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岩屋へ向かいます。
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変わった模様の鳥居(も組奉納)があります(魚見亭前付近)。
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嘉永4年4月大安日創建、大正14年2月修理。
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高木蒼梧の句碑「夏富士や晩籟神を鎮しむる」。
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高木蒼梧の句碑…『高木蒼梧は江島神社の宮司で、俳諧の研究者でした。著書の「俳諧人名辞典」で文部大臣賞を受賞したことを記念して、当時の江島神社宮司相原直八郎が昭和36年(1961年)に建立したものです。江の島には春の句が多いなかでは異色であり、「夏富士や晩籟神を鎮しむる」(※晩籟…夕方の風の音の意味)の句が刻まれています。』
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玉垣と石灯篭(富士見亭前付近)。
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見晴亭付近。
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八雲庵詩碑(遊江嶋。宝暦2年。一番右)・芭蕉の句碑(右から2番目。台座に「潮墳」。寛政9年)・佐羽齊淡の詩碑(文政5年、昭和11年再建。右から3番目。「瓊砂一路截波通孤嶼崚梨屹海中潮浸龍王宮裏月花香天女廟前風客樓斫膾絲々白神洞燒燈穗々紅幾入蓬雙諳秘跡不須幽討倩仙童」東京玉淵加藤豊書)。
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龍燈松碑(一番左。文化6年。五明楼(遊郭)喜兵衛奉納)・服部南郭の詩碑(一番右「題石壁 風濤石岸鬪鳴雷/直撼樓臺萬丈廻/被髪釣鼈滄海客/三山到處蹴波開 南郭服元喬」)・中央の供養塔は詳細不明。
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芭蕉の句碑・佐羽淡斉の詩碑・服部南郭の詩碑…『芭蕉の句碑(右から2番目)は、握り飯の半面を押しつぶしたような素朴な碑型の河原石で、「潮墳」の碑と称されて観光客に親しまれています。青緑の色濃い自然石を程よく活用して「疑ふな潮の花も浦の春はせを」と彫りこまれたこの句は二見ヶ浦(三重県)での作ですが、ここの自然環境に溶け合っています。佐羽淡斉の詩碑(右から3番目)は、野火で碑面が剥落していたのを、4代目の子孫が再建したものです。淡斉は、上州桐生の人で、大窪詩佛門下の詩人です。全国の名所旧跡を遍歴して百詩碑建立を図り、江ノ島の碑はその第1号として建てられました。服部南郭(右から4番目)の詩碑は、島内で一番古い詩碑で、高さ95㎝、幅35㎝表に七言詩、背面に文化2年(1805年)これを建立したと識語されてあります。南郭は、京都に生まれ、江戸に出て、儒学者荻生徂徠の門に学び、後に柳沢吉保に仕え、詩文をもって知られた人です。江の島には幾度も来遊し、そのたびごとに、江の島にちなんだ詩をのこしましたが、この詩は南郭の快心の作といわれています。』
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稚児ヶ淵・永瀬覇天朗の句碑。※四時庵紀逸句碑(むかしむかし散るやさくらの稚児ヶ渕)の写真撮り忘れ。
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「桟橋に波戦へる時雨かな」。
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稚児ヶ淵・永瀬覇天朗の句碑…『稚児ヶ淵は島の西端に位置し、大正12年(1923年)の関東大震災で1mほど隆起した波食台地です。この名称の由来は、建長寺の修行僧自休が、江の島へ百ヶ日参詣の帰り、相承院の稚児白菊と出会ったのが縁で恋におちいりました。しかしその恋も実らず、ついには白菊はこの断崖から身を投げ、自休もそのあとを追ったという悲恋物語からおこっています。ここから眺める富士山夕焼けの相模灘の美しさは、まさしく「かながわ景勝50選」のひとつに数えられるものです。永瀬覇天朗の句碑は、たて148cm、横97cmの仙台石の中にきざまれています。この句碑は、もとは岩屋への桟橋近くに建立されましたが、大波で破壊され、再建の際に、現在地に移されました。覇天朗は大正時代に藤沢が生んだ新鋭俳人です。』
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石灯篭一基(龍燈・昭和2年再建)。
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それにしても素敵な場所です。
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参拝客も皆さん寛いでいます。
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江の島岩屋へ突入。昭和46年以来、長期閉鎖されていましたが、平成5年4月から再開。
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江の島№1パワースポット…個人的に、自らのパワースポットアピールされると逆に冷めます(笑)
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両脇にパネルがたくさんありました。一部紹介。
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江の島の浮世絵(相模江之嶋岩屋ノ口・歌川広重)。
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江の島の浮世絵(相州七里濱・葛飾北斎)。
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地質から見た海食洞の生成過程…『今からおよそ7~8万年前、海上に顔を出した江の島は、現在より一まわり大きかったはずですが、はげしい波の力に削られいまのような形になったものです。島の南側にある「岩屋」は今からおよそ6000年程前から、断層に沿って波が掘りすすんだもので、150m程の長さがあります。島のまわりには、ほかにもこの様な海食洞がいくつかありますが、どれも岩の割れ目の弱い所に沿って波が掘り進んだことがわかります。島の中央の大きなくびれを「山二つ」と呼んでいますが、これは大きな洞穴が崩れて出来たものと考えられます。「山二つ」のそばには、現在も波が掘り進んでいる岩屋があり、竜池洞と呼ばれています。』
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1.今から7~8万年前、海底が隆起し、現在の江の島が出現
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2.波が断層に沿って徐々に波食を開始。
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3.波食が進み、現在の岩屋の原形が出来上がる。
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4.島が、たび重なる地震等により隆起し現在の形になる。
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「月岡芳年/芳年武者无類/遠江守北条時政」。
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北条時政と竜神伝説…『北条時政は鎌倉時代の始め、江の島に35日間参籠して、子孫の繁栄を祈願したといわれている。そして満願の夜に、赤い袴に柳裏の衣を着けた端巌美麗な女房が、忽然として時政の前に現れて「汝が前世は箱根法師である。六十六部の法華経を書写して、それを六十六箇国の霊地に奉納した善根によって、再びこの地に生を得たのであるから、汝の子孫は、末永く日本の主となって栄華を誇るがよろしい。但し、その挙動が政道に違うようなところがあれば、七代を過ぎずして滅びるだろう」と言い捨てて帰っていった。その姿を見やると、端麗であった女房は、忽ち20丈ばかりの大蛇(竜)となって海中に入ってしまった。その跡を見ると、大きな鱗が3つ落ちていたが、時政は祈願成就をよろこび、三鱗をもって旗印の紋とした。いま北条氏が7代を過ぎて、なお栄えているのは、過去の善因のためであるとして、江の島信仰の功徳をたたえている。「太平記」5巻より』
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岩屋の石造物(仏像坐像・如意輪観音坐像・弁財天坐像・竜神像・巳像・宝篋印塔身・八臂弁財天坐像・弘法大師坐像・地蔵菩薩立像・大黒天立像・神像・十一面観音立像・千手観音立像・観音立像・不動明王坐像・毘沙門天立像・馬頭観音坐像・愛染明王坐像・不動明王立像・その他尊名不詳像)。
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突き当りを左に行くと第一岩屋(152m)、右に行くと第二岩屋(56m)。
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与謝野晶子歌碑。
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与謝野晶子歌碑…『「沖つ風 吹けば またゝく 蝋の灯に 志づく散るなり 江の島の洞」晶子。こよなく江の島を愛した歌人与謝野晶子は、歌壇、文壇に止まらず、教育、評論、社会運動等、多彩な活動により不滅の金字塔を樹立した、20世紀を代表する文化人であります。歌集「青海波」(明治45年1月刊行)にあるこの歌は、明治44年7月に詠まれました。それから90年余り、蝋の火は今なお灯され、岩屋を訪ねる人の足許を照らしております。書は、晶子研究の第一人者、歌人尾崎左永子女史の筆になります。碑は、藤沢市在住の中山成彬氏の発願により建てられ、市に寄贈されたものであります。平成14年10月吉日藤沢市長山本捷雄』
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『今からおよそ3000万年位前、神奈川県下はほとんど海底で、江の島附近は、静かな海であったらしく砂や泥が厚く積りました。この地層を葉山層群と呼んでいます。今から2500万年程前になると、葉山層は陸起し、丹沢から江の島を通り三浦半島、房総半島まで続く長い山脈のようになったのです。その後、葉山層は削られ、その上に次々に新しい地層が積りました。島の北側には、葉山層の上に積もった逗子層が見られます。現在、藤沢附近では江の島にのみ葉山層が露出しています。岩屋も葉山層から出来ていて、多くの断層や細かいひび割れが入り外観からは堆積した面がはっきりしない地層です。江の島は、度々陸起を繰り返し、島が海面に姿を表したのはおよそ7~8万年前の事と考えられています。』
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第一岩屋。手燭(ロウソク)を渡されました。ロウソクが消えないようにゆっくりと歩いていたら、上からの雫で見事に消えました(笑)
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暗いので写真はあまり撮っていません。ここからは一部写真だけの紹介です。
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洞窟内の石造物は歴史的・民俗学的にも大変貴重な文化遺産です。
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この先は昔から富士山の氷穴につながっていると言われています。冷たい風が吹いてきたらそれは…富士山からの風…。富士山の溶岩がここまで…日本を支えた富士風穴…この奥に蚕小屋が…
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江島神社の発祥の場所。欽明天皇13年(552年)にこの地に鎮座されました。
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狛犬一対。
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第二岩屋へ。
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第一岩屋と第二岩屋の間はオープンスペースとなっています。
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岩屋内は暗いし狭いし…なので、ここで息抜きできますね。景色も良くて気持ちいいです。
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途中、海中に亀石があるとのことで、一生懸命探したのですがまったくわかりませんでした。満潮だったのかな。
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こんな感じらしいです(案内板・パンフレットより)。
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亀石…『ここから、海中を覗くと、波間に「亀石」を見ることができます。波に洗われている姿は、巨大な「亀」が龍宮城へと帰って行くかの様に見えます。(満潮のときは見えなくなる場合があります)この「亀石」は地元片瀬の中村石材の先代の「中村亀太郎」氏がノミをふるった亀であると言われています。』
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第二岩屋はロウソクなし。
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江の島は古くから龍神信仰の地として栄えました。洞窟内に姿をあらわした龍が訪れる人を待っています。
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天女と五頭龍伝説…『昔むかし、鎌倉の深沢山中の底なし沼に五つの頭をもつ悪龍が住みつき、村人を苦しめていました。子供をいけにえに取られることから、この地を子死越と呼んで恐れられていました。ある時、子死越前方の海上に密雲が何日にもわたってたれこめましたが、天地が激しく揺れ動いた後、天女が現れ、雲が晴れると今まで何もなかった海上に一つの島ができていました。これが現在の江の島とか。天女の美しさに魅せられた五頭龍は、結婚を申し込むのですが、悪行が止むまではと断られてしまいました。その後、心を改めて結婚することができたと言われています。この伝説の天女が、江の島に祀られている弁財天といわれ、五頭龍が龍口明神社として鎌倉市腰越に祀られています。』
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願い事を祈りながらゆっくり2回手を叩き、2回とも光れば願いはすぐ叶い、1回だけ光れば願いはいずれ叶い、光らなかったらあなたの努力次第。何度も叩くと願いは叶わず。
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知らずに何度も叩いてしまったので帰ります。
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帰りの参道…全然進みません。
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なぜなら「ふじさわ江の島花火大会」だから。
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