の脇侍に山の女神像を祀り夫婦・親子神として信仰されています。こういった背景から考察すると大山祇姫命の他にオテンマ様が祀られているというより、山の神(女神:大山祇姫命)=山の神の妻(オテンマ様)が祀られているといった感じがしますね。
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なお、天明2年からの棟札が4枚が残っているそうで、この棟札では山神の本体は毘盧遮那如来であるとしているそうです。
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石灯籠一対。
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紀年銘は…う~ん…昭和18年かな。
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手水石(奉納山神社・昭和16年旧9月12日)。
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手水石の横にあった石。
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社殿内。中央には右手に斧、左手にナワを持った女性の山神立像が祀られています。大山祇姫もしくはオテンマ様です。
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両脇には大きな黄鉄鉱の塊が祀られています。なるほど…鉱山か。
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神額「山神社」など。
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山ノ神神社のすぐ近くにある夏坂御番所跡…『南部藩には、藩境を警備する「御境番所」と、人馬や荷物を改める「中番所」があったが、当番所は後者に属する。安永6年(1777)、不老倉街道からの人馬の通行が増大したので業務の利便をはかるため、夏坂中央から当地に移転し、明治初期まで存続した。』。寛政2年の「高山朽葉集」では「夏坂村入口右に番所有り。家十軒、餓年は半は減んず」と記されています。「雑書」慶安元年11月10日の条に「三戸田子関村之御番所、夏坂詰能所之由にて引候由、三郎右衛門・半左衛門状を以今日申上る」とあるのが夏坂御番所の創始。当番所を「邦内貢賦記」や「本枝村付並位付」は機能面から物留御番所、「郷村古実見聞記」は位置の面から中番所と表現。「邦内郷村志」は往来万物を点検する関所と説いていますが、特に尾去沢銅山からの御用銅を野辺地湊へ運ぶ重要な通路でした。当地には天和2年キリシタン、貞享5年の捨馬の制札が設置されていました。なお、当地には御番所が置かれていましたが、伝馬所はありませんでした。
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