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三戸郡南部町小向。
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句碑がありました。
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達筆にて読めず。
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春松という方です。
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参道鳥居。
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拝殿が見えてきました。周囲は鬱蒼としています。
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御祭神は誉田別命。例祭日は旧暦8月25日。
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南部2代藩主實光公により城内守護・藩中安全の祈祷所として創建されたと伝えられます。
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「邦内郷村志」によりますと、本三戸館跡、馬場館跡、小向小四郎旧館跡、八幡宮、三光庵、隅観音堂が記されています。小向村の東側は天保12年に奥州街道を境に沖田面村に属し、支村の聖寿寺も分離。中心集落の北端に若宮八幡宮があり、西南に稲荷神社があります。
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拝殿内。
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狛犬一対(昭和59年8月吉日)。
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手水石(大正13年2月)。
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手水石(昭和53年9月)。
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十和田山碑。
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明神碑。
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青面金剛像碑。
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真田式部少輔清鏡墓と書かれた標柱。卒塔婆らしきものも落ちています。真田清鏡は真田幸隆の庶子。真田幸隆が領地を追われ上野亡命中の天文10年、海野幸全の下に寄宿しますが、その際に幸全の娘に男児である清鏡を産ませたと言う話が残されています。真実であれば、真田兵部昌輝の兄、信綱の弟となり、本当は幸隆の次男。真田清鏡はその後、羽黒山の修験者となり、羽黒山醍醐坊の開山となります。天正19年、豊臣秀吉の奥州仕置に際し、不満を持った南部一門の九戸政実・実親兄弟が南部宗家に対して興した九戸政実の乱では四戸家の南部利直を支援。その恩賞として南部利直から霞廻りの際に名主の家に宿泊出来る特権を得ています。しかし慶長4年に南部家と南部城中に宿泊時に些細な行き違いに憤って切腹。城門に腸を叩きつけたといいます。醍醐坊は子孫の七郎右衛門が継ぎ、南部利直は清鏡荒神社を創建して清鏡の霊を祀ったと言われており、清鏡の墓は羽黒山奥之院の荒沢寺と羽黒山麓の金剛寺院にあると云います。
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そういえば地図にも若宮八幡宮のところに「真田清鏡墓」とありました。で、どれなんだろう…。
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高く生い茂った草むらの中に墓石がたくさんありますが…
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藪漕ぎして辿り着くも…
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何となく新しい感じですね。
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そしてしばらくの期間をおいて2度目の参拝訪問時の写真がこちら。綺麗に草刈りされています。以前来た時とは別な場所に感じるくらい綺麗に整備。
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で、結果として…真田清鏡墓は、このお墓がたくさんある場所ではなく…まさに標柱があった場所でした。これは気付かない。以前の藪漕ぎは無駄でした。
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